キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

1999年10月

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1999/10/31

焦点を合わせる祈り       

 祈りには2つあります。それは「交わりの祈り」と「求める祈り」です。多くのクリスチャンは「交わりの祈り」は日毎しておることでしょう。しかし「求める祈り」のことは知らないのす、いや少なくとも熟達していないのです。イエス様は仰せられます。「求めなさい。そうすれば与えられます。」 多くのクリスチャンは、このみ言葉の豊かな恵みを実際には体験していないのです。

 イエス様のなさった喩に「貧しいやもめと不義なる裁判官」(ルカ18:1〜8)のお話があります。「求める祈り」の分かりやすい真理を教えて下さっているのです。このやもめのしたことの第一の特長は、まず求める「目的」を一点にしぼっていることです。一つのことに焦点をあわせて祈る野です。
 ヘブル11:11に有名な信仰の定義があります。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」

 この「事柄」という言葉に注意してください。この言葉は漠然としたことをさしてません。祈る目的、祈る目標がはっきりして一つ一つ具体的であるということです。

 「確信」という言葉も聖書の原語では意味が深いのです。これは土地などの「権利証書」をさします。土地はポケットに入れるわけにいきませんし、家の金庫にも入れられません。しかし国家的保証として保護確認されています。同じように私たちの信仰は神の王国の国家的保証として保護確認されているのです。

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 先にあげたヘブル書の言葉に従って、もう一つ学びましょう。「まだ見ていない」ということも信仰の一つの実態であります。不動産屋に行って土地の権利証書を貰ったとしても、具体的に土地を見てもいないということはよくあることです。パウロになぞって言えば、「既に見ているものは信仰する必要なない。まだ得ていないし、見えていないからこそ信じるのである」(ローマ8:24参照)と言うことができます。

 しかし、見ていないからと言って不確実なのではない。前述したように神の王国の国家保証があるのですから。

 もう一つ、つけ加えている「確認」という言葉もまた面白いのです。

 「確認」という言葉は原典では、ギリシャ語で「エレンコス」というのです。これについては、いつも私の推奨する織田昭先生の「ギリシャ語小辞典」にこう説明があります。この言葉は「細目までチェックして確認すること、事実確認です。現代のギリシャでは、教師が生徒の成績を確認して書いた通知簿をエレンコスと言い、また市バス等で乗客が切符を所持しているかどうかを確認することです」と。

 「細目までチェックして確認すること」という言葉で私は例の貧しいやもめのことを思い出しました。この婦人は何度も不義なる裁判官のところに行って熱心に「正当な裁判を自分のためにしてくれるよう」頼みました。そこで、この裁判官の言動に少しでも良い兆候が出るのではないかと、やもめは毎日毎日注意していたことでしょう。エリヤが何度も彼のしもべに地中海のかなたに雲が表れはしないかと見にやったように(列王上18:43)。

 ここには執念といいたいほどの熱心さがあります。持続、継続する、あくまで失望しない祈りです。一つのことに焦点をあわせて祈るとき、こういうことが起こります。「求める祈り」の第2の特徴です。

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 さらに「求める祈り」の第3の特徴をあげたいと思います。それはエモーション(情動)です。エモーションとは感情の動きです。日本人は感情を激しく動かすことが下手です。韓国の人はこれが上手です。(もっとも言いにくいことですが、怨念の情も韓国の人は深いのではないでしょうか。ところが日本人は感情が淡泊です。これには良い面もあります。しかし人に与えた悪しき仕打ちも忘れてしまうのです。最も悪いのは多くの人が言わない事ですが、韓国民に与えた日本人の醜い軽蔑心を忘れてしまっていることです。これが日韓感情のもつれの原因だろうと思います。)

 さて、今回の京都のキリスト2000年フェスタでチョウ・ヨンギ先生の語った「祈りについて」のメッセージに少し昔先生から聞いた話もまじえてこの文章を書いています。印象が深かったのは、多少つけ加えるように先生が語ったのですが、この「エモーション」です。これは旧師手島先生もよく強調されました。

 しかし、「そういうエモーションがどうしても起こりません」という人がる。何故か。火の燃えるように感情を起こそうとしないからです。それは、 「感情を意志によって起こすことが出来る」ということを知らないからです。俳優さんが悲嘆の場面で簡単に泣けるのはこれです。泣こうと思うから本当に悲しくなって泣けるのです。もう一つは、

