キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2002年12月

2002/12/29

(「日岡だより」第52号)

今年のクリスマス   

 先々週22日(土)は、午後2時から例年恒例のクリスマスこども大会であった。前日、教会学校教師の2名が近くの小学校の放課後の門前に行って、案内チラシの手渡しをした。「非常に子どもたちの感触が良かった。明日は期待できる」と、喜んでいた。

 毎年のことで、昨年、一昨年と出席経験のある子供たちもいて、彼らが「いいぞ、いいぞ、教会のクリスマスは面白いんだ。さあ行こう、行こう」と友達に声をかけたかも知れない。

 当日は時間前から次々と集まってくる。付き添ってくる大人の人もいれて50名以上になった。特に面白い格別のプログラムがあるわけではない。昔の日曜学校中心でやるクリスマス祝会を覚えている私たちは本当は戸惑いするほど、プログラムが淋しい。

 まず、簡単なダンス入りの子ども賛美、牧師である私の短い子どもむけメッセージ、そして「イエス様のお誕生」のスライド、次に子供たちお待ちかねのゲーム、最後に全員ワイワイと賛美、お別れにちっちゃな袋入りのプレゼントをあげる、「さようなら、また来年ね、バイバイ」。

 この10月、吉津家一家が転任で福岡に行かれ、教会を転会された。この吉津家の子供たちのお陰で、この秋までどうにか教会学校が命脈を保っていたのである。この子供たちが去って、教会学校は全滅した。

 10数年前は、放っておいても、30人か40人の子どもたちは集まっていた。明野地区には小型バスであったけれど、とにかくバスで迎えに行ったものです。

 子どもたちの教会学校の衰退は全国的なことであって、この教会だけのことではないけれども、しかしゼロとはひどい。

           *

 原因はいろいろ考えられるが、ともかく私たちの子どもたちに対する理解、熱意、方法論の開拓、祈りが足らない、責任感の無さが原因であることは目に見えている。また若い信徒たちが少ない。牧師が老人だと信者の老人が増えるという説もある。高齢者社会の時代だから、老人信者が増えるのは当然だし、良いことである。しかし、子どもが減ってくるのは何故だろう。その詮索は後回しにして、対策を考えたい。

 たとえば、公園伝道。これは一時よくやったが、その後どうなっているだろう。大胆なゲーム指向で子どもをわくわくさせる内越先生のメビックはどうか。ともあれ、まず子どもたちを集めることが第一。

 ところで、むやみに嘆くことはない。現に、ここにクリスマスの時だけだったが、50人も集まったではないか。そう言えば、かつては野口姉が農村の緒方町で、また武蔵町でクリスマスだったか、とにかく2、30人の近所の子供たちを部落公民館に集めて、こども大会を開いてくれたことがある。この事に気がつくと、「ああ、やっぱり、この教会はこども大会を開くコツは握っている。この宝を活かさねばならない」。こういう反省が、先日のクリスマスこども大会を終わったあと、スタッフ一同で話し合ったことである。

 よいことに、子どもたちの住所と名前が分かっておる。この方法は企業秘密(?!)、いや、ご熱心なかたには、お教えします、呵々。

           *

 クリスマス主日礼拝のことも、クリスマス・イヴ礼拝のことももっと書きたかったのですが、少々こども大会のことに紙面を取り過ぎました。クリスマス・イヴ礼拝のことに話を移しましょう。

 例年と違ってクリスマス・イヴに対する私の気持ちが変化していました。それはこうです。

 私はこれまで、クリスマス主日礼拝を第一に考え、クリスマス・イヴ礼拝はその添えものぐらいに考えていました、一つは私の育った教会ではよくクリスマス・イヴの夜にはクリスマス祝会と称して賛美や寸劇や余興までいれて、ともかくイエス様のお誕生会を楽しむという感じでした。私もそうしたものだろうと疑いもなく、そういうイヴの礼拝を踏襲していたのです。

 ところで、イヴの前日でした、私は以下のことに気がついたのです。2千年前、当時のユダヤの暦では、1日は夕刻の日没から始まる。そして天使がベツレヘムの郊外の野辺で羊飼いたちに現われたのは夜であったと聖書にちゃんと書いてある。

