キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2000年7月

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2000/7/30
ハレルヤの声が満場に湧き起こる聖誕2000年祭

 先週の7月23日、「キリスト生誕2000年祭in大分」、大分には分に過ぎた大会で、大変でした。

 実は遠い東京では40日間のスーパー・ミッション。もっと、大変でしょうね。滝元明という先生も大きなことを目論むものです。金も大変なら、人集めも大変でしょう。それらのマネージメントは私たちには想像もできません。

 東京は日本の中心、東京でイエス様の御名があがめられ、悪魔の勢力を打ち破られるならば日本は変わるでしょう。今、行われている東京の四〇日間のスーパー・ミッションの為に祈ること、切なるものがあります。

 さて、大分市も小なりといえども、これは大分県の中心。大分市で福音が大胆に称揚され、悪魔の包囲陣を打ち破り、その要塞の一角を崩壊させるならば、大分県はもちろん九州の福音の勝利を、ここで先取りすることになります。

 大分市の中央にある若草公園は戦後いち早くクリスチャン市長上田保氏が開園して、朝日新聞などに大々的に宣伝された公園です。その公園が最近リニューアルされて立派になっていました。この広場で一般市民めあての公開集会を開こうという企画は大したものです。

 最初の発起人はチャペル・ノアの広田先生、受けて立ったのが事務局担当のカルバリチャーチの橋本先生、私は名前だけ、ただ挨拶だけの委員長、会計とミッション・バラバとの交渉に永野先生、宣伝広報が福永先生、更に会場警備が宮脇先生、取り成しの祈りの大役が加藤先生。

 開会前のステージでは賛美チームが明るく強いリズムで歌いあげる。バンドの音が会場一杯にひびきます。そこに市中行進をしてきた200名ほどのパレード隊が入ってくる。

 これだけでも市民は目をそばたてたことでしょう。開会時刻が近づくと、会場にならべた500のスチール椅子が次第に埋まってゆきます。

 ステージで私は隣にいた広田先生の膝をつつきました。「先生、この調子では椅子は一杯に埋まりますね」、広田先生も嬉しそうにうなずきました。そして言いました。

 「釘宮先生、風が出ましたよ、最高です」
 そうです、午後4時の行進が始まる頃は空に雲が出はじめ街を歩く時にはもう、さほど暑さを感じなかったはずです。今は更に心地よい風が吹いて来ました。まさに神様の御手です。感動がステージに渦巻く感じです。「主は生きて居られる。主は生きて居られる」と私たちは口々に主をたたえたものです。

         *

 定刻になりました。広田先生がマイクロホンの前に立って、開会の宣言。いよいよ私が挨拶の番です。慣れているといっても緊張します。 「皆さんに、また皆さんの背後にある大分市民40万の市民、大分県の120万の県民にご挨拶をおくります」、などと言ったように覚えていますが、良くは覚えていません。息をついで、こう言いました。

 「さあ、神様にもご挨拶しましょう、神様への挨拶は、『神様、あなたを誉めたたえます』というヘブル語で『ハレルヤ』と叫びましょう。手をあげて、大きな声で叫びましょう」。

 私は自分の教会で「ハレルヤ」の連呼に慣れていますから思わず言ったのです。何度も何度も会集と一緒に「ハレルヤ」と叫びました。

 考えてみると、伝統的な教会信者の方々や、一般市民の人たちにとっては異様な経験であったかもしれません。

 その次にやったのが「主よ、来たりませ」です。敗戦直後の日本のキリスト教界の伝道スローガンは「日本をキリストへ」でした。これはちょっと、占領軍の威を借りた日本国民への押し付けがましい口調にも思えたものです。私は今、こう言いたいと思ったのです。「キリストを日本に」と。そこで、私は「主よ、来たりませ」、聖書では「マラナタ」です(第一コリント16:22、黙示録22:17参照)。私は、 「イエス様、この会場に来てください。大分市に来てください。九州に来てください。日本にきてください。マラナターッ」

 と絶叫しました。会集の皆さんも一斉に叫んでくれました。「マラナターッ」

 思うに、「ハレルヤ」と「マラナタ」を外の広場で大きな声で連呼したのは、この大分県では前代未聞のことでなかったでしょうか。今後も必ず、続々と起こることでありましょう。

 大分市の中央広場で湧き起こったこの「ハレルヤ」や「マラナタ」の声は、大分県を覆い、真理をさまたげ、県民の魂と教会の活動を圧迫してきた悪魔の空中体制を突き破ったに相違ありません。

         *

 プログラムはつづいて、ちょうど大分県にきていた韓国の学生クリスチャンたちの伝道チームの韓国語による賛美と韓国風舞踊、チマチョゴリを着てきれいでした。

 次に、大分市に結成されて最近めきめき歌唱力を高め、クリスチャンが生まれつつあると聞いているゴスペル・チームが新しい歌を歌ってくれました。かなり訓練されていたし、特に2人の信仰に目を開いてきた証しが披露されて伝道会らしい空気が盛りあがりました。またリーダーの姉妹のソロは抜群で、霊的深みのある声の響きに私はしびれました。