 「イメージを作れること」が原因です。運動選手が勝利の栄冠をイメージする時、精神が燃え、練習にも熱が入ります。(パウロに言わせれば、神の賜物だって、いったん頂いたものは再び燃やせるのです。まして自分の感情を鼓舞するくらい自分で出来なくてどうしますか。)

1999/10/24

すべての事を              
       感謝できるには……         

 聖書は「すべての事を感謝せよ」と言う。果たして、そんなことが出来るだろうか。千円の金を落してもイヤな思いをするのに、まして百万円を失ったらどうだろう、それを感謝できるだろうか。

 出来のいい人だったら、表面では顔色を変えないで感謝の言葉を吐くことは出来るかもしれない。しかし、本心からそれが出来るだろうか。

 まして、最愛の子どもが死んだ。信頼していた友に裏切られたなどという時。人生にはいろんな問題が起こる。逃げ場がないような状況。ひどい悲しみ、怒り、恐怖、そんな時、私たちは感謝できるか、喜べるか。賛美できるか。

 マーリン・キャロザースの「賛美の力」は、もう古典になったと言っていい。浜崎英一先生の訳した、あの黄色の表紙の本が出た頃。当時、積極大胆、前向き肯定思考のキリスト教版ではノーマン・ヴィンセント・ピールの本や、またチョー・ヨンギさんの本が出かけていた頃だ。

 積極大胆、前向き肯定の思考は福音思考の本流からは少々離れているという感じはいなめない。純粋信仰の人から見れば異端的であるし、平凡信仰の人にとってはけっこう理屈がむつかしい。

 そこへ出たのは、このマーリン・キャロザースの「賛美の力」。聖書的で単純で分かりやすかった。当時、キリスト教書ではベストセラーになったのではないか。読んで、すぐ実行できそうなのである。

 しかし、私の知るかぎり、この本を読んで「万事賛美」の法則で、その人生や信仰の難関を解決したという人が案外少ないのである。

 なぜだろうか。多分、この本を読んだだけで実行しなかったからだろうと私は思う。聖書に「行いのない信仰は死んだ信仰である](ヤコブ2:26)とあり、また「すべて称賛に値すること、聞いたこと、見たこと、すべて心にとめ、かつ実行しなさい」(ピリピ4:8,9参照)とあるとおり、こうした類の勧めは必ず実行してみなければならないのである。

 私の作った小冊子「笑えば必ず幸福になる」や、もう一つの「だれでもできる『心の強化法』」でも、同様である。

 これらの小冊子を読んで「ああ、これはよいですね。本当ですね。これをやると良いでしょうね」と言って帰るだけではダメなのである。

 「どうしたら本当に笑えますか」とか、「先生、この個所をやって見せてください」と言うようでないと、その人のものにならないのである。 そこで、私が「そうだ、僕が笑ってみせましょう」と皆さんの前でやってみせる、そしてやらせてみる。そのようにして皆さんが「見て、試みてみる」と、次第に分かってくる。体得するのである。

 だから、私は自分を「笑いや心の強化法」のデモンストレーター(実演者)であり、またトレーナー(訓練者)であると思っている。私の教会のS姉は今、老後の健康指導で大分県下を講演して廻っているが、そのなかに私の「笑い」の実践を導入している。なかなかの評判らしい。

 実際のデモンストレーターまたトレーナーとしては、もうS姉のほうが私より上手であろう。そのうち、同姉はNHKあたりの「笑いと健康」などという講座の講師に招かれるのではないか。

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 前述の終わりのほうで述べたことは、こうした実行と実演を実践する場合、「モデルが居れば理解しやすいし、そして自分で見よう見まねで実行、実演してみればよく体得できます」と、いうことなのである。

 ここで「実行」と言うのは実際の現実の場面で実行するということです。「実演」と言うのは、仮想の場面で試みに実演してみる、つまり、ひとり芝居でもするつもりです。相手を作ってやってみてもいいですが、相手を作ってやるのをロールプレイング(役割練習)と言います。

 こうして各自自分で実行し実演することを、「すべての事を感謝しましょう」や、あるいはマーリン・キャロザースの「賛美しましょう」ということに、あてはめてやってみてください。そうすれば「感謝や賛美しましょう」の実際効果が実際に分かって来ます。

