キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2002年10月

2002/10/27 

(「日岡だより」第43号)

日本民族の原宗教性   

 日本に仏教が入って来たのは、538年、欽明天皇の時であると言われるが、その時にもたらされた仏像がキラキラとして美しい神であったので日本人は驚いたという記録がある。この時から日本人は偶像礼拝を覚えたのであろうか。そして彼らの先祖伝来の宗教に、太陽を拝んだり、山や滝を神としたり、また鏡や剣や石さえも神として祀ることをつけ加えることを考え出しのではなかろうか。

 私は1960年ころ、神社神道でもなく、教派神道でもない、皇室に関係があるという不思議な修法を伝える宗教家に会った。実はその人から私は危なつかしい霊的修行法や催眠法や記憶法まで習ったのである。それは私の一番危険な時期でもあったろうか。

 その先生が言わく、「釘宮さん。日本の純粋神道には偶像がない。開祖がない。教義がない。これが日本の宗教の特徴です」と。当時の私は「ハハァ」と言うばかり、何の返事も出来なかった。

 後日、思った。人類の原宗教には偶像は無かったのだ、と。最近、東北大学大学院教授の田中英道という人が、そのことにふれていた。かつて、阿蘇聖会でT師が「お前たち、エホバの神様だって形に作ったら偶像なんだぞ」と言った。私は息を呑んだ。時々、熱心なクリスチャンは教会や十字架や、聖書や、また無教会ではセンセイを偶像にする。T師をだって……。

          *

 さて、ヘブル人たちは神を知らなかった。モーセはシナイの山の麓で、ただ一人のまことの神に出会った。それまでのヘブル人には偶像がなく、開祖もなく、戒律もなかった。ある程度の宗教はあったであろうが、古代の日本人と、ほぼ同じであったと言えよう。

 今、日本人に言いたい。「すべての偶像を捨てて、原宗教に戻れ」と。日本人は幼子のようになって、父なる神のもとに帰るべき時が、いま来ている。まことの父を知らずして泣き叫んでいる日本の純潔な魂よ、イエス・キリストの真理にふれて、今、目醒めよう。

 父なる神の御ひとり子、イエス様をあなたの魂に受け入れなさい。イエス様はあなたの魂を占領し、あなたを新しい人に変えるのです(第二コリント5:17)。


 朝鮮、韓国に対する日本国と日本人の罪 

 拉致問題で日本が北朝鮮を非難すると、北朝鮮の新聞が「過去において日本はもっと悪いことをしている、我々を非難する資格はない」、というような反発をする。私は、この言い分を理解できる。今の若い人たちには、よく理解できないかも知れないが。

 もっとも、「今の日本に住んでいる在日朝鮮人、韓国人のすべての人たちは、皆かつて日本帝国主義の不法な強制連行によって連れられて来た人たちか、その子どもたちである」というような主張を読んだことがあるが、それは少々、過大な言いがかりだと思う。

 こういうことは、出来るかぎり冷静に公平に語りたい。戦前、かなり多数の朝鮮の人たちが日本内地(当時はこう言った)に移住してきた。奨励もされなかったろうが、拒絶もされなかったと思う。

          *

 昭和16年頃だったろうか、大分市の中心街で封筒を手に、それと分かる朝鮮人の老婆がオロオロしながら雑踏の群に何事かを訴えている姿があった。誰もが、うるさそうに、大抵はさげすみの目で追い払うように、避けて通るのであった。

 私はそういう際、一種の義侠心があった。その老婆に声をかけると、彼女は私にその封筒を見せてくれた。その郵便封筒の裏に差し出し人の住所と名があった。私は老婆を連れて、その住所の家を捜した。行ってみると、裏通りの売春宿の一軒であった。

 ドアをあけ、家の者にその封筒を見せるとドタドタと2階から一人の女性が降りてきた。たぶん「オモニ」と言ったことであろう。私には朝鮮語は分からなかったが、この2人が母と娘であることはすぐに分かった。その老婆が朝鮮からどんなに苦労して、日本内地の私娼窟に売られた娘を訪ねてきたことであろうか。私は悲しい思いで2人を残してその場を離れた。