 さて次は、3人の元やくざのミッション・バラバのメンバーの登場です。信田和富兄、井上薫兄、鈴木啓之師、この方々についての記事は今回は割愛、次週の週報に載せます。

 

【私の想い出−10−】

前頁に写真をのせましたが、ミレニアム行進と名付けた市中行進、写真ではよく見えませんが、後ろのほうに吉津姉が赤ちゃんの安基ちゃんをキャリーに乗せて行進に参加しているのが見えます。私も僅か2キロほどの短い距離ですが、やや気負って参加しました。夏の日差しの下で街の中を歩きぬく自信は本当はありませんでしたが。幸いに神様の憐れみですね、本文にも書きましたが、空に雲が出てきて案外に暑くないのです。無事に歩きとおせました。▼歩くと言えば、万歩計があると歩くのに張合いがあるのですよ。実は十年ほど前のことを思い出しました。当時、家の中だけに居て、一歩も外に出ない生活をしていると約二千歩しか歩きませんでした。ところが、最近は家の中だけに居ても四千歩は歩くのです。つまり物を捜しに他の部屋に行って、何を捜しに来たか分からなくなり、又もとのところに戻ってきて「あっ、あれが欲しかったんだ」ともう一度先ほどの部屋に行っている、そこで歩数が十年前にくらべ倍になっている、ということなんですね。ところが万歩計があると「よろしい、万歩歩くために、もう一度あの部屋に行こう」と思い立つ気持ちになるのです。▼私が推奨するカウンター(度数計)併用の祈りにも似た面があります。カウンターをカチカチ鳴らして短い告白や祈りを続ける時、その言葉が無意味な繰り返しに陥らないで、却って意識系統に深く刻みこまれるのです。ともあれ万歩計のお陰でしょうか、ミレニアム行進を無事に完歩出来て感謝でした。 

2000/7/23

「キリスト生誕2000年祭in大分」を迎える 

 今回の「キリスト生誕2000年祭in大分」の企画が始まったのは今年の初めごろだったでしょうか。広田先生が言い出しっぺです。こういう大胆な発想をする先生はすばらしいですね。当初は「会場は屋根のある会場を借りようじゃないか」との声もありました。しかし、橋本先生が「若草公園が良い」と言って譲らない。

「雨が降ったら、どうしますか」
という声もあったのですが、
「大丈夫ですよ、神様が守ってくれます」
と橋本先生が言う。集まっている人たちは、みんな牧師です。こういう確信の言葉をきくと、返す言葉がない。
「そんなら、信仰をもってやりますか」
という返事になる。多少、声に元気がない。「ええい、どうにでもなれ。責任は橋本先生がとってくれるだろう」、こういう気持ちも先生がたに幾らかあったでしょうか。私が多少とも元気よく、
「ええ、やりましょう」
と賛成したようにも思いますが、確かにそうだったか、よく覚えていません。ともあれ、最年長の私がそういう風に言うと、残る先生がたも少しは活気づいて賛成するということになります。

 ところで市内の盛り場で路傍伝道をやるのは、やはり橋本先生が一番慣れているでしょう。その次が広田先生、そして私の順でしょうか。

 特に橋本先生は一度、この若草公園を使って、しかも一雨きそうな天候のなかで、神様に祈って信仰をもって伝道会を開いた。そうすると、天候も回復し、伝道会もかなり手ごたえがあった、そんなことがあったそうです。そうした経験からくる確信を先生はお持ちなのですね。

 (そうですね、心配で膝をガタガタふるわせながら、祈りつつ手をつけた第一回目の企てが意外に成功したとする。それを第二回、第三回とつづけて成功する。そういう経験を何度も重ねてゆくと次のチャンスにも、又大胆な発想ができ、大胆な計画を立てることができるものです。尤も、そうは言うものの最初からあまり大きなことを計画すると、心配でビビッて失敗もしやすい。そこで、小さいことから始めて成功の記憶を積み重ね、次第にビジョンを大きく広げてゆくのがよいのです。)

               *

 さて、目下、新聞で天気図を見ますと、台風5号も北上して熱帯低気圧となり、太平洋上に高気圧がどっかと座り、日本列島は大丈夫の天気のようです。今年はどうも暑い夏のようです。「どうか今回の開催日は天気は晴れて、しかも適当に風が吹いて、しのぎやすい天気でありますように」、などとぜいたくな祈りを神様にささげているのです。

 しかし、どこの教会にも至って慎重な長老さんや疑い深い信者さんがいるものです。こういう方々に、以上のような理想型の信仰的言葉を語りますと、断固として牧師に質問します。実際の教会運営の上ではこういう方々も貴重な存在です。
「しかし先生、そうはおっしゃっても、当日になって、もしも雨が降ったらどうしますか。先生方も確信をもってご計画をお立てになったのでしょうが、でも念のため、万一にそなえて何らかの対応策はしておくべきではないでしょうか。」
「万一の時?……」

