キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2002年2月

2002/2/24

  (「日岡通信」第8号)

日曜日は教会へ  

 テレビで評判だった「大草原の中の小さな家」、日曜日には子どもたちが何もせずに椅子に腰かけて足をブランブランさせている場面を見たことがあります。「安息日だから何もしてはいけない。勉強もしてはいけない」、ということです。

 子どもたちは午前中は教会に行き、礼拝が終わったら家に帰って、あとはただ足をブランブランさせているだけ、ということなのです。

 私はびっくりしました。さすがピューリタンの後裔です。さぞや、子どもたちは、日曜は面白くなかったことだろうと同情しました。

 安息日というのは、もともと旧約聖書の教えです。神様の創造のパターンを追随して、6日働いて7日目は仕事を休むという律法です。これは旧約の時代においては厳格な律法でした。この律法に反する者は殺されねばなりませんでした。

 ところで、イエス様の時代には、この律法の解釈と判定が微に入り、細をうがち、適用されていました。熱心のあまりの硬直化ですが、ついに病人の治癒も仕事のうちに数えあげられました。

 ですから、イエス様が安息日に病人をお癒しになると、「それは安息日違反だ」と言ってユダや人たちがイエス様を責めるということが起るのです。

 たとえばヨハネ5:16が、その一つです。その時、イエス様はユダや人たちに答えています。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)と。

 イエス様はここで、安息日を否定しているようにも見えます。たしかにイエス様は律法の完成者でありますから、逆説的に一方に律法を破棄するという面が出て来ます。それが、一番はっきりしているのは祭儀律法です。牛や羊を全焼の犠牲としてささげるという律法です。イエス様ご自身が犠牲となって贖いを完成してくれましたから、二度と動物の犠牲をささげる必要ないのです。

 しかし、他の律法のほとんどは、新約の時代になっても生きています。たとえば什一献金ですが、「あれは旧約の律法だ。新約の時代には必要ない」と言う人が、居るものです。しかし、マタイ23:23を見ますと「それもしなけらばならない」とちゃんと、主は肯定しておられるのです。

          *

 それにしても、安息日問題は微妙です。教会歴史を見ると、いつの間にか安息日が日曜日に移動しています。前述の「大草原の中の小さな家」に見られたように、日曜日を安息日として扱っています。

 この点に反対するセブンスデー・アドベンティストの方々の言い分には、傾聴すべきものがあります。なんと言っても、この安息日の命令は「永遠の契約、代々にわたって守るべき」(出エジプト31:16参照)」ものだと聖書にも書かれてあるのですから。

 しかし、安息日問題は一応、最後に回します。私には、もう一つ考えたい事があります。この時、イエス様が言われた「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)というお言葉に、もう一度目をとめたいのです。

 イエス様は安息日を父なる神の律法として必ず重んじられたはずです。しかし当時の安息日に対する行き過ぎた頑くなな解釈に束縛されませんでした。

「私は安息日の主だ」とおっしゃって、死より命を奪い返し、病気を追い出すことについては律法学者やパリサイ人たちの攻撃に公然と立ち向かいました。

 イエス様が安息日に、38年も病気をわずらっていた人を癒したことがあります。その時、ユダヤ人たちがこぞってイエス様を安息日違反で責めましたが、イエス様はその時、先に引用したように答えられたのです。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)と。

 父なる神様は天地創造を終えられた時、7日目に一度はお仕事を休まれました。この神様の創造活動のパターンを模倣し踏襲することは、神の似姿として造られた人間として当然の義務であるとする、その一つが安息日の律法です。

 ところで、人間の始祖は神様のご命令に違反して、禁じられた木の実を食べて罪を犯し、死と滅びとが人間に入り、他のすべての被造物にも及びました。その罪の禍根を根本的に取り除き清めるため、神様は御ひとり子イエス様を地上に遣わされたのです。

 このイエス様の十字架の血の力が、サタンの縄目、罪と死と病との牢獄から人類を奪還し、呪われた全被造物に回復の望みを与えるのです。

 この福音の力が個人に対して注がれる時、み言葉が聖霊を伴って光のように、その人の霊に差し込んできます。アウグスチヌスやジョン・ウェスエーなどに、その例を見ることができます。

 もっと激しい霊的現象を伴うことがありますが、それは、それほど重要ではない。徹底した回心が重要です。その時、彼の魂に強い信仰が湧き、絶対の平安が訪れ、深い確かな確信が与えられ、そして世にも無い豊かな喜びに満たされる。「み言葉が打ち開けると光を放って愚かなる者を賢くする」(詩篇119:130)と詩篇にあるこの言葉は、その経験を歌っています。

 この平安と確信と喜び、これはイエス様を信じる人に必ず起ります。絶対の安息です。この恵みの体験をヘブル人への手紙は語っています。

 ヘブル人への手紙第4章や、それ以下を注意深く読んでくだくさい。安息日の原形は神様の万物創造の7日目の神の休みです。それは将来、キリストによってクリスチャンに与えられる絶対の安息のモデルでありました。

 その安息は、神の子たちのために残された永遠の安息です。それは、イエス様の十字架の御前にはばからず出て行って、いつでも常に与えられることができる安息です。

          *

 私は信じます。日曜日は神様のために、全力をあげて働くべき日であります。たとえば、教会での朝の礼拝を英語でモーニング・サービスと言います。ここで言うモーニング・サービスは喫茶店の朝のパンとハムとコーヒーの朝食ではありません。朝の礼拝です。礼拝とは神様にささげるサービスです。ここで言うサービスとは商品の値段をまけることや、ホテルの客扱いのことではありません。「奉仕」です。身をもって働くことです。