 こういう娘を「無理に連行されて日本にきた」と言うのも、物の言いようで間違いではない。しかし、警察官が路傍の娘をトラックに無理に乗せて連れて来たような強制連行なのではない。まして、袋づめにして連れてきたのではない。

          *

 ところで、朝鮮や韓国の人々が日本国を憎み、日本人を恨む心には特別なものがあるように思う。その本当の原因は、彼らがよく言う、「かつての日帝支配の非道、残酷さ」などという公的見解と違って、その一人一人の心中に刻み込まれた、日本人が朝鮮人に対して持った侮蔑、軽蔑、差別、ののしりの心情ではなかったか、と私は思う。

 私は戦前を日本で過ごした。当時の日本人は、特に軍人たちの会話の中では、中国人をチャンコロと呼び、ロシア人をロスケと呼ぶ、アメリカ人をアメ公と呼び、白人を毛唐と呼ぶ。どれほど、そうした差別用語を使っても、日本人が朝鮮の人々を「チョウセン」と呼んだ時の、その音感とは違っていた。そこには冷酷な侮蔑の響きがあった。これは今の人に説明のしようがない。しかし、その感じは当時の朝鮮や韓国の人たちは身に染みて感じ、覚えているであろう。

 このことたるや彼らにとっては並のことではなかった筈だ。彼らが、「かつての日帝支配の非道、残酷さ」という時、本当はこの屈辱感を思い出しているのに違いない。それを正直に言葉にして言うだけでも、彼らはその屈辱感に身もだえするのではなかろうか。

 この屈辱感が、日本人には分からないのだ。そして彼らの拉致などということについて、私は先週の「日岡だより」で、それを「卑劣」だと酷評したけれども、実は以上のことを思い合わせると「卑劣」などとは、言ってならない言葉だ。私たちの侮蔑の酷さと彼らの拉致の卑劣さは、比例して対極すると私は思う。

 彼らは「お前たちの戦前の非道さにくらべれば、この拉致問題は小さなことだ」と、うそぶいているように多くの日本人には思えよう。しかし、以上のことを、私たちはもっとよく理顔したい。

          *

 日本人を外から見れば、逆に理解しがたい不感症がある。あの大戦中、アメリカは東京を始め、地方都市、この大分市も、昭和20年7月17日だったが、市民の家をことごとく焼いた。最後には広島、長崎の原爆だ。広島では30万の市民を焼き殺した。これは国際法違反ではないのか。記憶装置として知的には覚えているけれども、私たちは感性的に覚えていない。それは考えてみれば私自身がそうなのだ。これは日本民族の遺伝子に組み込まれている忘却装置であろうか。

 その点、ユダヤ人は違う。彼らはアウシュビッツを永遠に覚えて続けるのではなかろうか。日本の神学者がイスラエルに留学して、向こうの学生から「日本人は広島を覚えていますか」と問われて、一瞬たじろいたという経験を聞いたことがある。その聞いて来るイスラエルの学生の「覚えていますか」という語感に、日本人には無いものを感じたという。

 話題をちょっと横に逸らせますが、聖書の神様が私たちを覚えているというのは、この記憶のことです。預言者が迫害に会った時、「主よ、このことを覚えてください」というのもこの記憶のことです。イエス様が「よく覚えておきなさい」とおっしゃったのも、この記憶のことです。信仰とは神があなたの心魂に吹き込まれた言葉を覚えておくことです。

          *

 文章の流れを元に戻しますと、朝鮮や韓国の人々の日本の国の当時の仕打ちに対し、また日本人の心ない言葉に対し、今も尚、とげとげしく詰問してくることがあるし、また泣いて訴えてくることもある。その原因が、かつての私たち日本人の心ない侮蔑の言葉にあることを私たちは認識して置きたい。

 この彼らの感情のことは、公的文章にものらず、新聞にも載らない。私たち年代の者が死ぬと、まったく風化してしまうかも。大正から昭和初年の日本人なら、無意識に覚えてはいるが、それも、このままに葬り去られてしまうのではないか。この断章を一日本人として次代に残しておきたいのです。(く)