 だから、クリスマス・イヴ礼拝は単なる前夜祭ではない。イエス様のご誕生を祝うのは、その夜の時刻こそが、ズバリふさわしいのです。

 そのことを永井先生に相談したら、「そのとおりです」。なんの疑いもなく、永井先生は以前からそう思っておられたらしい。私はびっくりして、頭をかきかき、翌日、クリスマス・イヴ礼拝に出る私の心構えが変わっていました。

 この夜は、私は燭火礼拝(キャンド・ルサービス)の司式を引受け、メイン・メッセージは永井先生にお願いしました。永井先生も以上のことを説明された上で、すばらしいお話をなされました。また先生のお勧めにより何人かの方が信仰の決心を手をあげて表明して下さいました。

 特に最後に先生は声を励まして、「世に勝つ勝利は我らの信仰です。世に勝つ者はだれか、イエスを神の子と信じる者ではないか」と第一ヨハネ5:4、5の聖句叫ばれた。私はその勢いに体が震えました。

 来年からは、特にこのクリスマス・イヴ礼拝を大事にしたいと思ったことです。(く) 


一年を回顧する   

 2002年を送る。1年は52週あるから、この「日岡だより」も52号になった。この1年を回顧せざるを得ない。もっとも、本年より教会の行事や会計や人事については政府の行政年度に合わせることにしたので、本年度の指標聖句や目標については、年度は3月末で変わることになる。

 本年度の目標と言えば、毎週、礼拝の中で会衆一同声をあげて告白したことであるが、その中に「主日礼拝出席者は70名を突破する」という項がある。この年末が近づくと「これは拙いな」と私は思い始めた。

 永井先生がこの年の1月に見えられてから、まず第一番の緊急目標を「日曜日は教会へ」としようと、先生は示唆された。そして、そのとおりに、この言葉を合言葉として本年の前半を終えたのである。

 主様のお支えによって、この合言葉どおりに徐々に主日の礼拝出席は増えて行った。概観すると、昨年の4月ころから、グラフ曲線にするなら、右上がり傾向が急に出てくる。「日曜日は教会へ」の合言葉の効果が表れ始めたと言えよう。この右上がり傾向が夏から秋にかけて鈍化するが、晩秋からクリスマスに向けて又、勢いを少し取り戻している。しかし、4月、5月の当時の勢いは薄れたのは残念である。

 とは言え、前年対比で言えば、減の日は1日もないのである。これは嬉しい。

 冒頭の箇所に戻るが、「主日礼拝出席者は70名を突破する」という項について、年末が近づいて「これは拙いな」と私は思った。というのも、前記のとおり、出席者数が前年対比で増えているのは嬉しいことだが、「目標70名にはまだ20名足らない。これでは『70名、70名』と告白しつづけているうちに逆に欲求不満というか挫折感というか、こうした目標をかかげたことについて疑問をいだいてしまう。

 だから、早いうちに目標を訂正するとか、なんらかの方法を考えようか、と思わないではなかった。

 でも、本当は年度末は来年の3月なのである。この3月末を目指して励みたいと思う。

 永井先生は来年1月には大分を去られる。私も個人的に先生から受けた恩恵は大きい。目標設定の大事さ、信徒への細心の牧会的配慮、弟子養成のコツの片鱗のようなものを学べたと思う、さあ、これを来年以降私が活かせるかどうか、これは私の課題である。少々主にですね。しかし、私もいわゆる老骨(いやな言葉です)に鞭打ってはげみたい。みなさん、ご援祷乞う。(く)

 


聖暦という言葉について

 「聖暦」というのは私の造語です。普通は「西暦」という。これは西洋の暦年法ということでしょう。もちろん、誰でも知っています。キリスト聖誕から年を数える西洋の暦年法です。ですから、普通の日本人が西暦何年と書いても、私は異を唱えない。しかし、クリスチャンが西暦何年と書くのは残念なのです。▼ちなみに紀元前は普通英語でBCと呼ぶ。ビフォア・クライストの意味で「キリスト以前」ということです。たぶんこれは中学校で教えてくれるのではないでしょうか。だからキリスト以後の西暦を言うときにはADと年号の前につける。これはアンノ・ドミニというラテン語の略で「主の以後」ということです。▼まあ、こんなことにこだわる必要もないけれど、この教会の週報には聖暦2002年などと書いてある、その理由をちょっと書きました。(く)