 クリスチャンの皆さん、日曜日は必ず教会に行きましょう。そして午前の礼拝だけでない。午後も、熱心に働いて神様への奉仕にいそしみましょう。

 日曜日は、週の最初の日。働きのための第一日です。そして。月曜日以下土曜日までは、家族のため、社会のために働くのです。

 「働かざる者は食うべからず」(第二テサロニケ2:10)と聖書は言います。レーニンもこの言葉を利用しましたが、もともと聖書の言葉です。週日の労働の原形は日曜日の神のための奉仕にあります、それは今も常に日々働きたもう父なる神様とイエス様のお働きを模範として私たちも働くのです。日曜日も、週日も、神様のために働くのです。

 まず声を大にして言いたい、「日曜日は教会へ」。

          *

 安息日のことついて一言つけ加えます。安息日は旧約の戒めどおり土曜日とするのが本来でしょう。

 しかしまず、仕事をする、しないではなく、本当の安息は神の前における霊の安息でしょう。前述したヘブル人への手紙にあった主にある安息です。

 だからと言って、形の上の安息も大事です。仕事を休んで神様を想い、聖書を学び、祈り、賛美し、瞑想するというような安息日の一日を一週間のうち一日くらいは持つことは最上ですね。詩篇46:10(文語訳)に「汝ら静まりて、我の神たるを知れ」とあります。安息日を回復しましょう。 

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【あとがき】

よく聞いた事ですが、年を取るとたしかに月日のたつのが速い。今の教会堂を建ててから、もう26年にもなると聞くと驚かざるを得ない。その間、いわゆる教勢にも起伏があった。私の至らぬ故に、しかし又、神様の恵と経綸により、今この教会がある。又、多くの信徒諸兄姉や主に仕える同労の先生方のご援祷のお陰である。心から感謝するしだいです。▼昨年のキックオフ聖会の頃より、また本年1月、永井明先生がダニエルを助けた天使のごとく、この教会の「助け手」として来られてより、礼拝も伝道もいちじるしく変化しつつある。なまけず、高ぶらず、祈って、新しいヴィジョンをいただいて、今後の歩を進めたいと思うのです。▼本日の設立26周年記念礼拝に御出席くださった皆さんに心から感謝いたします。市内、県下、九州、日本、世界、すべての教会が一致して、主の来臨を待望しつつ、主のお働きに参加できることを感謝します。 

 

2002/2/17

  (「日岡通信」第7号)

設立26周年記念礼拝へどうぞ  

 この教会堂が建てられて26年たっているというので、私は驚きました。永井先生に「この教会の設立はいつだったですか」と問われたとき、私は絶句したものです。そういうことに、私はどうも無頓着なほうです。調べてみたら、現在の会堂の献堂式をしたのは1976年2月22日でした。永井先生と相談して、では、この日をこの教会の設立の日としようということになったのです。

 思い出してみると、この献堂式の時、私は挨拶の中で「私は牧師意識に目覚めた」ことを宣言したものです。それまでは伝道者ではあっても、牧師とはさして意識していなかったのです。

 「えっ、伝道者と牧師とは違うんですか」と驚かれる方もおられましょうが、言ってみれば職分の違いです。日本では実態として、一人の人がこの二つを兼ねているのが普通ですが。

 かねてから、私には牧師らしい心構えは乏しかったのです。全然なかったとは言えません。求道者の方に一行置きに日記を書かいてもらい、その一行空いた所に赤インクの書き込みをして回心するまで、お導きしたことなどもあります。鶴崎伝道のころです。

 鶴崎伝道は1949年10月からはじめました。鶴崎という町は、今は大分市に合併されています。その後も、何度かの屈折を繰り返して、ついに現在の大分市日岡に会堂を建てたのです。今は古びた会堂になりましたが、当時は嬉しかったものです。

 それまでは、集会の名称を「キリストの召団大分集会」と称したり、「キリストの弟子兄弟団大分福音集会」と言ったり、献堂式の直前は「キリストの福音大分集会」でした。

 「キリストの……」という名称は私の一つのこだわりです。「福音」はキリスト様からのものです。だから「キリストの福音」なんです。そして、1976年2月22日の献堂式の時から、キリストの福音大分教会と称してきたのです。

 こんなわけで、この献堂式の日を当教会の設立の日と決めるのは適切なことだと、あらためて私は思いました。このことのきっかけを永井先生は作って下さいました。感謝です。
 そこで来週、その2月22日が来ます。すぐ次の日曜日、2月24日に「設立26周年記念礼拝」を開きたいと思います。格別の儀式をするわけではありませんが、この日、私自身、この教会に対する使命を再確認し、この教会の実践的伝道方策に大転機を来たらせる仕切りの日となったな、と思いました。ご一緒に26周年の喜びをことほぎたいのであります。そして設立30年にむけて、リバイバルを切望しつつ今後の伝道努力を期したいと思います。

 なお、教会暦では先週の水曜日が「灰の水曜日」でした。この日からレントという期間に入るのです。受難節、大斎節、四旬節などと呼びます。主のご受難を覚えて断食など節制、克己の四十日を守るのです。カトリック教会では重要視される特別な期間でしょうが、私はこうしたことには疎(うと)い方です。K君がこうした日を口にするものですから、私も多少心にかけはじめました。