 

2002/10/20 

(「日岡だより」第42号)

ゴビの砂漠に300万本のポプラを植えた    

 NHKの番組に《プロジェクトX》というのがある。先週は「運命のゴビ砂漠」という題だったか思うが、この題は良くないですね、しかし、内容は大いに良かった。

 かつて鳥取砂丘に畑を作ろうした人がいた、農林省の役人はせせら笑ったである。しかし、その試みは成功した。鳥取大学の遠山征瑛という教授であった。

 その遠山教授が後年、中国に行ってゴビ砂漠に畑を作ろうとした。その東端に日本の四国ほどのクブチという砂漠がある。そこにポプラを植えようとした。ポプラは根を深く下し、広く張って少ない水分でも吸い取って高く幹を伸ばすのである。

 ある時、日本から1週間のボランティア・ツアーを募って植樹に参加して貰った。その中に福島県郡山市の造園会社の社長・塩田さんがいた。

 この塩田さんが砂漠のポプラ植樹に病みつきになった。そして、それまで鬼社長と言われた塩田さんが年中ニコニコの社長さんに変わった。ついに彼は社長を部下に譲って現地責任者として出向いた。

 仕事は大きくなる。遠山教授は100万本植えようと言う。ついに日本で寄付を募って資金を得た。現地の中国の村人たちを雇って作業を始めた。1本いくらの労賃だった。最初の内は村人たちは浅く掘って早く作業を終わって労賃をかせごうとする。

 塩田さん、一夜彼らと酒を汲みあわして砂漠に100万本のポプラを植えよう。ゴビ砂漠の膨大な緑化計画を語るのである。村人たちは俄然、働き出した。人生意気に感ず、である。彼らの祖国ではないか。そこに日本人が自分たちの金と労力をもってやって来ているのだ。

          *

 大阪のある会社でリストラ寸前、窓際に追いやられて気息奄々(えんえん)だった東条という人、これやってみよう、人生の転換の試行錯誤であったろう、この100万本のポプラのボランティアに乗り込んできた。これが彼を変えた。

 当時、すでに10万本のポプラが育っていた。ところが所々成長が弱っていた。葉から水分が蒸発しすぎるのだ。例の現地責任者の塩田さん、元々造園会社の社長さんである、これを見て「無駄な葉を剪定しよう」と指示した。

 この指示に無条件に従ったのが東条さん、10万本のポプラを一本一本這いつくばって下枝を切り、きゃたつに上がって上のほうまで落した。それのみか一本一本の成育状態を符号をノートして管理した、これには専門の塩田さんも驚嘆した。

 こういう彼の気質、美点がバブル時代の会社では却って受け入れられなかったことは理解できる。そしてこの10万本管理のころから、この人の顔に笑顔が戻った。凛々しい人物に生まれ変わるのである。

 ところが、そこで思いもしなかったことが起こる。雨である。砂漠に雨はありがたいようであるが、とんでもない大雨、洪水となって激流が砂地を押し流し、大きな川ができていた。なんと3万本のポプラが流失してしまったのである。これは危機であった。

 さすがに、勢いたっていたみんなもがっかりした。しばし、提唱者の遠山征瑛先生もがっかりしたように見えた。しかし。瞬時、先生は絶叫した。

「つづければやれる。あきらめてはだめだ」

 このとき、遠山征瑛先生はすでに90歳を越えている。風貌はやや老人の様子も見せる。しかし、その低い声にも意気があった。力があった。そして、この危機を突破するのである。

 そのころ、やっと中国の人たちも、この無償の奉仕の尊い仕事に気づいたのであろう。中国の最高指導者江沢民氏も現地にきて、この偉大な仕事に感謝、遠山さんと握手したことである。