 私はちょっとだまって、そして言ったものです。
「別に広い室内会場を予約しておけばよいのでしょうがねえ。それは不可能でしてねえ。……私は他の先生がたには言わなかったが、実はこういう覚悟はしているんです。」
「えっ、先生、どんな覚悟です?」
「かつてね、韓国のヨイド広場で韓国の全クリスチャンが集まっての大集会がありました。韓国のことですから、百万か、何十万かクリスチャンが集まるんです。その日になってジャンジャン雨が降り出しました。ドシャ降りなんです。水がたまって一面池のようになってしまった。そんな中で、クリスチャンたちは一人も帰らないで、水の中にひざまずいて、びしょ濡れになって、あの韓国式叫びと号泣の祈りをするんです。あの時から韓国の教会の信仰は特に強固で弾力性のある信仰になったように私は思うのです。」
「なんだか分かるような気がします。でも、そういう祈りが出来ればいいですが、韓国なればこそです。先生、日本では無理ではないですか。」

              *

 私はそこで言った。
「そうです。日本では第一、そういう天候模様というか。新聞の天気予報を見ただけで、もう集まる人は少ないでしょうしね、今回は特に伝道志向の強い集会です。そんな天候で一般の市民が集まるはずはありません。クリスチャンもそう大して集まらないでしょう。しかし、

 企画した私たち少数の牧師たち、講師のミッション・バラバの人たち、そして少数の心配して集まってくれる信者のみなさん、僅か十数人か二、三十人でしょうか、少なくとも、そのくらいは集まるでしょう。

 そういうメンバーで、雨が降ろうと、台風が来ようと、火が降ろうと、槍が来ようと、手をあげて、祈って、絶叫したい。びしょ濡れになって、地べたに座りこんで、ひれ伏して、あるいは立ち上がって、駆けまわって賛美しよう。そう思ったのです。

 そこから、日本のリバイバルは起こる。必ず起こる。その信仰を持とう。そういう覚悟です。ですから、雨が降る。時期が夏ですから、台風が来ることもあろう。それでも大丈夫。この大分のミッション・バラバ集会が日本リバイバルの口火になるかもしれぬ。そう思って心では『雨よ降れ、台風よ来い』とニヤリと心で笑ったのですよ。最初、先生方の話し合いの中で雨の心配のことが出た時にですね、そう思ったのです。いや、本当は『ワッハッハ』と笑いたかったのですよ。」 

 

【私の想い出−9−】

日本のキリスト教界の一部では悪名高き原始福音、神の幕屋の創始者手島郁先生だが、先生に私が初めて会ったのは1957年5月頃だったろうと思う。私は当時35歳、先生は多分47歳、私は大分市のビルの一室で開いていた集会のメンバー30名ほどを引き連れて、先生に弟子入りしたのである。小なりと言えども一国一城の主だった私が手島御大将の軍門に下ったということです。実力から言って当然のことであった。▼その夏、阿蘇の聖会があった。熱狂的雄叫びの祈り、この頁に書いた韓国式祈り と全く同じような祈りを経験したのです。そして滝浴び、それも小さい滝ではない、6、7メートルの落下する滝水だから凄い。大の男でも尻込みする。案外女性のほうが大胆に滝壺に入る。翌年の夏の阿蘇聖会では、これこそ悪名高き火渡りの第一回が始まった。私も、私の妻も火を渡ったが、これも一体に女性のほうが大胆に渡る。火渡りもそんなに怖いものではない。しかし、滝浴びも火渡りも修験道の真似でしょうから、問題がありますね。幕屋には思い出が多いです。その火渡りの年の秋、私は幕屋を脱出するのです。その事は又いずれ書くことにします。 

2000/7/16

香 り 高 い 生 涯      

 クリスチャンであるならば、主の愛と聖霊に満たされた香り高い生涯を求めない人はないでしょう。そうして多くの人が、求めても求めても、その求めが完全な形ではかなえられないので、ほどほどの所であきらめて平凡なクリスチャン生活に甘んじているのではないでしょうか。

 私も今、78歳。もうそろそろ信仰も円熟の境地に達してよいではないか。そう思いますけれども、実際には「日暮れて道なお遠し」、自分の信仰の成熟の遅々としていることを嘆かざるを得ないのです。

 それでも、今からでも遅くはないと、自らを励まして、今世紀の初頭に生きた一人のイギリス女性の短い生涯を学びたいと思ったのです。

 彼女の名はヘレン・エワン、1910年に生まれ、1932年に天に凱旋しました。生まれた家庭はクリスチャン家庭とは言え平凡な家庭に過ぎない、彼女も平凡な女性でありました。 しかし十四歳の時、彼女はイエス様を主として受入れ、あざやかな救いを経験したのです。

         *

 とは言え、ヘレンは会集の前で賛美したり、メッセージしたりすることは一度もありませんでした。ヘレンはただ席にすわり、祈っているだけでした。しかし伝道者たちは、ヘレンが出席していたら必ず聖霊様の力強い注ぎが起こることを知っていました。