 尤も、アドベントはともかく、レントのほうはプロテスタントでは具体的に守る教会は少ないようですが、主のご受難を覚えて敬虔に慎み深い日々を過ごすのは善いことです(復活節の日まで
主日6日を除いて40日間)。教会によっては復活節前の一週間を克己週間と呼び、食事を簡素にしたり娯楽を排したりします。

 それでは来週の主日、設立26周年記念礼拝を行います。

 

   信 仰 の 反 対 語    

 信仰の反対の言葉はなんという言葉でしょうか。「不信仰?」、「無信仰?」、「堕落?」、「罪?」、なるほど、どれももっともです。

 でもクリスチャンの私たちが一番、陥りやすい信仰の反対は「恐怖」です。

 しかし、善い意味の「恐怖」もあります。それは「神を恐れる」ことです。「神を恐れることは知恵の初めである」と聖書にあります。エバとアダムは知恵を求めるのに、神への恐れを忘れてサタンの誘惑に引きずりこまれました。神を恐れる人にはサタンの誘惑を退ける正しい知恵が与えられるのです。

 喜びの物語「パレアンナ」を読むと、パレアンナのお父さんは彼女に聖書には「喜び」に関する言葉が800以上もあると教えています。同じように聖書には「恐れる」という言葉も800ほどあるようです。ただし、旧約聖書の中の「恐れる」は、その半分が「神を恐れる」という句に使われています。

 「神を恐れる」という言葉に等しい意味の言葉を新約聖書に捜すとすれば、それは「神を信じる」、あるいは「神をあがめる」でしょう。

           *

 さて、旧約聖書の列王記上17章を読むと、そこにエリヤという預言者が出てきます。その時代、イスラエルの社会は乱れ、王様はアハブという悪い王様でした。エリヤは出かけて行って王様に会って、予言しました。「この国に飢饉が来ます。私が『雨よ降れ』と言うまでは雨も露もありませんよ。」

 事実、そうなりました。さあ、国中、水がありません。エリヤ自身も困るわけですが、神様はエリヤを山地のケリテ川というところに行かせました。そこには、まだ水があったからです。またパンと肉をカラスに運ばせました。

 こんな風で、神様のご約束はすごいですね。この頃から、カラスは賢かったのでしょうか。神さまのお手助けをします。ともあれ、その後、ケリテ川の水も無くなります。すると、

 今度は神様は「隣国のザレパテに行け。そこのやもめの女にお前を養わさせる」と言われるのです。ザレパテに行くと、一人の婦人がたき木を拾っていました。エリヤはその婦人に頼みました。

 「私に一杯の水をください」。飢饉で乏しいはずの水ですが、その婦人は水を持って来ました。

           *

 それを見て、エリヤは「私に一口のパンを持ってきてください」。さすがにその婦人は、その要求には応じられません。「あなたの神は生きておられます。私はウソは言いません。パンはありません。甕(かめ)に一握りの粉と瓶に少しの油があるだけです。拾ってきたたき木で私と子どものために最後のパンを作って、今生のなごりにそれを食べて死のうと思っているのです」。なんというけなげな婦人よ!

 エリヤは言います。「怖れるには及ばない。行って、あなたの言ったとおりにしなさい。しかしまず、それで私のために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子どものために作りなさい。『主が雨を地の表に降らす日まで、かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない』とイスラエルの神は言われるからです」。

 彼女は行ってそのとおりにした。彼女とエリヤと彼女の家族も、その後久しく食べた。主の言葉のとおりに、そのかめの粉は尽きず、瓶の油は絶えなかったからである。

           *

 以上、この頁の文章はほとんど聖書のままに書きました。エリヤの信仰もさることながら、この異邦の婦人の信仰に驚きます。どこの馬の骨とも知れぬエリヤの言葉に従順に従います。これこそ信仰です。食べるのも自分たちを後にしてエリヤに一番にパンを持って行きます。信仰とは神の言葉に従順ということだと分かります。

 もちろん、偉いのはエリヤです。それだけの信仰をこの異邦の婦人にいだかせるだけの権威がエリヤにあったと言うことです。

 エリヤが最初に言った「恐れることはない」という言葉に力があったのでしょうね。またエリヤ自身、自分の言葉に励まされたことでしょうね。それは私たち自身の経験から察するのですが。

           *

 最後に書きたいことがある。この「恐れることはない」という言葉の翻訳が問題。これでは恐怖は追い出せないと思う。しばしば聖書に出て来る、「恐れることはない」とか、この「怖れるには及ばない」とかは、私の調べたかぎり、すべてヘブル語やギリシャ語の原文では、率直に「恐れるな」と訳せる言葉である。文語訳によくある「恐るる勿れ」、これが一番よい。心配と不安、恐怖、これらはすべて信仰の敵である。恐れて戦(おのの)いている人に向かって「恐るる勿れ」と一喝せよ、自分に向かっても一喝せよ。これが手っとり早い恐怖に勝つ道です。

 これが私の言う「自己命令法」です。その他、自己の心を変え、気分を変え、性格を変えるコツを書いた小冊子「だれでも出来る『心の強化法』」を目下準備中です。お申込みください。 