 こうなると、共鳴者、奉仕者も増えてくる。遠山さんはさらに計画を立てた。「もっとポプラを植えよう。300万本に挑戦しよう」。

 実にこの計画も10年で達成したのである。NHKの《プロジェクトX》の会場で司会者が言った。

「遠山さん、やりとげましたねえ」

「いや、まだまだ。これから200年はかかりますよ」

その遠大な言葉に会場から、ため息が聞こえた。

 今、96歳の老教授は言った。

「やればできる。やらねばできない。考えただけではだめだ。現場に出なければだめだ。やってみなければ分からない」と。

            *

 最後に書き添えます。

 日本は霊的砂漠です。ゴビ砂漠以上の砂漠かもしれません。しかし、この日本にどんなに抵抗があろうと、一本一本、私たちはみ言葉の苗を植えて行きましょう。水気のない所でも土を深く掘って、剪定して、無駄な蒸発をさせないようにして、時には大洪水を起ころうと、気落ちせず、続けて行きましょう。

 この日本に100万、300万の伝道の人柱を立てましょう。いや、私たちが、その人柱になりましょう。皆さん、私たちは、ひとしく、みんな苗となって日本の土壌に身を埋めましょう。(2002.10.17.祈祷会にて)

 

北鮮の拉致問題をめぐって   

 最近は世界的なニュースが多くて、目が回わる。私はしろうとだから大して気のきいた事は言えないが、たとえばバリ島のディスコのテロ事件。たぶんイスラムの過激派のしたことでしょうが、この人たちが的をしだいに北上させると、フィリピンから、台湾、日本と迫りはせぬか。これは、まんざら荒唐無稽とも言えないでしょう。

 北朝鮮の金正日さんが、自国内や国際的課題を乗り切ることに難渋して、遂に絶望、日本と無理心中を図ったらどうなるか。ミサイルを東京に打ち込むと日本の政府機構も天皇様の居られる皇居もいっぺんに破壊炎上する。その覚悟はできているかと、かつて10年も前に書いたことがありましたが。

 最近、やっと新聞でも北鮮が核をぶっ放せば日本列島は火だるまだと書いてあった。こういう点、なんでも新聞は遅い。世論を後追いする。

 北鮮の拉致事件が明らかになるにつれ。地震の後の小間物店のように無残な有様が世界中に見せものになってしまうかもしれません。

 小泉さん、あなたがちょっとでも北鮮の扉をこじあけたことは良かったですよ。

 心配なのは北鮮国内の治安です。軍のクーデターなど起こりはしないか。

          *

 北鮮の拉致問題で分かるのは彼らの根性の卑劣さである。人間をさらって袋にいれて船に乗せて帰る。こんなことは世界歴史で聞いたことがあるまい。同じ喧嘩や戦争をしても、やはり、いさぎよさがほしい。

 上杉謙信が甲斐の国に塩が不足していると聞けば、塩を送ってやる。こういうセンチメンタルな将軍は、いくらなんでも今はいないだろうが、それに類する豊かで、さわやかな心は持っていてほしいではありませんか。

 ローマ人の徳目の第一は勇気だったと聞いたことがある。日本人の徳目の第一は案外、この「いさぎよさ」だったのではないかと思う。楠木正行の辞世の一首「帰らじとかねて思えば、あずさ弓……」の歌、なんともすがすがしい。こういう人物は日本の歴史に他に何人もいるのではないか。

 前述の、ポプラ300万本のボランティア活動、中国の人々に恩を売るわけではない。自慢するのでもない。実にいさぎよい。こうして全世界の人々が仕え合うなら、「仕え合う」は読み直せば、「仕合わせ」、これは「幸せ」の古い書き方であるという。昔は「幸せ」を「仕合わせ」と書いていたのだ。

 ユダヤ人たちの徳目の第一はヤハウェの神にたいする全き信仰ではなかったかと思う。ただし、神に対しては真実だが、人に対しては卑劣な面もある。ヤコブがエサウの家督権を横取りするところなど、よい例。

 イエス様の宗教の徳目の第一は「愛」である。新約聖書においては、信仰は永遠の生命を得る門戸であるが、天の門の内に入ったならば、「愛によって神に仕え、人は互いに仕え合うのである」(マルコ12:29〜31参照)。(く) 

 

2002/10/13 

(「日岡だより」第41号)

