キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2001年12月

2001/12/30

信仰生活向上の秘訣  


あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深み(直訳=霊)まで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。(エペソ人への手紙第4章22〜24節)

            

 クリスチャンが実践的に生きる秘訣、信仰向上の秘訣、そうしたことについて書きたいのです。

 まず基本的なこととして、あなたはイエス様の十字架のあがないによって、完全に罪を赦され、天国の住民としての国籍を既に確保していることの確信を持っていてほしいのです。

 その上でクリスチャンとしての、正しい実践的な聖なる生活を送れる秘訣を以下に学びたいと思います。

 クリスチャンは既にイエス様の信仰を受け入れて、あなたの霊において神の子とされています。天国の市民権を持っています。しかし、しばしば多くのクリスチャンは、その心で自分自身の霊から当然影響を受けてよい聖霊様の働きを受けとめていないのです。(心とは聖書の翻訳ではしばしば魂ともなっていますが、霊の表面にある精神活動と思ってください。人の霊と心の関係は別の機会に説明しましょう)。

 多くのクリスチャンが生活に失敗するのは、その精神活動が、その深み(エペソ4・23口語訳参照)である霊からの指示、命令、方向性、影響をきちんと受けていないからです。

 人の精神活動(魂、心)は、人の言葉や行為に確実に表面化します。つまり、「あなたがいつも思っていること、それがあなたです」という有名なエマーソンの言葉のとおりに、心が(霊ではなく)あなたをこの世に表現するのです。

             *

 冒頭の引用聖句に従えば、ここで重大なことがあります。 まず第一条件として私たちのこれまでの「以前の生活に属する、……滅び行く古き人を脱ぎ捨て」なければならない。

 その上で、「心の深み(直訳=霊)まで新たにされ」、そして「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」ことのできるようになれ! と、読めるのです。

 そうすると、かつての遠藤周作の口調ではないが、「それはそうでしょうけれど、神様、それはちょっと私にはむつかしいです、なんとかなりませんか」と言いたくなります。

 なぜなら、「以前の生活に属する、……滅び行く古き人を脱ぎ捨て」ることが出来るくらいなら、今さらに「心の深み(直訳=霊)まで新たにされ」なくても、すでに「新しくされている」はずではありませんか、ということです。

 そうであれば、聖書に言われなくても「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」ことは、もはや簡単なはずでありますね。

 原文のギリシャ語で読むと、実は最初の「古き人を脱ぎ捨てる」という言葉の「脱ぎ捨てる」という言葉は不定過去となっています。これは文法的には「過去の動作の一時的な、また瞬間的なこと」をさすのです。そして、
 以後の「新しくされる」、さらに「着る」という言葉はいずれも現在形で継続的、習慣的動作を現わすのです。

 この関係を真面目に読むと、真面目に読む人ほど、実に絶望的な個所です。つまり、自分でハッキリと意志して過去の「以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て」てしまわなければ、「心の深み(直訳=霊)まで新たにされ」ることも、「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」などということも不可能になってしまう、と読まざるを得ないからです。

 先に「心の深み(直訳=霊)まで新たにされ」ることが出来さえすれば、誰でも「古き人を脱ぎ捨てる」くらいのことは可能なのだが、ということです。

             *

 初めに人生ただ一度の「古き人を脱ぎ捨てる」大決意をしさえすれば、「心の深み(直訳=霊)まで新たにされ」る回心が起こるという事は、他人の事としては理解できる。しかし、自分の事としては、とうてい出来そうにもない、この不安。

 こういう信仰心の働きのとれない矛盾点こそ、大事な場所です。私はかつて、こういう場所を「親知らず、子知らずの難所」と呼びました。信仰の急所でもあります。

 昭和初年の頃、もてはやされた神学に「危機神学」というのがありました。それと意味は違うかもしれませんが、まことの信仰はしばしばこういう「危機」を通り抜けます。

 ここで思い出してほしいのは、私の口癖、「神様の命令は、また即約束だということ。山上の説教の人間に全く不可能に見えるメチャな命令も、「幸いなるかな、この命令はお前に可能である」というイエス様の約束として読むのです。