 

2002/12/22

(「日岡だより」第51号)

祝クリスマス! 
併せて新年のお祝いを申し上げます 

 皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。神様のご祝福を祈ります。今年は拉致問題で世論は湧きました。北鮮政府の非常識さには驚きます。核兵器や生物兵器の恐怖について日本人はもっと認識すべきですね。
 さて、私は日本の天皇様がクリスチャンになることを切望し、かつ祈っています。また、天皇様こそカーター元大統領以上に平和特使として世界を駈けめぐるにふさわしい方であると信じています。このことを多くの日本のクリスチャンに祈ってほしいです。
 天皇陛下は「日本の象徴である」、とんでもない、それ以上の方です。憲法がどうあろうと、コッソリと超法的に動かれて結構、時には故意(!)に失言なさればよい。日本一の実力者として国際的にも国内的にも影響力を発揮出来ます。
 そうそう、今年でした、皇室の先祖に韓国人の血が混じっていることを語られて、韓国の皆さんに好感を与えられたことは記憶に新しいですね。
 ハレルヤ! 神様の豊かなご祝福を皆さんのうえに祈ります。神様の絶大の愛、イエス様の福音、聖霊様の豊かな波及、この国と世界に満ちますように!

   主の2002年12月佳日
            キリストの福音大分教会


破天荒な恵み   

 ルカの福音書の第1章26〜38節の記事はいわゆるマリヤの処女懐胎の記事です。創価学会の戸田城聖氏に言わせると、こんな馬鹿げたことを信じるのは非科学的な迷信宗教だと切り捨てている。

 万有引力のニュートンも、相対性理論のアインシュタインもクリスチャンだったのだから、こうした戸田城聖さんごとき人のキリスト教迷信論にへどもどすることはない。
 またニュートンやアインシュタインがクリスチャンだったからと言って、これを擁護論の道具にすることもない。処女懐胎どころか、神がこの天地万物を造られたという創造論、これにまさるキリスト教優位論の根拠はない。

 もっともイスラム教も天地創造の唯一の神様を信じることにおいては熱烈です。キリスト教がイスラム教にまさる点は何か。それは、キリスト教は神のひとり子イエス・キリストを持っていることである。

 イエス・キリストとは何か。神が人類を救済するために人類の世界に向かって自ら介入されたということである。世界にあるキリスト教以外のあらゆる宗教は、自分の修行や悟りや念仏や伝道、また殉教等の熱心さにより救われるとする。

 イスラム教は唯一の創造者なる神を信じている。しかし、愛なる神の赦しの恵みを知らないから、原理主義に陥り、他者に対して仮借がない。もっとも、クリスチャンもしばしば、他宗教に対して非寛容な姿勢をとる。これはよくない。自分の信じる信仰について徹底的に傾倒、純粋、熱心であると同時に、他宗教にたいしては寛容で、かつ親しく交わって理解しようとする態度を取る。それどころか他宗教の信仰者に対して尊敬の念をさえ持つ事、これは大事です。

 このことはアテネにおけるパウロの、当時の偶像と信者に対する態度に学ぶ事が出来ます(使徒行伝第16章16〜28節参照)。

 創造主なる神の至高の愛と絶大な力により、神の御手が人類の世界に介入される時、キリストの誕生と死と、その復活が起こる。これがキリストの福音です。それは更に、キリストの昇天と聖霊様の降臨、ご自身の再臨によって完成されるのです。

 これによって、信徒のイエス様による罪の赦しを信じる確信が堅くなり、聖霊によって品性が聖化され、日常生活が勝利する。そして天における肉体の完全なる栄光化が期待出来る、こうして人類の再創造が完成するのです。

           *

 通常、イエス・キリストの生涯はそのご誕生から始まるとされています。私もそう思っていましたが、先週の礼拝説教を準備していました時、「それは違う」という思いが私の内に起こりました。啓示に近い衝動が私の内に起こりました。その声は、「イエス・キリストのご生涯は、マリヤの御受胎から始まる。これが神様の人類にたいする徹底的救済の御手の始まりである」と言うのでした。