なぜ「ワッハッハ」と笑うのか   

 ある人から「先生は『ワッハッハと笑え、笑え』と言いますが、嬉しくも可笑しくもないのに、笑うことなんかできませんよ」と、電話がかかってきた。

 私はそこで、いつもの理論を電話で話した。「人は悲しい時に泣くが、泣いていると、しだいに悲しくなる」、これは100年ほど前に、アメリカの哲学者ウイリアム・ジェームスが残した言葉です。

 これをもじって私は言うのです。「人は嬉しい時、可笑しくってたまらない時、愉快な時に、よく笑います。だから作り笑いでもいい、笑いなさい。次第に嬉しい気分、可笑しい気分、愉快な気分になります」と。

 私は更に言葉を添えるのです。「もっと笑いなさい。うんと笑いなさい。大げさに笑いなさい。そうすると、もっと嬉しくなるし、愉快な気分になる。訳もなく可笑しくってたまらん、そういう気分になりますよ」と。

 幸福とは何か。いろんな定義があります。哲学的な、また神学的な、様々の「幸福の定義」があるでしょう。しかし、難しい定義はともかく、「幸福とは何か」という質問に対する、ごく平凡で庶民的な私の答えは簡単です。こう答えます、「いつも楽しい気分で居ることです」と。

 さて、先ほどの電話の人は、「そんなことを言ったって、私には訳もなく笑うことなんか出来ません」と不満そうです。もっともです。テレビ電話なら、かなりやさしいのですがね。私の顔が見えますから。

 普通の電話では、私の顔が見えません。せっかく私が大きな口を開けて「ワッハッハ」と笑ってみせても、私の顔が見えませんから、私の笑い顔に引きずり込まれて、少しは笑えた!、そういうことは起こりません。

 とは言え、実際問題として私の顔を見せて、「さあ、笑いましょう」といくら勧めてみても、すぐに笑える人は本当に少ないのです。日本人は特にそうです。

 たいてい「そんなに勧められても、いきなりそんなに笑えるはずはないじゃないの」と心の中で抵抗しているからずです。又、そばに人が居ても居なくても、訳もなく急に笑うなどいうことは恥ずかしいと思うからでしょう。もしかしたら、「いきなり、笑えるものか」とか、「俺は絶対笑わないぞ」などがんばっているかも知れません。

 誰も居ない部屋の中でも、自分ひとりで照れるか。あるいは恥ずかしいと思う、そういう気持ちは、特に日本人には多いと思います。

 

 ある人が私に言いました。「先生は笑いのデモンストレーターですねえ」、私は大いにこの批評が気に入りました。デモンストレーション、労働運動などのデモはこの言葉の略語ですが、もともとは教室での実物教授、店頭での実演販売のことです。そうです。私は笑いの実演教授です。又、その上で、笑いのトレーナー、笑いの訓練士です。

 格別、可笑しいことがあるのでもなく、それほど愉快でもないのに、無理矢理、笑い顔を作って、表面を飾るのは偽善ではないか、と聞く人もあります。私はそういう方の鋭敏な良心には敬意を評します。

 しかし私は、そういう方の誤解や心配を解いてあげたいのです。たしかに笑いの中には、「見せかけの笑い」があります。極端に言えば詐欺師の狡猾な笑いや、旧式の商人のお追従笑い、正に、これは偽善でしょう。

 しかし、愉快な楽しい人になるために、笑いの練習、自己訓練をすることは正しいことであります。そして、すべて正しいことを実行するのは称賛に値することです(ピリピ4:8、9参照)。又、こうしたことに全力を尽くすのは、決して無駄なことではありません(第一コリント15:58参照)。「これは偽善な行為ではないのだ」と、自信をもって、「笑うこと」を練習して下さい。

 できれば「全力を尽くして」熱心に笑ってみて下さい。おなかをよじって、全身をゆり動かして笑ってみて下さい。(おなかを抱えて笑い、おなかをよじって笑うことには、生理学的に、心理学的に意味があります。この説明は又、別の機会にお話します)。

 だから、前述の電話をかけてきた人に私は言いました。「教会に来てください。笑いの実習をしましょう。私がマン・ツウ・マンで教えてあげますよ」と。

 私はいつも熱意をもって言うのです。「熱心に笑いましょう、真剣に笑いましょう。そうすれば即座に愉快になって、幸福感を味わえます」と。

 