 そこで又、神様の命令を、「私自身が私の魂に対する命令」として、私自身が私に「断言命令」を代行すると、「それが私に実現する」ということが起こるのです、必ず。
 断言命令は、「祈ったことは既に得たり」と信じる祈りの型として効果的です。これを理解し、会得してください。

 つまり、あの「脱ぎ捨てよ」という言葉は確かに文法的には「過去の動作の一時的な、また瞬間的なこと」をさす言葉なのです。しかし、それを大胆に「以前の生活に属する、……滅び行く古き人を脱ぎ捨て」よと、ただ一回限りのごとく(ここが大事)、自分に向かって断固として命令するのです。

 こうすると、「過去を脱ぎ捨て、そして心の底から新しくなって、真の義と聖なるキリストの衣を着る(ローマ13:14参照)ということが、あなたに実現します。

 聖書の命令形を、そのまま自分の言葉として、自分自身の魂にむかって命令する、あるいは「言い聞かせる」でもよいのですが、強固な確信的信仰生活、聖にして真実なる信仰生活を送るために実行してみて下さい。(2001.12.28.)

 

2001/12/23

人類救済のプロジェクト第一歩  

 世の中にはいろいろな神があるようですが、本当の神様は唯一の神です。この方が万物を創造されたのです。私たちが見たり、聞いたり、触ったりできる全ての物は、これ皆、神が造られたものです。

 日本神話では、最初の神様は 天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)ほか二柱の神ですが、この方々は天地の開かれた時に、やっと現われるのです。聖書の神は天地を造られた神ですが、日本の神は、その造られた天地の中から、やっと生まれ出てくる神です。私はこのヘブル人と日本人の天地の初め物語の較差を知って非常に残念で、少年時代がっかりしたものです。

 進化論で言えば地上の生物は最初の被造物から次々と進化して、ついに我々人間になったのだということになります。今のところ、我々人間以上に進化した生物は他にありません。このように進化した生物を生み出したパワーは宇宙のどこにあるのでしょうか。

 どうも、この宇宙には最初から、我々を生み出すことのできる、そんなパワーがあったに違いないような気がする。そのようなパワーは本来、私たち人間以上に人間的で、ずば抜けて人間的存在であるはずです、私たちのような意識や感情や意志力を持った人間的、あまりに人間的な人間であるはずです。

 こうした人間の発生装置、あるいは人間の産出機構を推測して、最近の一部の学者や識者たちはグレート・サムシングと呼んでいますが、私は私たちを造りだしたお方を「偉大なある物」と呼ぶのは失礼千万だと思うのです。ですから私はグレート・オンリーワン、つまり「偉大なる唯一人の方」と呼ぼうと思っているのです。この方こそ聖書の神です。

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 聖書では、神が無から有を呼び出されたと言います。神様がもし何かの材料によって有を造られたとすれば、その材料の出所は神様以外にありません。真面目な牧師先生方や神学者の皆さんは批判するでしょうが、宇宙のすべての材料は神様自身だと言えるかも知れません。ですから、

 すべての存在の中に神様の息吹の跡がある、といえましょうか。イザヤがよく言うように、神様の創造のわざを陶器師の陶器造りに喩えれば、天地のいたるところに神様の指の跡形を見ることができることになるのです。

 それはまた、「天地のすべてが、手を打って神を賛美する」などという詩篇の詩句が生まれる所以でしょう。「今も天の父は働いておられる」とイエス様は仰せられました。万物のなかに息づき、万物を支えておられる父なる神様の動きをさしておられるのです。

 ですから、パウロは言います。「私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです」(使徒行伝17:29)。また、「すべてのもの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4:6とも言います。