     …………………………………………………………

    【あとがき】   文中にも書きましたが、設立26周年記念礼拝など、私は思いもしなかったです。こういう行事や催しには私は音痴のようです。私は教会でよくするバザーなど一回もしたことがない。3年先には30周年記念が来る訳ですが、どんな行事になるでしょうか。心構えをしておきましょう。▼先週の水曜日(2月13日)、ユース・ウイズ・ア・ミッションの弟子訓練学校の生徒2名(女性)が来て、一泊。翌日の祈祷会の席上で証しをしてもらいました。勇気ある無銭伝道旅行である。初め、鶴崎にきて路傍伝道。それから祈って、私どもの教会を示され、電話をした由。私自身、かつて西東京の今橋先生と一緒に無銭伝道旅行をした経験があるから、多少の不安と、神様による不思議な導きの感動。泊めてくれる教会での感激!、私にはよく分かる。前日は別府の永野先生の教会に泊まったと聞いて、そりゃ良かったね、と喜んだことです。神様の導きの御手を感謝したことです。▼さて内々、教会墓地、ないし納骨堂を作らねばならないか、との話題が出ている。これについてお考えやご提案のある方。耳寄りな情報のある方は、牧師か相良姉までお知らせください。▼先日、手束先生のセミナーの後、ご一緒にサッカー競技場のビッグアイに行ってみた。ここで甲子園ミッション級の伝道会をしたいものです。 

2002/2/10

(日岡通信第6号)

新しいページは開かれる  

 この24日に当教会の設立記念礼拝を開くことになりました。1976年2月22日、会堂献堂式をあげたのです。それまで無教会主義で独り合点で威張ってやっていた(?)センセイ意識から、私は牧師意識に転換しようとした日です。それから16年たった1992年のことです。永井先生から3月19日に始まる「茨木宣教30周年記念聖会」に私と妻が招かれました。その聖会の席上で、私は永井先生の手で、「イエス・キリストの福音の群」の名誉牧師として、その称号を授与されたのです。

 さあ、もう「私はもぐり牧師です」などと人を食った挨拶をして周囲を笑わせることもできなくなりました。謙遜そうに見せて実は逆に高ぶっている私の悪い癖です。永井先生はこういう所から私を引っ張り出してくれました。

           *

 さて、この聖会に私たちは交通渋滞で30分ほど遅刻したのです。第1回の永井先生のメッセージが半分ほどのところでした。その時の先生のメッセージの凄さに私はびっくりしました。いつもの永井先生の調子と違うのです。

 最初のメッセージは「み言葉にかたく立とう」というタイトルでした。聖書はルカによる福音書第五章の初めの個所です。

 イエス様がペテロに言われます。「沖へ舟をこぎ出し、漁のために網をおろしなさい」。

 しかし、ペテロは首を振って答えます。「イエス様、私たちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした。しかし、あなたのお言葉を信じて網をおろしましょう」

 網をおろすと、どうでしょう、2そうの船が一杯になるほど、魚が取れたのです。ペテロは驚歎し、また畏敬の念で一杯になって、イエス様の前に打ち伏して叫びました、「主よ、私を離れてください。私は罪あるものです」。

 イエス様のお言葉、聖書のみ言葉を信じて、そのみ言葉にかたく立って事を為す者に、神様は奇蹟を与えなてくれます。この時の永井先生のメッセージの重大ポイントでした。永井先生が叫んで言われた。「正直に言いたい。私たちにも少々の奇蹟はあった。しかし、聖書が約束しているような、また使徒行伝時代に行われたような大いなる奇蹟をまだ見ていません。いろいろ理屈をつけて、なぜ今、奇蹟を見ることができないのか、その理由をもっともらしく弁解することはできます。しかし、そんなことはもうやめよう。聖書に帰ろう。奇蹟が現実に起こるのだと期待しよう」

           *

 翌日の先生は第2回目のメッセージで、また言われました。(テキストは、イエス様が五千人にパンを裂いて分けてやるところでした)。

 「この時、男だけで五千人です。婦人や老人や子供をいれると、一万人はいたでしょう。これらの大人数にイエス様お一人でパンを裂くことなど、そんな労働(?)をお一人でなさることは時間的にも不可能です。イエス様は十二弟子たちを召して、『私と同じようにパンを裂いてみなさい。必ずできるから』と言われたに違いない。そして弟子たちはイエス様の大奇蹟の業を見ただけではなく、実際に体験したのだと私は信じます。このような事が現代の日本にも起こるべきです」

 この時、先生は講壇の前に踊り出て、激しく手足を振り動かしながら絶叫されました。「アーメン!」と応答する会衆の声が礼拝室にどよめいて、熱気が部屋中にあふれました。

           *

 聞くところによると。ジョン・ウインバーというアメリカの牧師さんは、信仰をもって大胆に癒しを宣言し始めた時、最初は何ごとも起こらなかったそうです。そして信徒はどんどん減ったという。それにもめげす、宣言しつづけている内に突然奇蹟はおこり始めたといいます。

 この2月の鳥羽聖会では、ムランという牧師が言いました。彼が聖霊に満たされて教会に帰り、「リバイバルがおこります。リバイバルがおこります。リバイバルが……」と叫ぶのだが、会衆はキョトンとしてしらけムードだったそうです。

 教勢は殖えるどころか急激に減っていきます。しかし、ムラン師はかまわず3か月、「リバイバルがおこります。リバイバルがおこります」と叫びつづけました。そして教会の前は巡査がきて交通整理が必要なほどに会衆が殖えたといいます。

 会衆が殖え大きな会堂が建つことが目的ではありません。それは結果です。単に奇蹟がおこることだけが目的ではありません。それは結果に過ぎません。

 マルコ16章のおしまいの箇所を読めば分かります。イエス様を信じる者には、必ずそのようなしるしが伴うのです。

 だからこそ、信じた者は喜びをもって、迫害に耐えるし、もっともっと人々に福音を伝えるし、力つけられ、清められ、感動を家族や周囲の人々に与え、福音的衝撃を世に与える人になるのです。