 笑いが健康によい、いやそれ以上に病気の治癒力がある。このことは、もはや実証ずみです。倉敷の伊丹医師がガン患者を大阪ミナミの劇場に連れて行き喜劇やマンザイで笑ってもらい、そのあとで血液を取ってみた。そうしたら免疫体が抜群に増えていた。そういう実験もあるのです。

 笑いによって、実際に(悪質の膠原病でしたが)、それを医師の予見の3分の1の日数で癒される経験をしたのは、アメリカの医事評論家で医科大の教授であったノーマン・カズンズです。

 彼が自分の体験によって「笑いの治癒力」を書いたのは、もう20年にもなりましょうか(岩波の現代ライブラリーで書店にあります)。その後、他にも良い本が出ています。

 すばらしい指導例は、我が教会の相良姉です。彼女はすぐれた保健師さんですが、現在、社会保険事務所の専任保健師として老人相手の講演会に出向いています。その講演の中で、私の「笑いの実践神学」を分かりやすく一般むきに紹介しています。それも、平面的な説明に終わらず、具体的にデモンストレーションとしてやって見せ、一緒に笑ってトレーニングしているのです。今では一般向きの講演としては、相良姉妹のほうが私より上手にやっていることでしょう。

 こんなことがあったそうです。ある会場で、一人の老人が近づいてきて言った。「以前、一度あなたの笑いの講演を聞いていた。非常に感銘して家に帰ってから、ずっと実行してきた。そうしたら健康にもなったし、私も昔にくらべて、毎日機嫌がいい。家の者に喜ばれています」。

 こういう例が、すでに何回もあったそうです。現実に、効果があったという、こういう経験を私はいまだ、教会関係では得ていません。残念です。

 いやいや、相良姉が義姉の入口姉に伝授(?)した実例が一つあります。これは先日の入口姉の召天式の際に次のように紹介したことでした。

 ご主人が亡くなって、事ごとに淋しがったり、愚痴っぽくなった入口姉を、相良姉が教会に誘った。入口姉姉は教会の礼拝に出席し、信者の皆さんと交わっているうちに、次第に信仰に目覚めてきた。そして見る見る明るい人になっていったのです。

 更に、相良姉が笑いのことを教えました。そして毎夜、電話をかけては、笑い声の交換をするようになりました。私はそれを「交歓」と書いたものです。すると、しだいに入口姉の顔はますます笑いで輝くようになりました。やさしい顔が戻りました。

 一度、お風呂のタイルの上で転んだことがありました。なんと「オホホホ」と笑っていたのです。そして骨折していた個所が、意外に早く直ったのでした。

 教会にも、こういう例がもっともっと沢山出てほしいではありませんか。

 

 そうです。笑いによって、信仰生活がもっともっと明るさに溢れ、多くのクリスチャンの顔に快活な笑いが満面に現われることを私は願っています。

 事実、こう申しては悪いけれど、せっかくイエス様の血潮によって永遠の生命を獲得しながら、暗い顔をしたクリスチャンが案外多いのです。「弱さの中でも主を信じて幸いです」という通り口調が、信仰雑誌や信仰の本にあまりに多過ぎるように思います。

 クリスチャンが神様の前に弱い存在として謙遜に御前にひれ伏すのは当然です。この方々の信仰はすばらしいのですが、それ以上にこの世に在って、サタンの前で雄々しく力ある信仰の持ち主でありたいのです。

 私たちが右にも左にも曲がらず、強く雄々しく、神様の御心を実行するクリスチャンになる為に、神様が私たちに与えて下さる秘訣は沢山ある(ヨシュア1:7〜9)と思いますが、その一つが笑うこと(それは次々と、喜ぶこと、感謝、賛美することを生む)だと思うのです。

(もっとくわしく「笑い」について知りたい方は、小冊子「笑えば必ず幸福になる」をお読み下さい。定価100円、送料90円、切手代用可)。

 

 

2002/10/6 

(「日岡だより」第40号)