          *

 父なる神の内にいまし、神と共にいまし、父なる神に向かい合って対話しておられ、かつ父なる神から派遣され、人の住む地上に来られて父なる神のご意志を現わすために、肉体を取ってマリヤの胎に宿りたもうた方が、イエス様です。(参考聖句として、ヨハネ1:1と同1:14をお読みください)。

 以上はイエス・キリストを父なる神の独り子と呼び、かつ「三位一体」説という説明のむつかしい論議の起こりやすいところを、私なりの言葉で表現してみたのです。(私のしろうと神学です。多くの教職者やクリスチャンの方々から、反対もあるかなと思っていますが、一応お読みになっておいてください。いつか又、お話し合いしたいものです)。

 イエス様はもともと父なる神のそばに居られた言葉、つまりキリストの霊です。そして聖書ヨハネ1:1の「この言葉は神と共に居られた」という所を、私なりにギリシャ語から直訳すると「この言葉は神に対して(for)おられた」とも読むこともできるのです。

 万物の創造は元々、このみ言葉、つまりキリストによってなされました(ヨハネ1:3)。今、万物は虚無に伏し、滅びに服しています。キリストはこの万物を救うために、まず人類を救う必要がありました(ローマ8:19〜23参照)。この人類救済のプロジェクトの第一歩こそ、イエス様の誕生なのです。 

 

 

ガンジーの断食

 雑誌「現代」の1月号に載っている梅原猛と山折哲雄さんの対談が面白い。なぜ梅原猛の名前が呼び捨てで、山折哲雄さんが「さん」づけなのか。一度だけ山折先生に電話して尋ねごとをしたことがある。その時、先生が親切に教えてくれたので、私は親しみを覚えている、ただそれだけのことだからであるが。さて、その対談だが、梅原氏が言っているのは、20世紀は人類史上まれな大量殺人の世紀だったということ。▼一つはナチスによるユダヤ人大量虐殺。二つ目は日本が中国大陸でやった残虐行為と南京大虐殺(私の思うのに、これには異論が多かろうが)、三つ目がアメリカの広島、長崎の原爆投下(私はこれにアメリカ空軍の日本の東京はじめ各都市の、大分市もしかり、絨毯爆撃を加えるべきだと思う)。四つめはスターリンの大量粛清である、と。▼ところが、山折さんがもう一つ大きな殺害事件をあげている。これは私も知らなかった。多くの人も私同様知らないと思う。それは1947年、インドがイギリスの植民地支配から脱した時、インドとパキスタンが分離した。そこで起きたヒンヅー教徒と、イスラム教徒との殺し合いだったと山折さんが言う。それは非常に短期間だったが、じつに200万人が殺され、1000万人が難民となった。「文明の衝突」のハンチントンが言う、アフガニスタンからパキスタンにかけての「文明の断層線」上の殺し合いだが、それが50年たって今、イスラム文化圏とアメリカとの間に起きているわけです。▼「尤も……」と山折先生は言う。「ただ、あの50年前のインドではガンジーが出た。彼は両教徒の殺し合いの現場に出向いて、「断食」という非常手段で数億人のインド人を一つにまとめ、扇動者たちを反省させて国家的悲劇を回避することに成功した。ガンジー独特の非暴力、非協力の抵抗です。ちょうど最後のインド総督として赴任していたマウントバッテン卿は「ガンジーは100万の軍隊に匹敵する働きをした」と称賛している。▼ところが、今回の9.11の事件が起きた時、わずか50年前のガンジーを学ぼうとした指導者も、それを想起した識者もいなかった、と山折さんは言っています。イスラム圏はともかく、キリスト教圏にはローマ法王がおり、ビリーグラハムも居るのに駄目なのか。私は思う。日本国より天皇様がお出ましになりませんか。

 

 