           *

 その時の聖会では永井先生のほかに、諸先生がたのメッセージや多くのあかしがありました。たとえば、宮崎キリスト福音教会の高森先生が次のような証をされました。

 私のほうの信者さんに、大手のスーパーの優秀社員がいます。彼はイエス様を信じた時、まず日曜礼拝と什一返金を厳守したいと思ったのです。早速、会社の上司のところに行って言ったそうです。

「会社をやめさせてください」

 彼は給料もよかったし、仕事も楽しくバリバリやっているのに、どうして「やめさせてくれ」というのか、上司には見当がつきません。彼に聞きます。

「どうしたっていうんだ?」

 彼は答えます。

「実は、私はクリスチャンになったのです。それで、日曜には教会に行きたいのです。ですが、会社でこんな我がままは言えないでしょう」

 上司はたまげました。こんな話は聞いたことがありません。スーパーですから日曜日はかきいれ時。でも、この上司は重役と相談しました。その結果ついに「日曜は休んでもいいから会社をやめないでくれ」ということになったそうです。

 「安息日を聖とせよ」。このみ言葉にかたく立って、聖書に従おうとした彼に勝利がありました。人間のがわの条件に振り廻されないで、たとえ給料がさがっても、降格されてもいいという覚悟で聖書の標準に従ったところに勝利が与えられるのです。

 什一献金(いいえ、什一返金ですが)についても、すばらしい貴重なあかしが沢山語られましたが、今回は割愛します。

 こうしたメッセージやあかしを聞いていると、私たちの心のうちに「み言葉に堅く立って忠実に従いたい」という熱烈な思いが私たちのき起こるのは当然でしょう。また、イエス様のためにこれまでとは打って変わった熱意をもって福音宣教に励みたいと決意を固めるのも当然でしょう。

 そこで、永井先生は叫ばれました、「きょう、私たちの伝道に新しいページが開かれました」と。聞くもの一同、「ハレルヤ!」を連呼したことであります。

           *

 以上は実は1992年3月29日の週報からの再掲載ですが、今日の私たちの教会に最適の文章だと思ったので、再利用した訳です。私たちの教会も今、新しいページが開かれています。まだ開きかけたところか知れませんが、たしかに今、その胎動を感じます。この、今日の状況を感謝し、再確認しましょう。ハレルヤ!

   ……………………………………………

【あとがき】

旧版「だれでも出来る『心の強化法』」を改定しました。最近の実例もあげて、だいぶ分かりやすくしたつもりです。伊藤道夫という先生の「信仰のための訓練法」という小冊子も付録にさしあげようと思います。「心の強化法」ということは、「信仰の強化法」にも通じます。霊的な世界の法則を世的な法則で解説している向きもあって、気になりますが、決して無駄なことではないと信じます。▼別府温泉背後の城島高原の後楽園ホテルで開かれた第十二回九州ケズィック・コンベンションにE姉と一緒に出席してきました。歴史と伝統のある聖会です。聖書そのものに聴こうとする姿勢が立派であります。▼帰途、鶴見山頂で祈祷会ができるかを視察するため、まず同ロープウェイのレストランに寄り、大分名物「やせうま」を食べる。山頂の案内図を見ると七福神の祠などがあるので、鶴見山頂は断念して帰分する。 

 

2002/2/3

(日岡通信第5号)訂正・加筆あり2/10

  真の愛国者は誰か 

主からエレミヤに臨んだ言葉はこうである。「主の家の門に立ち、その所で、この言葉をのべて言え。主を拝むために、この門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。……。あなたがたはこれは、『主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』、という偽りの言葉を頼みとしてはならない」。(エレミヤ7:1〜4抄)

 前首相の森さんが「日本は神国だ」と言って問題になったことがある。私はクリスチャンとして、特に牧師として、「森さん、それは間違ってますよ」と当然、反対の姿勢だったが、しかし森さんを少し気の毒に思ったのも事実です。

 森さんは、あの時、思いもかけず、えらい深刻な問題として捉えられたので、困ったに違いない。

 日本が戦争に負け、昭和天皇が「私は神ではない」と人間宣言をしてから今日、今でも日本人の多くが本気で「日本は神国だ」と信じているとは到底、私には思えない。

 もっとも日本人のいう「神」という言葉と、キリスト教やユダや教でいう「神」という言葉との間には雲泥の差があります。日本人がいう「神」とは、「隠れ身→カミ」であって、つまり目に見えない超自然の存在者をさす言葉である。もう一つは「上に立つ人」を指す言葉…。今でも皇室や宮内庁あたりでは天皇様のことを「お上(かみ)」と呼ぶらしいですが、料亭の「女将」も同じです。昔は、庶民の間では政府や役人筋を「お上」と呼んだものです。

 日本の神話時代ので、八百万(やほよろず)の神というのは、たぶん私たちと同じ人間であったであろう。つまり、私たちの祖先のことであると、日本人の誰もが分かっているはずです。古代の人を「カミ」と呼んで畏敬する、日本人らしい先祖崇拝の習慣だったのかと私は思います。

 明治維新以降、国のために死んだ人たちを、東郷元帥も乃木大将も、支那大陸や太平洋に戦死した下級兵士たちも一緒にして靖国神社に祀(まつ)る。彼らはもちろん日本人にとっては神様であります。