 「やあ、これはいいですね。よさそうですね」などと、言っているだけでは(つまり思っているだけでは!)物になりません。そこで、私は「すぐ口を使って感謝、賛美を実行しましょう」と奨めるのです。

 すると、やれ「そんな気分になれません」とか、やれ「感謝の心も湧かないのに、私はそんな嘘の感謝はできませんよ」などと、言い始めるものです。

 そこでお奨めします。思い切って、演技するのです。演技というと、それは偽善だという人も居ましょうから、練習と言い直しましょう。

 昔は自転車を練習するのに、今のような車軸の両脇にコロコロまわる補助車をつけることなど、親切なことはしなかった。何度も転びながら自転車を習い覚えたのである。子ども用の自転車のない子どもは、大人用の28インチの自転車のペダルの上のパイプが三角に空いたところに、片足を突っ込んで自転車を斜めに倒しながら覚えたものである。

 つまり、自転車に乗れないながらに「乗る」ということがあるのである。水泳もそうである。泳げない人は、泳げないなりに、泳ぐ練習をする。それは泳ぐ格好をするだけである。人の手につかまったり、浮き袋につかまったり、浅瀬に両手をついたりして、水に浮かぶ練習、泳ぐ格好をする。

 最初、信仰に入った人が祈る時がそうだ。祈りなどしたことがない、だから祈れないのだが、祈るまねをするのである。祈ったことがない人、祈れない人が祈る祈り方があるのである。つまり祈れないながらも、祈る格好で祈る。本当の祈りでないかも知れないが、しかし一所懸命祈る。そういう祈りを、案外神様が一番喜ばれるかもしれません。

 同じように感謝も賛美も本当には出来ないにしても、それができないままに感謝し、賛美もする、これが「すべての事を感謝する」事の始めです。さあ、実演、実行を始めてください。

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 ところで、どんなに辛い時でも、感謝できそうに無いときでも、感謝できる信仰的聖書的基盤をいくつか挙げてみましょう。

 まず、神様はあなたの状況を変えてくださる方だから、前もって感謝できるのです。神様は「のろいを祝福に変えてくださる」(申命記23:5)方です。このことを信じるなら、今どんなに不幸のどん底に居ても感謝を先取り出来ます。賛美をささげる事が出来ます。イエス様がラザロの墓の前でラザロの復活を信じて天の父に感謝したように。

 また、神様に召された者たちには「すべてのことが相働いて益になります」(ローマ8:28)ということを信じるなら、いつでも感謝、賛美の先取りが出来ます。旧約聖書の創世記でヨセフが奴隷や囚人だった時、その状況の中で「自分は幸運な者である」と彼は信じました。

 このような奴隷や囚人の生活もいつか必ず幸福を生む結果になるだろうと考えたのに違いありません(創世記39:2参照)。そして、そのとおりになりました。彼は日曜学校の生徒も知っているように、牢獄から呼び出されて当時の最大の王国エジプトの総理大臣となりました。 

1999/10/17

喜びに覇権を与えよ      

 「喜びに覇権を与えよ」、妙な言葉ですが、おしまいまで読んでください。

 クリスチャンの霊的集会で、聖霊による「笑い」が生じることがあります。先日、私どもの教会で天野先生がいらっした時、先生の按手に促されて「聖霊の笑い」が生じました。みんな踊り上がったり、走り回ったり、そして笑いころげました。ある人が名づけた動物園現象、泥酔現象です。そういう時、中には異様な笑いもあって慣れない人々の顰蹙(ひんしゅく)を買います。(時にはギャーッという悲鳴もある)。

 まだ救われていない人から悪霊が出て行くとき、気味の悪い笑いや下品な声を発することがよくあります。そうして解放されるのです。聖書にも「イエス様が悪霊を追い出されると様々な悪霊がわめきながら出ていった」とあります。 ところで既に神様を信じているクリスチャンから、悪霊がいる筈もないのに、気味のわるい怪しげな声が出たりすることがあるのです。なぜでしょう。そんなことがあり得るでしょうか。