2001/12/16

信仰の告白をしよう  

 ここで言う「告白」とは、罪の告白ではありません。信仰の告白です。「信仰の言葉」を神様に申し上げることです。また「自分の心に言い聞かせる」ことです。また、「神様の言葉」、すなわち「聖書の言葉と同じ言葉」を口に出すことです。

 (尚、「信仰の言葉」を心に蓄えてあるだけでも力になります。なぜなら「人が常に思い続けていることは、その人の人格を作る」からです。人が何を思っていても、それは言葉を使って思っているのです。「あなたが常に何を思っているか、それがあなたです」と言ったのはエマーソンですが、これは彼が当時読んでいたと思われる欽定訳聖書からの引用だろうと思います。欽定訳では箴言23:7の第一行に「彼が彼の心の中で思っていること、それが彼である」とあるのです)。

 それはそれとして、別格に大切なことは、人が意識して、また継続して口に出して言う言葉は、その人の人格に大きな変化、劇的な変化を与えるということです。小さいことですが、この9月、私は東京の大崎の駅で、野外の長い鉄製の階段を上るのに疲れ果ててしまいました。肩に負っている荷物に引きずられて、今にも後ろに転び落ちはしないかと思う時もありました。そのような時、

 私の口にする常用句があります。「私は主にあって新しい力を得る」と。この言葉を私は口で言い続けたのです。すると私の内がわからモリモリと力が湧いてくるのです。あたかもほうれんそうを食べたポパイのように。

          *

 聖書を読みましょう、マルコ5:25〜34です。抄訳すると、こうなります。
「ある女が12年の長い間、出血をわずらっていた。彼女はイエス様のことを聞き、群衆の中にまぎれ込んで、後ろから、み衣にさわった。それは『彼の衣にでも触りさえすれば、私は癒される』と言っていたからである。すると彼女の血の泉は枯れ、彼女は自分の病苦が癒されたことを自分の身に感じた。

 イエス様もご自分のうちから力が出て行ったことに気づかれて、「誰が私の衣にさわったのか」と言われた。彼女は恐れつつ、み前に来てひれ伏し、すべてのことを申し上げた。

 イエス様は仰せられた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。平安でいなさい。完全になおって、健康に過ごしなさい」。

 彼女は自分の口で言ったことを、ただちにイエス様から受け取ったのです。「言った」という所は聖書の原典では「言いつづけていた」と訳したほうが良い言葉ですし、またマタイの福音書では「自分自身に向かって言い続けていた」ともあります。

          *

 一口に信仰と言っても、いろいろあるのです。最も大事な信仰は「イエス様の十字架による救い、永遠の生命の付与を信じる」信仰です。この第一歩が若い時の私には難しくて大変困難しました。ただ一方的な聖霊の働きによる瞬間的回心を期待したからです。

 もちろん、それはすばらしい神様の恵みです。期待するのは当然です。しかし又、「父と我とを信ぜよ」と仰せられたイエス様のみ言葉に従って、素直に「ハイ」とイエス様を信ずればよかったのですが、それが頑迷な私には出来なかったのです。そういう時、

 神様を、またイエス様を信じる勘どころはローマ10:9です。「すなわち、自分の口でイエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」。つまり、まず第一に自分の口で「イエスは主である」と告白するのです。更に告白しつづけていると、イエス様を信じる信仰が即時に、又しだいに生まれて来るのです。(註記・下コラム↓)

 先に「信仰にはいろいろある」言いましたが、実は「不信仰の信仰」というのがあるのですよ。「私の病気は直らない」、「私は生れつき運が悪い」、「そんなことは絶対出来ません」、これも信仰です。そして「あなたの信ずるとおり、あなたになる」というお言葉のとおり、その思いが実現するのです。

 第三は「偽の信仰」です。図太い悪人たちの悪しき信念というものがあります。最後は地獄行きですが、一時は成功します。

 いわゆる「信念の魔術」や「眠っていても成功する」方法だけでは悪魔につけ込まれ人生の大失敗をする恐れが十分あるのです。 

 