佳奈ちゃん、さようなら   

 今日はいつもの主日礼拝ですが、この礼拝の中で、告別式を執行したいと思います。ちょっと類のない式ですので、私も異常な興奮を覚えます。別れを告げる相手はもうすぐ誕生日が来て22歳になるはずだった岩尾佳奈さんです。この10月2日に世を去りました。ご両親やご兄姉がたの悲しみは、私たちの思いをはるかに越えることでしょう。

 私は彼女の声をたった一度しか聞いていません。私が最初、大分医大の病室で祈ってさしあげた時、私がベッドのそばを離れる際「ありがとうございました」という声を聞いたのです。病人とは思えないしっかりした声でしたし、清い感動を呼ぶ霊的な響きがありました。私はハッとして、振り返りかけました。

 医師はもう「明日か、明後日までの命でしょう」と診断していた人です。こんな声を聞こうとは思いませんでしたが、聞くところによると、それまでも来る人、来る人に、看護婦さんであれ、ヘルパーの人であれ、友人たちであれ、だれにでも「いろいろお世話になりました、ありがとうござました」などと心のこもった挨拶を繰り返していたそうです。「こんなやさしい子はいませんよ」と、彼女の祖母にあたる方からも聞きました。

           *

 私は彼女に7日間しか、会っていないのです。最初は先月の25日でした。上記の、初めて彼女の声を聞いた日です。それ以後、医師が睡眠剤を与えたので、彼女は眠りつづけていて、声をきくことはありませんでした。それでも私は毎日、彼女をベッドに訪ねました。何故か、彼女の霊性が私を招き寄せたのだと思います。話したこともなく、目も、まして微笑みも交わした事はありません。瀕死の状態にある人でした。

 しかし、そこに生きた魂がありました。私は毎日、時には一日に2度、彼女を訪ねました。そして語りかけました。イエス様が佳奈ちゃんを愛していること。神様の命が佳奈ちゃんを満たすこと、聖霊によって新しい生命を得て再び元気になること、そんなことを行くたびに語りかけました。そうすると、佳奈ちゃんは私の恋人のように私の心に生きるのでした。

 私は昼も夜も、佳奈ちゃんを思って神様に祈りました。あの7日間、奇妙に忙しい毎日でした。牧師さんがたの会議もあったし、心の病の方の相談日もありました。そういう中で、私は一向に疲れませんでした。

 佳奈ちゃんに手を伸ばして神様の救いを祈るとき、また佳奈ちゃんに向かって語りかけるとき、私の心は燃えたし、充実して疲れを忘れるのでした。私は、あの7日の間、神様から精一杯の力を頂いて過ごしていました。

           *

 三井兄の合気道の弟子であるクリスさんの奥さんの由記江さんから、すべては始まったのです。先月18日、三井兄が由記江さんを案内して来られた。彼女のお父さんが医大の付属病院に入院しているそうだった。脳の摘出手術を3日か4日前にしたばかりだと言う。脳内出血であろうか。とにかく難病に違いない。私はお父さんの杉本正明さんのために祈った。

 私はまた、由記江さんに信仰のお勧めをした。人類の罪のために身代わりとなって十字架の上で死なれたイエス・キリスト様をあなたの心に受け入れましょうとお勧めすると、彼女は驚くほど素直にイエス様を信じたので、本当に驚きました。

 その翌日、私は医大に行って、お父さんの杉本正明さんに会いました。意外にお父さんは明るくてニコニコしています。私はあっけに取られたほどです。頭部の左に4日ほど前の手術の大きい傷がありました。頭蓋骨を開いた10センチほどの直角の傷です。

 私は杉本さんに手を置いて祈りました。たとえ、ニコニコしていても、重患は重患です。お父さんは、ベッドに坐ってはいたが、歩ける様子はない。

 その翌日、クリスが来た。奥さんの由記江さんに勧められたのでしょうか。この人の名前がいい。クリスというのは愛称だろうと思ったので、名前を書いてもらった、すると、なんとクリストファーとある。

 これは「キリストを負う者」という、巨人伝説にまつわる由緒ある名前です。私は言った。「こんな良い名は他にありません。あなたは必ず、キリストを背負う者になりますよ」と。