 このような神社にお詣りすることを、「偶像礼拝」だと言って非難するのは、ちょっと厳しすぎると言うクリスチャンもいるのだが、それは曖昧な態度だと思う。「神社参拝」に反対して大変な迫害を受けた過去の韓国のクリスチャンたちのことを考えるとそれだけでも申し訳ない。

 かかる曖昧さは日本的精神風土です。戦時中、私は実にこの曖昧さに苦しんだし、また私にはこの曖昧さが許せなかった。日本の家々では天井近くに神棚があり、床の間に仏壇がある。「神仏礼拝」と言って神も仏も一緒くたに拝む。こういう矛盾対立するものを包容し受容することを、曖昧だとは言わず、かえって日本人のすばらしい所であると、日本の多くの文化人たちは自慢するのであるが。

           *

 森さんが言った「神国」とは、前述した日本的神々の後裔の国ということなので、けっしてキリスト教でいう「唯一の聖なる神」の国ということではない。日本では「神」という言葉の意味が混乱しているのである。次のようなことです。

 明治以降の日本にキリスト教(、特にプロテスタントの伝道が高まり、またミッションスクールが開校され、あるいは知識人や青年層に影響を与える文学者たちにキリスト教の思想がはいって来た。島崎藤村や有島武郎など良い例である。そういう影響を受けて、聖書にある「神」の概念が、日本人の神というイメージに流入してきたのである。

 だから、現代の日本人に、神とはどんな方ですかと問うたならば、まず八百万(やほよろず)の神やキツネや蛇の神様は、出て来ないでしょう。

 全知全能の神、私たちの隠れた思いや言葉、行いのすべてを知ってこれを責め罰する神、または愛して許してくださる神、そういう神様を漠然とだろうが、日本人は想像していると思うのです。

 このように唯一の聖にして全知全能、義の神、愛の神を、ぼんやりと神として思いこんでいるのが、現代の一般の日本人だろうと思う。

 かつての日本人はもっと幼稚だった。かの福沢諭吉が少年時代に近くの神社に行って、そのご神体を見たら紙か木か、そんな物があったらしい。彼はいたずら気を起こして、川の石ころを拾ってきて代わりに置いて来た。その後も何もしらずぬ衆は、その石ころの神様を拝んでいたそうだ。福沢諭吉は蔭でこっそり笑っていたという。

 今の日本人は、こんな福沢諭吉を非難はしまい、「お宮なんてそんなものさ」と笑って過ごせるだろう。それでもその神社の前で、正面から神社の神を嘲笑し、ののしるなら、やはり日本人の多くは、その人に対して呆れるか、は非難するかであろう。

 戦前、大分にいた某宣教師、神社の鳥居の前にくると帽子をぬいで挨拶をした。「なぜそんなことをするのですか」と聞くと、「人が尊敬しているものを、ないがしろにするものではない。それは非礼というものです」、と言ったという。私は感心もしたが、一概に賛成もできなかった。このようにして山本七平に言わせれば、宣教師すらも日本に長く住むと、「日本教」になってしまうというのである。

           *

 さて、その戦前のことです。その「日本教」が激しくなってきた。キリスト教に「皇道キリスト教」が出来たくらいです。ひどい教会では礼拝式の中で「東方遥拝」をした。大分では 天皇の住まわれる皇居、戦前は宮城と言ったが、その宮城は大分からは東に当たる。だから東方にむかって遥かに拝む、それが「東方遥拝」です。

 少年時代、私の通った学校では、校長や配属将校の「賢くも……」と思わせ振りな声がかかると、生徒たちはそれと察してパッと脚を「気ヲツケ」の姿勢に揃えるから、靴の踵(かがと)がふれあってカツッという音が校庭中に響きわたったものである。

 そのような時代、皇居や、伊勢神宮、靖国神社、明治神宮など、その前を通るだけでも、前述の宣教師ではないが、万人そろって帽子をぬいで、敬礼をした。東京の市内バスなど車掌が必ずその注意を乗客に告げたものである。車掌がそれをうっかり忘れると、車中の乗客の中から、「コラッ、礼を忘れたな。非国民」と罵声があがることさえあった。

 そのような神社の前に立って、「天皇が居られても、神社や神宮や神社の神様が居られても、国民が正義を行わず、盗みや詐欺や物資の横流しやワイロや姦淫が横行するような国民のいる国が、どうして戦争に勝てようか。東洋の盟主だなんて言えようか。

東条首相や軍部や、いわゆる愛国者、右翼の人たちは、『この戦争は東洋平和のため、支那や東南アジアの植民地解放のため、世界を一つにするためである。ゆえにこの戦争は聖旨を行う聖戦である』と言う。そんな偽りの言葉にだまされてはいけません。

戦争の実態を知っていますか。もちろん、彼らの多くは善良なる日本人。家庭に帰ればやさしい夫やお父さんでしょう。しかしその多くは現地の人民を蔑視し、現地調達と称して、食料など強奪し、時には気にいらないとスパイだと言って殺したりする。いまわしい強姦などさえ起こるのです。

 多くの兵士たちには東洋平和など、そんな高尚な考えはありません。野獣のごとくふるまっている兵隊たちも少なくないのです。みなさん、『日本は神の国だ。神様が守ってくださる。いざという時には神風が吹く』などと言いますが、とんでもない。