信仰の掴み方

 ローマ人への手紙10章9、10節の解説です。9節は信仰を持ちたいと望む人が、小さな力で信仰を掴むことができる方法です。すなわち、まず「自分の口でイエスは主であると告白せよ」と言うのです。「えっ、まだイエス様を信じていませんのに『イエスは主である』と告白するということは、神様に対して大変な虚偽です。大きな偽善です。そんなことは言えません」と言う方が多いと思う。▼実際、芝居の舞台でのせりふでしたら役者さんも信仰の告白の真似は出来ます。結婚したくてクリスチャンの女性をだまして信仰を持つ真似をするいい加減な男もいるかも。それは論外です。しかし、本当に信仰を持ちたいと思い、一所懸命に『イエスは主である』と告白することは神様から見れば大変可愛いい態度です。▼聖書は言います。「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』と言うことはできない」。そこで恐れおののきつつ、偽善のようでもあり、虚偽の業のようだけれど、思い切ってあなたの口を使って「主よ、あなたは主です」と言いきる時、あなたの心に信仰が起こるのです。それが9節の後半の「自分の心で……、信じるなら」という聖書の言葉がつづく理由です。そこに救いが起こるのです。▼次の聖句はその逆です。心の中でイエス様を信じれば、あなたは神様の前で「義人」と認められると言います。義人とは死んだら天国に行けるし、永遠の生命を得るという人のことです。しかし、そのままでは、この世に生きている間は、せっかく信仰を持ち、死んだら天国に行ける資格を持ちながら、その天国人らしい生活ができない。不満だらけ、貧しい、道徳的にも醜い生活しかできない、そういう、いわば地獄生活をせざるを得ない。そんな人でも死んだら天国、それは確かな約束です。しかし、生きている現状があまりに悲惨です。▼そういう人が勇気をもって、「イエス様は主です。私はイエス様を信じます」などと、はっきり世間に出て告白し始めると、いいえ、こっそりとでもよいのです。家の中に居て「イエス様は主です」と、口で告白をし始めると、そこに救いが始まるのです。あなたの生活が変わり、世間での生き様が変わり、元気な生きたクリスチャンになります。健康も職業も経済も学校も近所の付き合いも成功人間の様相を呈してきます。死んだら天国、生きていても天国です。 

 

 

2001/12/9

最高の礼服  

 私が15、6歳の少年の時でした。近くの家で婚礼がありました。母はその婚宴に出たくない事情があったのでしょう。私の家は母一人、子一人の母子家庭でしたが、母はその披露宴に少年の私を出席させようとしました。

 そこで母は私のためにせっせと羽織と袴を縫いました。私は気弱な子だったですけれど、その時ばかりは、なぜか誇らしげにその羽織と袴を着て婚宴の席に出ました。羽織と袴は当時、一応の礼服でありました。

 イエス様のなさった喩え話に、こんな物語があります(マタイ22:1〜14)。ある王様が大宴会を用意して、たくさん客を招きました。しかし彼らは言い訳ばかりして、やって来ません。王様は「無礼なやつらだな。仕方がない、大通りや小道に出て行って、出会う連中をみんな連れて来い」と命令しました。

 当時の風習として王様の城に入る者はすべて礼服を着なければならないのですが、しかし一般庶民が礼服など持っているはずがない。そこでお城の門では礼服の貸衣裳を用意しておきます。そこで、みんなは喜々として、その礼服を着て婚宴の式場に入るのです。

 ところが一人、礼服を着ないで式場に入った男がいる。王様がこれを見て言った。「なんという奴だ、俺に反逆心があるに違いない。こいつの手足を縛って外の暗闇に放り出せ」。