 さて、この兄弟には私の好きな宇宙論的解説を交えて、精細に語ってあげた。そして彼はやはり単純に信じて家に帰った。こうして、クリス夫妻と、そのご両親の夫妻が救われるのです。

 9月29日には、杉本夫妻とクリス夫妻とその幼いお嬢さん2人が教会の礼拝に来られました。そして祖父母夫妻、若い夫妻が共に洗礼を受けました。

 この、お母さんの杉本政枝さんが、大分医大病院の同じ階の病棟にいた21歳の娘さんを私に紹介してくれました。それが岩尾佳奈ちゃんでした。この若い娘さんを、政枝さんは黙って見て居れなかったのです。

 政枝さんはイエス様の不思議な癒しをご自分の家の中で見ていました。ご主人の脳切開した病気は見ごとな回復ぶりで、一家あげて喜んでいました。

           *

杉本さんはどんどん癒されはじめ、そして遂に退院しました。その退院の日に、佳奈ちゃんは亡くなったのです。

 佳奈ちゃんは、不思議に最初の日から、祈ると血圧や、血流や、酸素吸入量の数値が下がった、また安定してきたと言っては、喜びました。このまま必ず回復の日がくるだろうと思って、愁眉を開く、そういう気持ちが大きくなっていました。

 私は、必ず佳奈ちゃんは回復して元気になって退院する日がくると信じていましたから、佳奈ちゃんの死を聞いて、がっかり、気が抜けました。涙も出ません。神様に文句を言いました。

「なんで、神様、私たちの佳奈ちゃんを奪い取ったのですか」。

 しかし神様には勝てません。「主よ、彼女を天に迎え給え」と言うばかりです。非クリスチャンは簡単に天国、天国というけれども、そう簡単に天国に行けるものではありません。私は、毎日「あなたはイエス様に愛されいる。神様の健康の霊はあなたに宿る」などと言いつづけては来ましたが、佳奈ちゃんに天国に行ける道を教えてはいなかったのです。

 私は佳奈ちゃんの亡くなった日、面接の予約があって動きが取れなかった。やっと時間が出来て佳奈ちゃんに会えたのはもう葬儀場のお通夜の部屋だった。私は佳奈ちゃんを見た。ほっぺたをなでながら祈った、本当は掻き抱いて祈ってやりたかった。

 「神様、この子を天国に迎えてください。イエス様の愛と力とは十分に体験しているはずです。まだ信仰告白していませんが、どうか天国にいれてやってください、今後、瞑路を十分に導いてやってください。私も地上から導きの声を送ります。仏教ではいわゆる49日の忌中と言いますが、私はあなたから「20日間」というお言葉をいただいていますから、20日間の引導の祈りの日々を守り、20日目の19日に召天式を営みます。その日、天の門を開いて彼女を天に迎えいれてやってください」。このように祈ったのでした。


【終わりに】

 今回は書きたいことが山ほどあって、却って書くことができません。
 9月18日に大沢ブラウン由記江さんが教会に来ました。その翌日、お父さんの杉本正明さんとお母さんの政枝さんに医大の病院でお会いしました。その翌日、由記江さんのご主人のクリストファー・オオサワ・ブラウンさんが教会に来ました。
 佳奈ちゃんのお母さん広子さんと、お姉さんの佳代子さんが、私が初めて病室で祈った日の午後、さっそく教会に来て、涙しつつ私の話を聞いてくれました。またお父さんの準一郎さんや、祖父母の長東さん夫妻(同じ医大病院に入院中)にも毎日のようにお会いして祈りました。お名前を聞き落しましたが、佳奈ちゃんのお兄さんにも廊下で会ったのですが、その宗教的感覚の鋭さに驚いたものです。
 今回、15日間にお会いした佳奈ちゃんを巡るすべての人々の純真さ、明るさ、書くのははばかりますが私への過分の信頼、驚くばかりです。さらに毎回私を同行して共に強力に祈ってくれた三井兄、みなさんへの感謝はいくら述べても言い尽くせません。みなさん、ありがとうございました。佳奈ちゃん、さようなら!  

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