 私自身の例です。私は青年時代、すでにコンバーション(回心)し、第二次体験の聖霊体験もしていました。30歳前には神癒伝道も行っていたし、僅かに異言も出ていました。その頃、私はある聖会に出て、祈祷を指名され、祈ろうとした途端、「クヮッ、クヮッ、クヮッ、クヮッ」と大声の異言が口から飛び出したのです。体全体がてんかん状にひきつり、その異言も又少々奇妙でした。

 私はこの経験を強烈な「噴き出し異言」と称して感謝しましたが、ある友人は「あれはカッパの霊が出たんだ」と冗談を言いました。私はよい気はしませんでしたし、もちろん悪霊とは思っていません。しかし、批判心や不安に満ちていた当時の私の汚れた心が追放されたのだろうと思います。

 前述の笑いの現象も、それぞれの心にあるくったくや、緊張、そうしたものが笑いにさそわれて、くっついて出て来るのだろうかと思います。先年、東京の日比谷公会堂でフレイソン先生がおいでになった時、そのようなあまり楽しくない含み笑いで、全会衆が「ウフフフ、ウフフフフ」と終始したことがあります。

 フレイソン先生はそれをずうっと微笑しながら見続けていたことを覚えています。日本人の会衆から、そういう笑いが出て行ってしまうのを待っていたのかもしれません。

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 解放を期待する聖会と違って普通の礼拝の場で、あまり変な行動をしたくないと思う方は、常々、私の提唱する「笑う練習」をしておけば、聖会でも礼拝でも、温和な明るい笑い声が出て、周囲の会衆に良い感じを与えると思います。

 イエス様はマタイ5:11、12で「あなたがたが私のために罵られたり迫害されたとき、……喜び踊りなさい」と仰せられています。

 喜べるはずも無いときに、力の限り欣喜雀躍して喜びなさいと言うことです。

 そんなことが出来るわけがないと、あなたは思いますか。いいえ、出来るのです。私の「笑えばかならず幸福になる」という小冊子を読んでください。延岡のKさんは。「あの本はすばらしいですね、50冊送ってください」と注文してくれました。皆さんも読んで、喜んで、笑いの実践をしているそうです。

 嬉しいことが無くても、「笑えば楽しくなる、だから幸福になる」という簡単な方法を書いてあります。笑えば、病気も軽癒するのです。

 これは医学的に証明されています。

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 「様々な試練に出会った時、それをこの上ない喜びと考えなさい」(ヤコブ1:2)。

 この「考えなさい」という言葉は英語のヘゲモニーという言葉の原語です。昔よく、政治や労働運動の世界で「彼はヘゲモニーを握った」などと使われました。主導権を握ったとか、覇権を握ったとかいうことです。最近はあまり目にしません。ロシア革命ではレーニンやスターリンが、中国共産革命では毛沢東がヘゲモニーを握った、というように言いましたね。

 そこで、あらためて以上のヤコブ1:2のみ言葉を読み替えますと、「様々な試練に出会った時、喜びに覇権を与えよ」となります。つまり喜びの感情で、心のあらゆる部分、各個の感情や意識に対し覇権を握れと言うことです。

 「試練に出会った時、それをこの上ない喜びと考えなさい」。このような言葉は、たとえ聖書の言葉であっても、たとえクリスチャンであっても、敬遠したくなります。そんなことは出来もしなかったし、今後も出来そうにない。そこで、無力感がその人をとりこにします。

 クリスチャンによくある特有の自己憐憫、哀れっぽさ、行動力不足、元気の無さ、などを生むのです。

 「このような私たちの弱さを救うのは聖霊様です。祈りなさい。聖霊充満になりなさい。あなたの弱さは払い除けられます」と教会の指導者は言うでしょう。正しい勧告です。そのとおりです。しかし、どうもインスタントに元気になれない。心が快活に動かない。喜べない。

 そういう時、どうぞ、私の「だれでもできる『心の強化法』」を読んでください。その中の出来そうなことから実行してみてください。これは決して聖霊様冒涜ではない。聖書の約束する「言葉の力」です。ぜひ、やさしいことから試みてください。かならず達成できます。

 信仰のゆえに損をしたことがありますか。その損したことを、イエス様が天において神様に向かって申し上げています。「父よ、この者の、この損失は、この者の宝です。天の倉に記念品として飾りましょう」。そのお姿を視覚化してイメージしましょう。そして「イエス様、こんなにお褒めくださってありがとうございます。ワッハッハ、ハレルヤ!」と叫びましょう。