          *

 話題をちょっと変えて、私の初期の伝道のことを話しましょう。私は1949年(昭和24年)、今は大分市に合併されている鶴崎という町で伝道を始めました。日本キリスト教団別府不老町教会の鶴崎伝道所という名目でした。当時、親しくして頂いていた牧師の野町良夫先生の了解を得てのことでした。

 後日、現会堂の献堂式に、当時教団の四国教区長をしておられた先生を説教者にお招きしたのは、その時の感謝の気持ちを少しでも表したかったからであります。

 さて幸いに、後に当教会の執事になられた林さんの家の部屋を毎週借りることができて、そこで集会を始めました。第一日はだれも来ませんでしたが、その後、少ないけれど、おいおいと人も集まりました。その中で、最初に信仰に入られたのが大石美栄子さんです。

 この方は戦前小学校の先生をしておられた。戦後、親元に帰っていましたが、貧しい生活でした。私が大分市の大きな家具店の女中さんにお世話してあげたほどです。

 ところが、その家具店で毎日のように泣いているらしい。「なんで、あの人、あんなに泣くのでしょうねえ」と家具店の奥さんが私に不審がって言うのです。私には分かっていました。彼女は自分の罪に泣いていたのです。

          *

 キリスト教の集会に行って聖書を学びさえすれば、立派な人になれると思っていた。精神修養の場所と思って、釘宮さんという若い青年の集会に行ってみた。確かに、この釘宮さんは何ものか確かなものを持っている。ある人に聞いた。その人が釘宮さんに尋ねたそうです。「どうしたら先生のような信仰を持てるですか」。釘宮先生答えて言わく、「私の真似をしなさい。私の言うとおりにしなさい、必ず私と同じような信仰を持てます」。

 私は、後にこのことを聞いて、私の当時のあつかましさ、大胆さにびっくりしたのですけれども、これも真理ですね、パウロも似たようなことを言っています。私は当時聖霊の第二次体験をしたばかりで、どこか変わって見えたでしょうね。

 さて、その大石さん、私の真似をしたか、どうかは知りませんが、とにかくある日、突然に当時の私そっくりの信仰を持ったのです。

 私の伝道第2年目でした。家具店の炊事場か洗濯場でか、彼女はみ言葉に触れました。「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)。彼女はその瞬間、分かったのです。「主イエス・キリスト様を礼服として着るのです。そのまま中身はどんなに汚れた、醜い自分であっても天国に入れる。人目はどうであれ、神様は私の中身ではなく外側のイエス様を見て、喜んで私を義しい人として見てくださる」と。こうして私のお弟子さんの第一号が生まれたのです。

 母は私のために羽織と袴をつくり、王様は貧しい者のために礼服を用意しました。同じように神様は私たちのために天国に入るための高貴な礼服を用意して下さるのです。 

 