 まれにヘレンが集会場に遅れてくる時には彼女が会場に入ると、瞬間的に雰囲気が変わり、人々はヘレンが来たことをすぐ悟るほどでした。 ヘレンには救霊の熱情がありました。ある寒い夜、酔った売春婦を抱き抱えながらイエス様とイエス様の愛について語っている姿を見た人がいます。また街かどでホームレスの男にトラクトを渡し、のぞきこむようにして福音を語っているのでした。

 伝道集会がある時は、彼女は必ず出席しました。ある集会に行った時、彼女は一人の婦人を見ました。その婦人の顔に悲しみが刻み込まれ、その目には苦悩の色が浮かんで居ることを、ヘレンははっきり見ました。

 そこで、その婦人の隣の席にすわり、ずっと祈りつづけました。集会が終わって婦人が帰ろうとするとき、手を取って一緒に祈りました。

 彼女は後にグラスゴー大学に入学しました。学校に通う道は数マイルありましたが、その道を彼女はいつも歩いたそうです。それは電車賃を節約して海外宣教に献金するためでありましたが、また途中でトラクトをくばって伝道するためでもあったのです。

 ある教授が思い出を語っています。「彼女は驚くべき女性でした。彼女が学内のどこに居ても、そこには必ずキリストの香りがただよっていました」と。

 ある時、未信者の学生たちが不潔な会話をしてました。その中の一人が「しっ、しっ、ヘレンが来た」とささやきました。ヘレンは無意識に通ったのですが、そこには神の力、神の臨在が感じられて、学生たちも思わず畏敬の念を持ったのです。

 祈祷会で、ヘレンが祈りで大きな声を上げようが、黙っていようが、彼女が出席しているか、どうかはすぐ分かりました。はっきりと神様の臨在が感じられたからです。

         *

 ヘレンはディボーションの為、毎朝五時に起きました。彼女は賛美によって礼拝を始め、主の御顔を見つめて祈りました。かようにして長時間の主との交わりの時をもち、それから友人、家族、教会、海外で働いている宣教師たち、そしてまた未信者の人たちのために祈りました。未信者の人たちのためには特に調ったカードがありました。

 彼女は多くの魂を獲得しましたが、それは皆彼女の密室の祈りの結果でした。ヘレンが主にささげた祈りには、あいまいなものや、おおまかなものはありませんでした。彼女の死後、公開され彼女の日記を見ると、そこにはヘレンがだれかのために祈り始めた年月日、そして祈りが聞かれてその人が救われた年月日が、ちゃんと記録されてあったのです。

 彼女が天に召された時、多くの人々が泣き、また外地の宣教師たちは強力な祈りの援助者がなくなったことを嘆きました。残った人々の間でも、ヘレンという名が一言語られるだけで、「おお主よ、ヘレンのような人々を、再びこの地におこしてください」という祈りが起こったそうです。

 ヘレンはディボーションの時だけではなく、いつも主と交わることを心がけていました。小さいことも、大きなことも、すべての事のため主の導きを求め、祈りました。

 リボンを一個を買うにしても、店頭に立った時、主の導きを祈って店内に入ったものです。ヘレンはすべてのことについて、主イエスを喜ばせることを努めました。したがって人間の流行などに左右されることはありませんでした。それでも、友人たちは、「ヘレンの着てるものは、いつも似合っているねえ」と噂したほど、センスには富んでいました。

         *

 ヘレンの見逃せないもう一つの特性は、神のみ言葉に対する忠誠です。

 彼女は聖書の中の自分の好きな個所だけを、つまみ食いするようなことをしませんでした。創世記から黙示録まで、聖書全体をよく読み、また学びました。17歳ごろにはバランスの取れた、かなり高度の知識も持っていたようです。

 ヘレンは聖書の堅い岩の上に強い信仰を建てました。大学でも学科の学びは十分にしたうえで、聖書の研究と祈りにも多くの時間を用いました。

 だからと言って、彼女は天下の耳目を驚かせるような大伝道とか、奉仕事業をしたわけではありません。メリー・スレッサとかマザー・テレサのように名を知られたわけではありません。僅か22年の短い生涯を、グラスゴーの町、広くともスコットランドくらい、その限られた地域で生きて、天に召されて行きました。

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 彼女の短い伝記を書いたジェームス・スチュワートという人は、グラスゴーのリバイバルのなかで、このヘレンと同年配の男の子としてイエス様に救われて後に伝道者になった人らしいのですが、ヘレンが天に召された時、このスチュワートさんがあまりに悲しむので、恋人か婚約者かと人に疑われたそうです。しかし、けっしてそんな仲ではなかったのです。

 ただ、共に主を信じ、主に仕えようと意気投合した仲だったに違いない。そのヘレンの放つキリストの香気に圧倒され、彼は忘れることが出来なかったのでしょう。そこには、若い男女のなかでは起こりにくいことですが、単なる恋愛を越えた聖なる愛があったのだと思います。ヘレンを包むキリストの香りがそういう希有な関係を造りあげたのだろうと理解できますね。