 この言葉を何度も繰り返すのです。この言葉にあなたの心を支配するヘゲモニーを与えましょう。そうする時、喜びが湧きます。かつてのあなたの損失は天の宝になっているのですから。 

 

1999/10/10

電 話 帳 で 祈 る       

 山室軍平(やまむろぐんぺい)という人を今の若い人たちは知っているだろうか。岩波の広辞苑ではこう書いてある。「宗教家。日本救世軍の創設者。岡山県の人。1895年(明治28年)救世軍に入り、キリスト教社会事業に貢献。(1872〜1940年)」

 この山室軍平先生が病気で入院された時、枕元に祈祷名簿を置いて、そのカードをめくって一人一人のため祈っていたという。

 私などそうだが、人の名前を忘れやすい人は、ぜひこのような名簿を用意して、祈りにも牧会にも活用すべきである。初めて会った時の状況や、写真なども貼りつけておくと良い。

 パウロの手紙など、しばしば最後のほうで人の名前がでてくる。「だれそれさんに、よろしく」というわけである。

 特にローマ人への手紙では、その十六章に挨拶が列記されている。多分、パウロの手元にはこうした名簿があったことであろう。

 名簿で思い出すのは旧約聖書のエズラ記やネヘミヤ記である。善い奉仕をした人物の名前など忘れずに書き残している。

 実は多くの牧師たちは、このような祈祷名簿を必ず持っているに違いない。

 私の知っている方は、旅行の時にもこれを忘れない。行く先、行く先のホテルでこの名簿を出して疲れもいとわず祈っておられた。

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 全日本リバイバルミッションの機関紙に(たぶん今年の8月号ごろでなかったか)「電話帳で祈ろう」というアッピールが載っていた。「あなたの町に住んで居るあなたの隣人たちのために祈りましょう。電話帳を使って住民一人一人のために祈りましょう」と。

 これを読んで、「奇抜だが、しかしぜひ傾聴し、実行したい提言であります」と、「巻頭短言」に書いたものです。ところが今、

 そんなことを書いたことを思い出して、私は申し訳なくなってきた。

 「そうだ、私はそんな気のきいたことを書いておいて、一向に実行していなかった」と。

 私はさっそく大分市の個人名の電話番号帳を開いてみた。アの個所から始めて、各人の名前と、その住所を声を出して読んだ。つぎつぎに祈って、やっと一頁を終わった時、ある実感が心に湧いた。

 私どもの町の大分市の人口は約43万人である。戸数にして約十万戸、電話の数もそのくらいであろうか。この電話の名前を読み上げる時、それらの人物の実在感がなんとなく伺えるのである。そうして大分市民の顔が見えるような気がしたのである。

 不思議である。「大分市民のために祈る」などと言っている時は、その感じが漠然としているが、この場合は市民が個人ひとりひとり、見てもいない顔であるが、その顔が私の魂に見えて来るのである。

 よく言われる、「『人類を愛する』と言うのはやさしい。しかし現実の隣人を愛するのは難しい」と。包括的な抽象的な世界人類ではなくて、日本国民でもなくて、大分市民でもない。具体的な一人一人を意識し、愛することは難しい。

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 牧師として正直な告白をすると、教会の信徒一人一人を覚えて祈るということは案外容易でない。名前だけを読みあげるだけでも信徒の多い教会では大変であろう。

 しかし、たとえ日に分けて祈ったり、あるいは急ぎ足の祈りであったとしても、心をこめて一人一人のために祈るとき、不思議に信徒の方々にたいする個人的関心や愛が高まり、霊的洞察も深まってゆくということを、牧師先生がたなら、どなたも経験しておられると思う。

 こう考えた時、不意に神様は私に語られた。「私の手元にお前たちの名簿が無いと思うか」。私は驚いて主を見上げた。そしてヨハネの黙示録の一節を思いだした。

「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった」(黙示20・12)。

 たしかに神様の御許には全人類の名簿があるのだと、この黙示録の言葉は、それをさしている。神様は一人として取りこぼすことなく、私たちを見ておられる。私がたった一頁電話帳をめくって祈っただけでも、多少の愛が湧いた。