進化論を超えて

 宇宙はどうして出来たのか。万物はどうして現在のような姿になったか。これをダーウィンは進化論で説明する。今の日本の学校教育はすべて進化論によっている。教会でもいわゆる進歩的教会はこの進化論で聖書の創世記なども説明しているかも知れない。教会員諸兄姉、嗤ってはいけない。かつては内村先生もそうしたのだ。だいたい、内村先生は進化論で苦労したと思う。聖書が、今自分が住んでいる社会の時流と反する時、その解釈、対応、姿勢をきめるには大変苦労する。非戦論、また然り。▼聖書は「万物は全能の神様によって造られた。無から有が生み出されたのだ」という。これを創造論と言う。絶対的創造論なら、ここでおしまいだが、妥協的解釈をすると、例えば、「聖書によると神様は六日で世界を造られたとあるが、しかし、この一日というのは神話的表現法であって、実は何億年もかけてじっくりとダーウィンの進化論のよにうに作られた訳である」と言う。内村先生もそんな趣旨で語っていたと記憶する。最近では進化論も学問的にも旗色が悪いらしく、国家の教育行政で進化論が幅を聞かせているのは日本だけだという噂もある。▼さて、こんなことを私は考えている。小高い岡の上に泉があるとする。その泉から水を麓の町にパイプでおろして、公園の噴水にしている。その噴水の水の高さをどれほど高くしようとしても、ポンプアップすれば別の話だが、当然、元の岡の上の泉の高さ以上にあがる筈は無い。▼私たちの宇宙が進化論的に自然に出来てきたとした時、いま我々人類は最高の頂点にいるのだろうか。目下、私たちが見回す限り、そうらしい。この私たち自身を観察すると、知恵があり、創造力や芸術的感性もある。まして人によっては高度の道徳心、目を見はるような犠牲的精神、愛の心がある。そこにはしっかりした自我意識がある。こういう意識はどこから生れたのか。▼先にのべた岡の上の泉と噴水に模して考えよう。初めに宇宙が出来る時、それが人間精神以上の意識者から生まれるのでなければ、私たち人間が生れ出る筈はなかった。私たち人間を生み出した「人間的な余りに人間的な」(ニーチェ)否、人間以上に人間的な、愛と正義と聖なる唯一のお方は、今もこの宇宙に遍在、充満しておられ、私たちと共におられる方なのである。これ、正しく聖書の神様ではないか。  

 

 

2001/12/2

声無き言葉、神の声を聞こう 

  「もろもろの天は神の栄光をあらわし、
  大空はそのみ手のわざをしめす。
  この日は言葉をかの日につたえ、
  この夜は知識をかの夜におくる。
  語らず言わず、その声聞こえざるに
  その響きは全地にあまねく、
  その言葉は世界のはてにまで及ぶ。」

 この詩篇、詩想が壮大です。これは詩篇第19篇の1節から4節までの詩句です。第5行目だけ文語訳をあてました。他の行は口語訳ですが、ほとんど文語訳の文体を踏襲しています。

 先日、私は高砂教会(手束正昭先生)で行われた高砂アシュラムに行って来ました。帰ってきて、ふとこの詩篇を読みました。

 無声の声、無言の言葉、この言葉は創造の初めから日夜たゆみなく語られていると言い、その無言の響きが全地にあふれているのだと、言います。非常に不思議な詩です。老壮哲学風な世界です。まさにアシュラムだなあ、と思いました。

 アシュラムのことは11月4日の週報に書きましたが、「インド途上のキリスト」を書いたスタンレー・ジョーンズ師の創始された聖書黙想運動です。瞑想と言ってもよいのですが、日本人は瞑想というと、とかく座禅やヨガの修行を連想し、無念無想の境地になることと思って難しくしているのです。

 逆に、黙想と言えば、今度は思いをあちこち浮遊させて、ぼんやりしておること。その時、何か心に浮かんでくれば、それを拾い上げて気のきいた一句でもノートしておこうか、という程度のことと思いやすいのです。ただし、カトリックでは黙想というものを、もっと深く捉えているかと思います。

 ヘブル伝統の瞑想は、神のみ言葉を基盤にして、そのみ言葉の深みを心に刻むことです。暗誦が大事す。詩篇1:2に「昼も夜もそのおきてを思う」とあります。ここに、その流儀が見えます。たとえば、最初の内は、一句でもよい、あるいは1、2章にわたる長いみ言葉もよい、そのみ言葉を何度も、何度も心や口で、口ずさむのです。聖書は言います、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」(コロサイ3:16)。

          *

 さて、アシュラムでは聖書を何度も繰り返し拝読しつつ、心を低くして聖書のみ言葉に取り組むのです。心をひそめ神様からの語りかけを聞こうとするのですが、知性であれこれみ言葉を解釈してみたり、又、み言葉に自分の信仰生活を照らし合わせて反省したり、時には自分の困っていたことを解決するみ言葉を発見して喜んだりする、その程度にとどまるかもしれません。それでも良いのです。やっている内に、次第に深まって来ます。