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 さて私は、皆さんに優れた先人たちの伝記を読むことをお薦めしたいのです。最近は、ブレイナードの日記など、あまりお目にかからない。カトリックの小テレジアなども良いです。思いつきであげるがハドソン・テーラーや、リーズ・ハウェルズなどもよい。

 信仰の成長、進歩、向上、強化、深化、成熟を得るためには、霊的「餓え渇き」が必要です。「餓え渇き」は神様からくるのが最高ですが、自力で「餓え渇き」たいと思うなら、以上のような伝記類を読むのが手近で効果的です。

 

【私の想い出−8−】

ともかく、私が世界偉人伝というような伝記類の中で、最初に愛読したのは発明王トーマス・エジソンである。彼が小学生の時、「先生、1に1を足したら、なぜ2になるのですか」と質問したら受持ちの先生はびっくり、「この子は低能だ」と信じてトーマスの母親に連れて帰らせたという話。これは作家のフィクションかとも思うが、これが私に発明家をあこがれさせ、また数学哲学のような世間離れをした思考を練る癖を与えたと思う。▼「1に1を足したら、なぜ2になるのか」、この質問には未だに私は答えることができないでいるが、その次に起こった疑問は小学校4年生のころ、「私に丸く見える茶碗を、人も丸いとは言っているが、果たして彼に見えている茶碗は私が見ているように丸く見えているのであろうか」というのである。前記の少年エジソン君にも似た、世間からみれば大変低能児的な疑問である。▼青年期になって、なぜ人は他人を押しのけるようにして生きねば生きられないのか。他の生物を害せずして生きられないのか、そういう問題に触れる訳だが、そういう疑問はアルバート・シュバイツァーや一燈園の西田天香という人物を知ってからだ。その後、刑務所の中で読んだ宮崎安右衛門の「聖フランシス」の伝記によって、人間とすべて造られたものとの愛による「共生」という思想が私の意識に光のように差し込んできた。福音はすべて造られたものにまで語られねばならない、これが聖フランシスの根底にあったと思う。これ、低能児的発想だろうか。 

2000/7/9

ほん物と にせ物      

 昨日、7月8日の新聞の朝刊で、武田薬品が受け取った「目薬に異物をいれた」という強迫文が紹介されていました。犯人はいわゆる愉快犯というか、別に武田薬品にうらみがあるわけではない、偶然手にした武田薬品の目薬に、先だってあった参天堂事件と同じようにやってみようと、軽い気持らしい。下手な文字で強迫文を書いて、その最後に「ワッハッハッハ」と入れてあるわけです。

 最近はリバイバル新聞のコラムのタイトルにもしてくれて、「ワッハッハ」は言わば私のトレードマーク、この大事なトレードマークを事もあろうに強迫文に使われてはたまりません。 これは興味のある事件ですから、多分ほとんどの人がこの記事を読むに違いない。この記事を読んで、この「ワッハッハ」という文字を見る時、はっきりと意識しないにしても、この文字が多くの読者の潜在意識に浸透して行き、この「ワッハッハ」という言葉が各人の脳裏で汚されてゆく、と私には思えたのです。

 私は神様に問いました。「神様、これはどうしたことです? この私の大事な言葉がこんなことで汚されて行きます。今後、私は『ワッハッハ』と笑うこと、なんだか難しいです」。

 神様は言われました。「ホンモノにはいつもニセモノが付きまとうのだよ。悪魔はホンモノを見ると、すぐニセモノを作って人をだまそうとする。悪魔はもともとウソツキだ。彼がウソをつくのは彼の本音なんだ。彼はニセモノを作り、諸国の民をたぶらかす(ヨハネ8:44参照)だろう。しかし、安心せよ。ニセモノは必ず逃げ去って、滅びる。最後にはホンモノが必ず勝つ。お前は気後れせず、元気を出して、ますますホンモノの「ワッハッハ」を宣伝せよ。パウロにも私は言ったではないか。『恐れるな。語りつづけよ。黙っているな。だれもお前を妨害できない』(使徒18:9、10参照)と。

 紙幣の偽札が出るのは本物の紙幣の値打ちがあるからです。ドルや円には強い市場価値がありますから、しばしば強力な偽札造りの暴力団や、国家さえ生まれます。今にも滅びそうな脆弱な国家の紙幣の偽札が出る筈がありません。

 テレビや映画などで、悪魔や悪霊的な一味が威張って豪勢な身振りで笑う時、また特に敗北して逃げるときなど、「覚えていろよ」と捨てせりふを吐く。その時、「ワッハッハ」と笑ったとしても、それは負け惜しみのニセの笑いです。私たちが推奨する笑いは神様から与えられ、神様を仰いで、喜びの声をあげる「ワッハッハ」の笑いなのです。

            *

 アメリカのプラグマチズム哲学の祖ウイリアム・ジェームスの言ったという心理学的法則があります。「人は悲しい時に泣く、しかし泣いていると又、悲しくなるものだ」という法則です。そこで私も言うのです。「人は嬉しい時、喜んでいる時に笑う。同様に笑っていると嬉しくなるし、喜びが湧いてくるはずです」と。