 まして、神様はあふれる愛をもって、関心をもって、私たち一人一人を見守ってくださるであろう。それが分かって、私は泣いた。 

 

仏 壇 を 焼 い た    

 天野先生のリバイバル聖会に福田伝道師の85歳のお母さん、山口ミツさんも来られた。家に帰って、すっかり元気になっている自分に驚いたそうだ。片付け物や洗濯、アイロン、食事の用意。なんでもテキパキである。自分で不思議、「私ゃ、変わったんや」と自分で言っている。▼聖会では別に天野先生に按手祈祷してもらった訳ではない。もっとも皆さんが床の上にゴロゴロしているのを見ても格別、気にならなかった。かえって小さい子どもたちが手を伸ばして、一所懸命に天野先生の祈りを求めている姿に感動したという。▼最後の悔い改めの祈りの時には、天野先生の言葉どおりに、床に平伏して祈った。そして家に帰って、驚くほど元気になっている自分に気づいたのである。▼ついに、翌日福田伝道師と一緒に海岸に行って家の仏壇を完全に焼却、灰にして海に流したというわけ。 

1999/10/3

 聖霊による「臨界」(?)作用     

 9月29日、天野弘昌先生を大分に迎えて、2日にわたる3回の聖会を持ちました。宮崎教会から20数名の応援もあって、毎回100人前後の会衆であったと思います。当教会としては大きな人数です。しかし、人数はとにかく、過去の当教会で持った如何なる聖会に比べてみても比較にならないほどエキサイティングな聖会でした。

 第1回の9月29日の夜の集会は2つの意味で大変でした。1つは先生の按手祈祷にはいってから、みんなバタバタ倒れる。しまいには宮崎教会の信徒諸兄姉が先導する格好で、踊る人、走りまわる人、いわゆる動物園的な泥酔模様が起こる。この第1回の天野先生のメッセージ主題は「ペンテコステ」でしたが、まさしく聖書にあるとおりのペンテコステ模様で、人々は驚き怪しみ惑う(使徒行伝2・7、12参照)集会になってしまいました。これが大変の第一です。

 第2は車両の整理の不手際で、聖会に来会の車が、ある事業所の駐車場にまぎれこんでいた。その事業主の方の車が出られないので怒っている報告が届く。大いにもっともである。教会ではすでに会衆は按手祈祷を受けて、目をつぶって祈っており、また倒れている人も多い。いくら車両番号を大きな字で書いて高くかざしてみても誰も気がつかない。聖会の車両係はどうしてよいか判らないで困っていました。そこへ、私が遅ればせに駆けつけて「これはいけない」と、すぐ教会にとって返し按手中の天野先生に断って、会場を静粛に戻し車両の持ち主を捜し出しました。そうして一応の事態収拾はできたのですが、そこで、

 ふたたび天野先生による按手祈祷が再開、会場の霊的雰囲気は元に戻り、動物園的な泥酔模様はさらに激しくなった時、今度は近所の家から騒音がすぎるという苦情がはいりました。これは説明するとどうやら納得して帰ってくださった。明朝、周辺の家々にお詫びして廻ったが案外にも好意的で穏便にすみました、これは感謝でした。

 こうして多くの人たちは飛んだり跳ねたり、大きな声で笑い、あるいは礼拝室の中を走り廻る、そんな人たちを眺めて、かえって心がシラケ、気分がさめる諸兄姉もいる。さらに、自分がああした昂揚状態に乗れないことを自分の不信仰のゆえだと思って悩む人もいたかもしれないと思います。そうした危険性はありました。特に初めてこうした聖会に出席された方たちは「これは何だ。気ちがい集団か」とか、あるいは「集団催眠か」などと疑惑を抱いたとしても当然だったと思います。第一コリント14・23のとおりです。(なお、天野先生によれば、この時、聖会に対する外からの悪霊の攻撃が強かった由、翌朝、教会の周辺を歩行祈祷してこの攻撃を排除したという重要な事件も起こったのですが、この詳細は後日書くことにします。)

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 明くる9月30日の午前の第二回聖会は非常に恵まれた聖会になりました。霊的障害が排除されていたからでもありましょう。まず宮崎福音教会の高森先生の証しを聞きました。これは前々号に載せたとおりです。 天野先生のこの後での説教主題は「臨在と油注ぎ」でしたが、まさしく聖霊の臨在を覚えさせられ、また濃厚な油注ぎを受けたのでした。