 やさしい事から、程度の低いところから始めて、繰り返し継続して身につけてゆけばよいのです。次第に向上します。無言の神の言葉が聞こえ、神様の御心を悟るようになります。アシュラムは言い替えれば信仰の訓練です。信仰のために自分を訓練することは非常に大切であります(第一テモテ4:7参照)。

 ですから、アシュラムのみならず、牧師から何事かを奨められたならば、大小にかかわらず、さっそくやってみることです。やっている内に少しでも手が上がり、更に鍛錬され、より優れたクリスチャンとなるなら、その人は教会のご用にも、外に出て伝道や奉仕の場にも、きっと大いに役立つ人になるのです。

          *

 アシュラム的訓練を励行してゆけば、次第にみ言葉をとおして神様の御心を正しく受けとめ、時宣に適ったご奉仕もできる人になります。また神秘的な御心を察し、神様からの預言の声を聞く人にもなるでしょう。然り、

 私たちは神の栄光に仕えるため、天地の初めより選び出された者です。神様は私たちを用いて、人類と万物を暗黒の力から奪還し、キリストの勝利の支配下に置かれるのです。

 クリスチャンは死んでからのみならず、生きている今も、天国の人であるべきです。そのためにはアシュラム的自己訓練をとおし、み言葉の人になりましょう。み言葉が内に満ち満ちている人、その人こそ、イエス様が内に宿ってくださる人です。まさに勝利の人、天国の人です。アシュラムの目標です。 

 

ポップコーン・アシュラム?

 スタンレー・ジョーンズ先生によってアシュラム運動が日本にもたらされて以来、私の経験したアシュラムはチイロバの榎本先生のそれですが、その他にも幾つかのアシュラムがあるらしいのです。たしかに、内面性を重んじる集会ですから、指導者や集まった人たちの霊的傾向により、それぞれ違った面を持ちはじめることは当然だと思います。事の善悪でも高下でもなく、神の子たちの多面性と考えて互いに寛容でありたいと思います。▼今回の高砂アシュラム、いくら天下の高砂教会のおひざもとで開くアシュラムと言っても、所詮あつまった人々の霊性の足し算か、掛け算でおこる聖霊の気圧、もしくは磁場の磁力によって、一応の集団的レベルがきまります。それに加えて手束先生の「第三の波」の講義、また3日目の夜には賛美集会が持たれました。今回はこの賛美集会で私はしゃべり放題にしゃべって、「笑いの祝福」を話しましたが、手束先生はこれを全面的に推奨されて、「笑いのリバイバル」だの、「笑いの神学」だの命名してくれました。多少とも、他教会にきて「笑いの祝福」を語るのは遠慮ぎみになるのですが、この高砂教会では思う存分語りました。アシュラムが終った翌日にも又、賛美集会があって、その時も一段とにぎやかに私は「笑いの説教」を語りました。手束先生も信徒の皆さんも大いに受け入れて下さって、「ワッハッハ」とやりました。▼3日目の夜の賛美集会では私の説教がおわり、手束先生が招きをされましたが、そのミニストリーの後、大歓喜が呼び起こされました。50名ほどいましたかしら、全員が立上り、跳ね回り、踊り上がって、手を組んで、輪を作って、賛美と歓声、部屋中に熱気が燃えあがる。暖かい強烈な聖霊様の臨在です。手束先生は元来学者タイプで冷静な方ではないでしょうか。とても、飛び上がって叫び声をあげる方には見えません。ところが先生が導かれると、そこにこのような聖霊様のいちじるしい働きが現出する。▼この時、先に各細胞(ファミリーと呼んでいる)で、み言葉を静聴して各自に与えられていた聖霊の実が結実し、熟して、固まって、ポップコーンのようにはじけたのでしょうか。このようなポップコーン・アシュラムをいつの日か大分でも開きたいと思ったことです。「大分聖霊アシュラム」を……。 

 

 

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