 この法則を利用して、聖書の「常に喜びなさい」などという、悲しんでいる人にとっては無理なことに見える聖書の教えも、意識して笑うことによって、心に喜びを湧かせることが出来るという事実を見いだしたのです。(くわしくは、私の発行した小冊子「笑えば必ず幸福になる」をお読みください。教会にお申込みくださればお送りします)。

 口語訳聖書の詩篇第37篇四節「主によって喜びをなせ」というみ言葉は以上の私の笑いに関する主張にぴったりです。「常に喜びなさい」などという一連のみ言葉がありますが、これらのみ言葉は、私には容易に実行できる聖句に聞こえます。これも、この聖句のお陰です。喜べそうもないときに、喜ぶためには、ただ「笑う」だけでよいのです。神は「人の口に笑いを満たし、唇に喜びの声を満たされる」(ヨブ8:21参照)のですから。

 イエス様は72人の弟子たちの伝道報告を聞いた時、「聖霊によって喜びあふれた」とあります(ルカ10:21参照)。このときの「喜びあふれた」という言葉の原語は「ハガリオー」という言葉です。「欣喜雀躍、手の舞い、足の踏むところを知らず」というような喜びをあらわす言葉です。当然、そういう時、イエス様は声をあげて笑い踊るようにして喜ばれたと思いませんか。

 又、山上の説教の中でイエス様は「迫害に会い、偽って様々の悪口を言われる時にも喜び喜べ」(マタイ5:11、12参照)とおっしゃいました。この時も同じく「ハガリオー」という言葉です。当然、イエス様のおっしゃった「喜び喜べ」という言葉には、大きな笑い声を発して喜ぶことも含まれていたと私は思うのです。

 さあ、そこで私たちは遠慮なく本物の「ワッハッハ」を笑ってみましょう。声をかぎりに絶叫してみませんか、「ワッハッハ」と。

 「ワッハッハ、元気の出る電話」をお聞き下さい。電話の笑う声がモデルになって、よく分かります。 (2000.7.8.「テレホン聖書」より)

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 ところで、ニセの笑いとまでは言わないにしても、かんばしくない笑いというものがあるのです。この事は、実はこれまであまり公言しませんでした。前述の小冊子には、ちょっと触れておきましたが。

 笑いの哲学については哲学者カントやベルグソンが有名です。本当の好ましい笑いのほかに、皮肉の笑い、軽蔑の冷笑、照れ笑い、卑下の笑い、くすぐる笑い等々いろいろあるのです。そして、もう一つあげてみましょう。

 「笑うと癌を制圧するNT細胞が多くなるというのは本当か」などという研究で、癌の患者さんたちを寄席につれて行って漫才や落語、漫談などを聞いたり見たりしてもらいました。ところが、その前後の血液などの検査の結果、いろんな健康に必要な分泌物や分子が多くなっていた、そんなことが分かってきたのです。

 しかし、私たちクリスチャンにとって、また心ある人々に気をつけて頂きたいことがあります。それは寄席にでも行って、楽しく「ワッハッハ」と笑ってくる、そういう軽い受け身の笑い方について私は少々心配するのです。寄席は一つの例で、寄席が絶対いけないというのではありません。他の場所でも起こることですが。

 ラジオやテレビで寄席中継などでしたら、まあまあ良いのです。実際の寄席などに行きますと、時々「下ネタ」と称して、みだらな話材を扱う芸人がいます。そうした下品な笑いで客を「ワハハハ」と笑わせて人気を呼ぶ芸人さんがいるものです。また、ルート・セールスの営業マンですと、中には猥談を得意として人気を集めている人物もいるものです。こういう「下ネタ」にうっかり乗って「ワハハハ」と笑っているうちに、聞く私たちの品性までしだいに堕落して行きます。

 聖書は言います。「不品行といろいろな汚れや貪欲など、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談をさけなさい。」(エペソ5・3より抜粋)と。

 これまで、「ワッハッハと笑いなさいよ」とお勧めしても、そう簡単に賛成してくれない人もいました。多分、以上の文章ほどではないにしても、次元の低い笑いに混じって一緒になって「ワッハッハ」と笑うのには抵抗があったのではないでしょうか。そうした不審感は尤もだと思います。このしめくくりの一文、そういう方々への陳謝と弁明のつもりでもあります。 
(2000.7.8.「ワッハッハ元気が出る電話」より)  

 