 天野先生の説教の判りやすさ、明るさ、面白さ、力強さ、アドリブの愉快さ、パフォーマンスの豊かさ、小気味のよいフレーズ、レトリックのうまさや、全体の構成の堅牢さ、これらはすべて見事でどれほど称賛してもしすぎではないと思いますが、しかしやはり第一に挙げるべきは、聖霊様に導かれれる先生の霊的謙遜さ、従順さ、大胆さでしょう。

 この第2回聖会での按手祈祷での会衆の倒れたり踊ったりの現象は昨夜よりは静かでした。しかし、聖霊様の静かで圧倒的な臨在はあざやかで、その平安と内的ダイナミックさは昨夜に勝るものでした。今回の聖会での最高潮の場面でした。

 この聖会の後、宮崎グループが帰って行かれたのは淋しく、また残念でしたが、しかし感謝して別れを惜しんで、車をお送りしたことです。

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 さて、9月30日の夜の第3回聖会では、まずアメリカのスミストンから帰ってきたばかりの別府の加藤先生、永野先生のスミストン報告を聞かせていただきました。幼い子どもたちまで聖霊に満たされているという証しは教会学校不振の日本の教会は大きな警鐘であり希望の鐘です。

 天野先生の説教主題は「信仰」でしたが、内容の紹介は次の機会にゆずります。ただ、「聖霊充満にとどまらず、聖霊流出、聖霊爆発が必要です」と叫ばれた先生の言葉はいつまでも脳裏に残っています。

 メッセージのあと、一斉祈祷にはいって、先生は悔い改めの祈祷を奨励され、30分以上祈ったでしょうか。そのあと、先生の按手祈祷を受けましたが、この夜は先生は特に丁寧に各人に按手され、いつもの事ながら汗びっしょりでした。あちこちに魚市場のまぐろよろしく横たわっている人たちや、手を取って聖霊ダンスの群と、そして一人残らず笑っている聖霊様の親しさに満ちた会場になっていました。

 こうして毎日、メッセージとミニストリーに全心全力を尽くされた天野先生には、どれほど感謝しても感謝し尽くせません。本当に感謝でしが、さらにもっともっと神様に感謝をささげたいものです。

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【付記】聖会の終わった9月30日の夜、テレビは東海の原子力発電所の臨界事故を報じました。各戸は周辺の汚染された空気を入れないため窓を締め切り冷房機も切れ、というような危機状態です。臨界という事の科学的理解が一般市民には困難ですから、社会的不安は一層増大し、故無き恐怖を呼んでデマも飛び交う事でしょう。

 「臨界」とは、放射性物質が核分裂するときに、ある条件下では一つの放射性物質から飛び出した中性子が、次々に他の放射性物質に衝突して核分裂を連鎖反応を起こし、それが異常な発熱、溶解、爆発を起こす時、これが臨界と言います。この臨界状況を拡大推測すると、その連続爆発がついには地球をも崩壊させはしないかと心配ですが、それは私の愚かな杞憂でしょうか。

 さて、こうした物質の核反応とは反対に、霊的な私たちの聖霊経験は、それによく似た連鎖反応の形で影響を次々に与えて行く、つまり異言や笑いや独特のパフォーマンスが隣の人たちや、同室の人たちに移ってゆくのを見るのです。ついには他の教会や他の集団や個人に影響を及ぼして行くのです。現に、そのことが宮崎教会でおこり、私どもの教会でも今回の聖会で起こったのでした。

 天野先生は今回の聖会の後、翌日さっそく岡先生の北九州R教会に行かれました。そこで又、聖霊様による連鎖反應が起こることでしょう。この連鎖反応はシェルドレイクの「形成場の遠隔影響理論」に似ています。(これは「百匹目のサル」という愉快な名前で知られている仮説です。十年ほど前、私もこの週報で紹介しました)。神の力の介入によって聖霊の臨在の場が生じ、動物園的奇妙キテレツな現象が次々と各教会、各人に伝染してゆく現在の私たちの教会の状況に、本当によく似ていると思います。聖霊による臨界(?)作用とでも呼びましょうか。

 

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