 日本国民よ、悔い改めなさい。偽りの言葉にだまされてはいけません」。などと叫んだらどうでしょう。

 あの戦時下ですから、警察に訴えられる前に、激した愛国者たちのリンチにあって殺されてしまったかもしれません。

           *

 冒頭にあげたのは、預言者エレミヤ(紀元前600年頃の人)が神様から聞いた命令の言葉でした。大よそ、こういう言葉です。

 「エルサレムの神殿の門をはいって、この国の民が、いくら敬虔そうに『これは主なる神の神殿だ、神の神殿だ。この神殿におられる神に守られて、我が国は安泰である。安泰である。』と言っても、私はこの国の民が罪を悔い改めない限り、私はこの国を見捨てる、とこの国の民に言え」(エレミヤ7:1〜14、同9:11参照)。

 当時、ユダヤの国は東の国、アッスリヤや、後に新バビロニヤ、南のエジプトなどの強国にはさまって不安定な国情にありました。ところが当時より100年ほど前の国難の時代に、預言者イザヤの指導と祈り、名君ヒゼキヤ王の信仰とあいまって包囲されたエルサレムが神の奇蹟によって救われ、戦いは大勝利を収めたという事例があったのです。この記念すべき歴史的事実が、100年後、エレミヤの時代の王や国民を高慢にするのです。

 そのエレミヤの時代、王も人民も唯一の全き神への信仰を捨て、醜悪な生活を続けました。彼らは形式的に神殿に犠牲をささげ、信仰の格好をつけながら、その見せかけの信仰によって我々の国は大丈夫、安泰、戦争に負けることなどあり得ないと、驕り高ぶっていたのです。

 かつての日本人が「昔、元の大軍を神風で追い返したではないか。だからどんな危機が来ても決して負けない。なぜなら、日本は神国だからだ。きっと神風が吹いて必ず勝つ」と盲信していたように、彼らは100年前のイザヤ、ヒゼキヤの時代の神による奇蹟的大勝の夢に酔って、安心ならないのに、安心、安心と、堕落した罪の生活を繰り返していたのです。それをエレミヤは厳しく訴え、警告しました。

そのようなエレミヤでも、初めは神様の召命に素直には従えませんでした。「ああ、主なる神よ、私はただの若者にすぎません」と、心配しました。

 エレミヤはエルサレムから北五キロ、アナトテという村の祭司の息子です。神様は彼に「あなたは若いなどとは言ってはいけません」と言いました。

 神様は「私はあなたをまだ母の胎に造らない先に、あなたを知り、あなたを万国の預言者とした」と語りました。こうして神様は若者のエレミヤを召し、使命を与えたのです。(エレミヤ1:5以下参照)

 さらに迫って、「あなたの額をダイヤモンドのごとくせよ。この国の王と民に警告せよ」、と励ましました。神に背き、真理に背くイスラエルの国民を、彼は愛し、泣いて忠告します。後世、「泣き虫預言者」とニックネームをつけられたほどです。

           *

 このエレミヤを私が初めて知ったのは、矢内原忠雄先生の「余の尊敬する人物」によってでした。矢内原先生は戦前、東京大学を追い出された人です。植民地学の権威でした。先生が中央公論に「国家と理想」という論文を書いて、当時の右翼学者たちから排斥されたのです。戦後は再び東大にかえり、最後は東大学長になりました。

 この矢内原先生が戦前に出した本に「余の尊敬する人物」がありました。初期の岩波新書ですが、あの時代に岩波はよくもこういう本を出版したものです。「私の崇拝する人物はただ一人ですが、尊敬する人物は他に幾人かいます」と序文にありました。

 もちろん「私の崇拝する人はただ一人」というのはイエス様のことです。これだけでも、戦争中としては勇気ある言葉でした。「崇拝する人物はイエス・キリストだけです、天皇ではない」、と言っているのです。私は当時、この言葉を読んだだけでも、涙が出たのを覚えています。

 本の内容は、たしか最初がエレミヤでした。それからクリスチャンの先生としては不思議かも知れませんが、日蓮でした。そしてリンカーン、最後に五千円札の新渡戸稲造、の4人だったと思います。

 あの時代、矢内原先生はしばしば非国民として非難されました。だから真理に立って本当に国を愛する人、そういう人物を選んで書いたのです。特に日蓮、鎌倉幕府の圧政に耐えながら「立正安国論」を書いた日蓮に、エレミヤ同様に心を寄せていました。

 その日蓮の章の最後の所に「だれが真の愛国者であったか、それは後の歴史で明らかであります」と書いてありました。烈々たる矢内原先生の気迫が現れている、この文章に私は興奮したものです。

 エレミヤはついには故郷のアナトテの人々から殺されかけます。エレミヤがイスラエルの滅亡を預言したからです。その預言は後に実現します。自分の国の滅亡を預言するのは辛いことです。矢内原先生は書きます。「彼はこの預言が当たらなくて、実現しないことを望みました。自分は恥をかいても良い。祖国の滅亡など決して見たくはなかったのです」と。

 内村鑑三先生は、「こんなことをしていると日本は、その内、皇居の中で麦を撒くようなことになるよ」と言いました。そのとおり、戦争末期のころ、天皇様の住まい、宮城の中で麦を撒くことになりました。矢内原先生も思い余って書いたことがあります。「このような日本よ、滅びよ」と。一種の逆説的言葉使いですが、東大追放の原因になりました。

 イエス様が故郷に帰って伝道の第一声を放った時、怒ったナザレの連中はイエス様を崖から突き落そうとしました。でも、イエス様は、その民衆のまん中を通って去って行かれました。イエス様はこの時、アナトテの人たちに殺されかけたエレミヤのことを思い出さなかったでしょうか。