【私の想い出−7−】

三浦綾子さんの病気についての確固たる信仰については尊敬するけれども、私は賛成は出来ないでいる。つまり病気は神様から頂いたもの、これを却って感謝しよう。この信仰に立つと、私に与えられた難病さえ、神様は私を愛して私に下さった病気だ。神様は私をえこひいきして、愛して下さっている、というのですね。私の父もまったく三浦綾子さんと同じ信仰だったと思う。▼父はひどい喘息だった。最近になって喘息はやっと治りやすい病気になったが、昔は悲惨だった。そういう父を見舞に来る人があると、「病気は私の本職です」と言った。実は神癒と言いたいほどに快癒した時期があって、そのころ鶏舎を建てて養鶏をしていた。だから「私は副業に養鶏をしています」と言うので、客はいぶかって聞く「それじゃ本業は何です」。そこで前文の「病気は私の本職です」が出てくるのである。ぜんそくで苦しんで断食を2週間ほどしている最中の日記の毎日白紙の頁の途中に、たった一行だけ「私は神の愛子である」と書いてある。私はそこを読むと涙が出る。父は16年ほど病床に伏して遂に天に召された。▼そういう父だったが、名物は笑いだった。ちょっとでも発作が収まると、冗談を言う。ニコニコ笑う。「ハハハハハ」と笑う。そして咳が出ると、又あわてて吸入器で噴霧状の薬液を吸っている。その時は本当に苦しそうだったと言う。私はまだ幼くて覚えていないのだが、そうした中でも賛美歌を歌って貰って息を継いで言ったそうだ。「あんた、信仰を持ちなさいよ」。 

2000/7/2

キリスト教と笑い     

 この標題は東北大学教授の宮川光雄氏の著書「キリスト教と笑い」(岩波新書赤版)から拝借しました。宮川先生はこの本の中で、「聖書の中でイエス様が笑ったという記事は一個所もない」と言っています。

 なるほど聖画を見ても、イエス様のお顔はたいてい深刻です。笑っているイエス様の絵はめったにありません。

 それではイエス様は少しも笑わなかったでしょうか。いつも謹厳実直、「敬虔」な面持ちで、クスリとも笑ったことが無かったでしょうか。

私はそんなはずはないと思っています。

 当時のパリサイ人たちがイエス様の悪口を言うのに、「大飯喰らいの大酒のみ」(ルカ7・34)と言っています。イエス様は大の宴会好きであったかも知れません。宴会などではぶどう酒を適当に召されて、呵々大笑されていたかとも思うのです。私の楽しい空想です。

 聖書に、イエス様が「聖霊によって喜びに溢れた」(ルカ10・21)と書いてあるところがあります。又、山上の説教では「あなたがたが迫害にあったり、偽りの悪口を受けた時、喜べ喜べ」(マタイ5・12)とも語っておられます。

 これらの時の「喜ぶ」という言葉はハガリオーというギリシャ語です。このハガリオーという言葉は「欣喜雀躍、小躍りして喜ぶ」という意味なのです。

 だから、「大いに笑いましょう」と私はいうのです。すると、「しかし……」と質問が出そうです。「そうは言っても、聖書の中で『笑いなさい』と命じているところがありますか」。 私は正直に答えます。「いやあ、困りましたな。そんな個所はどこにもありません」。でも、どんな時にも喜ぶためには、無理にでも笑うのが一番いいのです。これが私の意見です。

         *

 「喜んでいなさい」という言葉が聖書に、よく出て来ます。たとえば、ピリピ人への手紙や、テサロニケ人への第一の手紙などです。ところで、今回はまず、あまり引用されない聖書の言葉を次に選んで見ました。

 「(あなたがたは)今はしばらくの間さまざまな試練に苦しまねばならないとしても、大いに喜んでいなさい」(第一ペテロ1・6私訳)。

 多くの聖書は、この末尾の個所を「喜んでいます」と平板に訳していますが、私はここは命令形に訳すべきだと思っています。ここには上述のハガリオーが使ってあるのです。しかも文法的には現在形になっています。その意を含むと「繰り返し大いに喜びなさい」と訳すべきかとも思ったくらいです。ギリシャ語の現在形は「繰り返し継続的に習慣になるまで」という意味を含んでいますから。ですからここで、

 聖書は命じているのです。さまざまの試練に会うとき、繰り返し喜び続けるのです、と。

 更に、ピリピ人への手紙3・1ですと、こうです。「この(喜びの)勧めを何度くり返しても私には煩わしいことではなく、あなたがたには安全である」(ピリピ3・1)と。

 人間は心に豊かな感情を育て、また持つことは良いことであります。しかし豊かな感情と言っても、泣いたり、怒ったり、責めたり、叱ったりすることは、注意しなければ危険なことが多いのです。それに比べて喜ぶことは、どれほど繰り返し、どんな時にも喜び笑っても、葬儀のような席でない限り、安全だというのです。私はここで笑いの練習を提唱したいのです。

 「あなたがたは喜んでいなさい」という命令の言葉は単純です。「今、楽しくないから喜べない」などと言い訳しないで、今すぐ笑いなさい、ということだと解釈しましょう。

 アメリカの哲学者ウイリアム・ジェームスは言いました。「人は悲しい時に泣く。だが又、泣いていると悲しくなる」と。そこで私は言うのです。「人は喜んでいる時に笑う。だから又、笑っていると喜ばしくなるのです」と。

 聖書は言います。「神様はあなたの口に笑いを与え、次にその唇に喜びを与える」(ヨブ8・21参照)。

 詩篇81・10ではこう言います。「あなたの口を広くあけよ。わたしはそれを満たそう」。 この聖書の言葉のとおりに、まず口を広くあけてみませんか。そうすれば神様が「笑い」を満たしてくれるというわけです。

 幼い子どもですと、「口をあけなさい」と言えば、子どもはすなおに口をあけます。そこで、すかさずその子どもに「笑いましょう」と言ってごらんなさい。子どもはすぐに笑います。

 アルゼンチンのフレイソン先生も言っていましたが、幼児は一日に400回笑うが、大人は一日に10回しか笑わない。

 「聖霊によって笑う」という現象がひんぱんに各地で、特に聖会で起りはじめて、もうだいぶになります。大変すばらしいことです。

 しかし、聖霊によって「笑い」の現象が起こらなくても、「さあ、自分で意識的に笑おうではありませんか」というコメントを、これを実は「パワープレイズ」の松岡欣也先生から聞いたのですが、その時、私は手を打ちました。

 「そうだ!」。

 その時から、私の「ワッハッハと笑いましょう」の提唱が始まったのです。

         *

 ダビデは真実な品性と陽気な性格を持っていたと思います。ヨナタンが一目見てダビデの心に結びついたと聖書に記されていますが、聖書の中で最も麗しい記事の一つかもしれません。

 ダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れる時、嬉しさのあまり、力をきわめて踊ったとあります。その時、ダビデも群衆も声高く喜び叫んだともあります。きっと、大きい笑いの声も出たことだろうと私は想像しています。

 その時、王宮から后(きさき)ミカルが王ダビデの踊る様を見下ろしていました。そして冷たく言い放っています。「あなたは王としてなんという愚かなことをしたのです。恥知らずのごろつき者のように家臣の下婢たちの前で裸をさらしたのですから」。

 たぶん、この時、ダビデは下半身もさらけ出して踊ったのでしょう。そのことを少しも恥ずかしがらず、夢中で声高く叫んで踊ったのでしょうか。ここにダビデの飾り気のない、無邪気な人柄が出ています。

 彼はヨナタンからも、民衆からも愛されました。彼の人生には幾つかの重大な道徳的失敗がありました。しかし、神は彼を愛しました。

 まず、第一に神に信頼することです。また、神に従うことです。罪を犯し、失敗した時には、ただちにすなおに悔い改めるべきです。

 こうした信仰の基本を守った上で明るくあって欲しいものです。それがダビデの人間性です。 私は「笑えば必ず幸福になる」などという民間信仰にまぎらしいようなことを唱導しています。しかし、けっしてノーテンキに笑っていさえすれば、それで人生は満点、そんなことを言っているのではありません。

 第一の基本は信仰です。その信仰の上に明るい性格、言葉や行動の傾向を作ってほしいのです。ところが、キリスト教の世界では、イエス様を信じるといいながら。あまりに暗い人、冷たい人、気の弱い人、他を批判ばかりする人、頑固な人、忠告を受けいれない人、そうかと思うと、伝道をしたがるが実は単なる目立ちがり屋、正義心に燃えているが、実は不平不満家、そういう人が多すぎるのです。

 さあ、ワッハッハと笑う練習をつづけて下さい。必ず、まず明るい人になります。そして、やわらかい人格になります。そしてダビデのように皆から愛される人になりましょう。 

 

【私の想い出−6−】

1933年(昭和8年)8月11日、信濃毎日新聞に桐生悠々が「関東防空演習を嗤う」を載せて問題になった、そのころ日本の多くの町や村では旧暦のお盆です。 さぞや「東京音頭」を踊ったことと思われる。大分の街のレコード店、エトウ南海堂のおじさんは「健康に良いですぜ」、 と熱心に「東京音頭」の踊りを宣伝して廻って、日本一レコードを売り上げ、コロンビアの本社から表彰されたそうだ。「踊りおどるならチョイト東京音頭、ヤットナーソレヨイヨイヨイ」、とにかくよく踊った。▼私の伯父・釘宮徳太郎の家は小高い所に建てられた平面図が十字架の形の家で、そこで日曜の集会を開いた。伯父が聖書講義する、すぐ上に内村鑑三の「禁酒非戦」の額がかかっている。この額は今、私どもの教会にかけられているが。さて、その日、集会が終わると、伯父が「例の東京音頭を踊ろう」と言う。「えっ」私は驚いた。私の感覚では、キリスト教の集会のあとですぐ、「東京音頭」はあまりに異様であった。敬虔なるべき集会の部屋で、それが蓄音機にかかった。従兄の釘宮大祐さんが師範学校の優等生だけあって、振り付けの絵を見てすぐ踊りだした。▼伯父の家は高台の上にある。たしか窓をあけて踊っていた。周辺の民家から丸見えなのだ。当時としては高価な蓄音機の音が近所の人々を驚かせたであろう。私ひとり、運動神経が鈍感な少年、踊ることがままならない。なんと、不器用なはずの私の母さえ踊っているではないか。私は気欝症に陥ってしまったのを覚えている。 

 

 

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