 エレミヤは祖国の宗教家たちに対し「あなたがたは、この国について平安でないのに、平安、平安と言う」(エレミヤ9:11)と非難しました。ブッシュ大統領の対タリバン戦争宣言を「善し、善し」、と言うアメリカの宗教家たちを、今エレミヤが居たら何と言うでしょう。

 愛国心とは利己心を国家大にしたものだと言った人もいます。愛国心を隠れ蓑にして、私欲を図る政治家もいるものです。「不況だから、戦争を始めよう」と考える企業家もいるかもしれません。愛国心と戦争の間には微妙な関係があります。

「預言者は故郷に入れられない」、エレミヤもその一人でした。イエス様はナザレのみならず、この世界と人類そのものについて、同様でした。

               *

〔付記〕

前記の「戦争中の日本の兵隊の野獣のごとき行為」という拙文については、反感を抱く方もいましょう。特に。ご自身が出征されて現地の人々に対し立派に処された方々は憤慨なさるでしょう。私はそういう立派な方々も多かったことと信じています。

 私が非常にお世話になった野町良夫牧師などは第二次大戦中、ジャワに従軍して現地の人たちから非常に慕われたと言います。その秘話をいくつか聞きました。だからと言って話にならないひどい兵隊がいたことも事実です。

 昭和12年のことですが、私の家に召集された兵隊さんたちが数人泊まったことがあります。一般の市民でも、かつて軍隊経験のある人たちは在郷軍人として登録され、いざという時は正規の軍人として召集されます。こうして召集された兵隊さんたちは、兵舍が一杯なので、一般の家庭に分宿させられるのです。

 私の家に来た兵隊さんたちは大分県の田舎の純朴なおっさんたちでした。少年の私はそうしたおじさんたちと、数日を一緒にたのしく過ごしました。彼らは毎日、小学校や公園などに集められて訓練され、ついに一部隊として編成され戦地に送られて行ったのです。

 その部隊は園田部隊といって南京攻略に参加したのでしたが、その中の一兵卒、私の家に泊まっていた一人のおっさん兵が負傷して、大分の陸軍病院に入院しているということを聞きました。私たちは早速、かのおっさん兵を見舞に行ったのです。実戦に参加した兵隊さんたちの体験談を聞きたかったからでもあります。

 たしかに、その時、兵隊さんの実戦談を聞いたのですが、驚きました。作戦で家を焼いたり、物資を調達する面白さ、つまり強奪です。そして支那の女たちを強姦する話でした。特に強姦の話は少年期の私たちに猥談風に面白く可笑しく話すのです。

 私は恐怖しました。あの温厚な素朴な善人のおじさんが、こんなに変わるものだろうか。私は家に帰っても眠れませんでした。私は初めて戦争というものが、こんなに人を変えるものか、私は慄然としたのです。

 いわゆる自虐史観といって、支那事変などで日本の兵隊が悪いことをしたと一概に責めるのは、私は疑問に思います。戦争というもは力関係、どちらも状況しだいで何でもします。ベトナム戦争ではアメリカ軍も随分悪いことをしたそうです。とにかくアメリカという国は世界で一番戦争をしてきた国だと言う人もいるくらいです。

 戦時中、杉本中佐(階級はよく覚えていませんが)という軍人がいました。この人が「大義」という本を書きました。日本の天皇を徹底的に、絶対的に神として崇め奉(たてまつ)った本です。

 樹々の枝や葉に宿る一滴の露も、天皇様の御稜威(みいつ)やご威光の現われでないものはない、などと言うのです。まるで私たちの神様やイエス・キリスト様に対するような絶対的信仰です。私はその尊厳な天皇信仰にかえって感激さえしたものです。異常な時代には異常な思想も出て来るものだということでしょうか。

 その杉本中佐が実際に戦争に参加して、日本軍の軍規の乱れ、残虐で横暴、卑劣な日本軍人の姿に落胆、悲憤、慷慨したという彼の日記があるそうです。杉本中佐の見たものは極端な例外のことであったかもしれません。しかし、これが戦争というものです。

 戦争現場でそのような悪事を働いた兵隊は確かに悪い。しかし先に書いたように善人の標本みたいな田舎のおっさんを、鬼畜のように変えてしまう、それが「戦争」というものです。

 日本人が悪かったとか、タりバンが悪いとか、イスラエル国民が悪いとか、パレスチナ人が悪いとか言うのではなく、戦争そのものが悪いのだ、というのが私の認識です。私は相変わらず「丸腰非戦論者」ですが、実際に戦争に対面すると、思わずライフルはともかく、石くらいは拾って我が家族を襲う敵に向かって投げかけるかもしれません。戦争はまさに、人類の原罪の標本です。 

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【あとがき】 

この主日の礼拝に出席された会集のみなさんに週報と一緒に配布した「日岡通信」は文字がいっぱいつまっていて、読みにくいと評判が悪かった。文章がたくさんになって紙面に盛りきれなかったので、活字を小さくしてスペースに詰めこんだのです。そこで、頁数をふやして、活字を大きくすることにしました。それが「付記」の前までの個所です。その結果、スペースが却って余りましたので、私の戦争に関する感想を、書いて見ました。▼杉本中佐の記事は戦前の私のかすかな記憶と、宇佐市の都留忠久氏の出される「不屈」という機関紙に載っていた記事を参考にしました。▼永井明先生が牧会と伝道の応援に来て下さっています。教会の組織運営も目だって改善しています。先生と共に楽しく過ごしています。 

 

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