 私が最初、ルカの福音書に第1章26〜38節を拝読した時、私の心臓を早鐘のように打たせたのは、28節の「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」というみ言葉です。

 この天使の言葉はカトリック教会では「天使祝詞」としてよく唱えられる式文の原形だろうかと思います。カトリック系の幼稚園だったら、園児でもこの「天使祝詞」を暗証できます。

 これは聖母マリヤへの尊敬からくるカトリック特有の制定語かもしれませんが、この28節の聖句が私の目を刺したのです。「主があなたと共におられる」!

 「共に」!、この「共に」という言葉の原語は元々は「真ん中に」という意味です。一般の解釈では「神様がマリヤと共におられる。だからイエス様の御受胎が、今ここでマリヤの体に始まっているのである」と読むだろうと思います。それで良いのですが、それにもかかわらず、私にはもう一つの解釈が湧く。

 「共に、いいえマリヤの真ん中におられる」主はイエス・キリスト様ではないか、ということです。

 主(キュリオ)という言葉は新約聖書では、旧約聖書からの引用の場合は除いて、多く、イエス・キリストをさします。だから、ここですでに天使はマリヤにむかって、「あなたの体の中に救世主キリストが宿っていますよ」と言ったのだ。私はそう思ったのです。

 その証拠に、このすぐ後でマリヤが叔母のエリサベツを訪ねた際、エリサベツの胎の中で胎児(後のバプテスマのヨハネ)がおどったのです、驚いたエリサベツは声高く叫びました。「主の母上が私のところに来てくださるとは…」! と。

 年長者の叔母が年下の姪にむかって言う言葉としては異常です。しかし、マリヤの体の真ん中に既に主なるキリストが生きておられるならば、これは正しい言葉です。(むかし、皇后様の美智子さんが皇太子妃になられた時、正田家の実のお母さんが娘の美智子さんを「妃殿下が……」と呼んだようなものです)。

           *

 カトリックではマリヤを無原罪の神の母と呼ぶそうですが、その気持ちは私にもよく分かります。しかし、私はやはりマリヤが出来のよい清純な処女であったとしても、やはり罪や汚れをもった普通の女性であったと思います。

 そのような女性を母胎として神の御独り子が宿るとはどういうことでしょうか。天使の御告げのあった時、すでにキリストは母マリヤのおなかの中に生きて居られたということは凄いことです。

 私たちはキリスト様がこの世に下ってきたのは、クリスマスの夜だと、つい思っています。しかし、本当はキリスト様は天使祝詞の時、すでに世に下ってきて居られたのです。

 生理学的に言えば、まだ小さな単細胞(!)に過ぎない胚としてマリヤの子宮にくっついていたというだけです。しかし、この方こそキリスト様である。こう言うことは冒涜でしょうか。

 こうして神の御子は雄々しい単独者として、この地上に来られたのです。これは私には神様の人類に対する破天荒な恵みだと思えます。この恵みの過大さにマリヤは本能的に震えおののいたであろうと思います。

 でもマリヤは答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りましょうに」。

 言わばマリヤは神の種を宿し、神の母となるのです。山でも滝でも、木でも蛇でも、人でもキツネでも、これを神様としてしまう日本人ならいざ知らず、絶対の尊厳なる唯一の神様を信じるマリヤにとって、それは嬉しいとか感謝だという次元を越えて、身震いするほど恐れ多いことであったに違いないのです。

 彼女はこの信じがたい神からの投入の現実を受入れて、信じます。信じるとは「神の言葉どおりのことがこの身になりますように」と告白することです。

 ここにマリヤの自我の死があります。自分の次元を捨て、自分の理屈を捨て、自我に死ぬのです。信仰の模範です。あなたもあなたの自我を捨てましょう。(く)

 

2002/12/15

(「日岡だより」第50号)

神を神とせよ(二)

 前回の最後で、矢内原忠雄先生が「私もけっして皆さんに恥はかかせません」と言われたのは、「いざ、私に警察の取調べや検挙の手が及んだとしても、取り乱して逃げ回るような恥ずかしいことはしませんよ」という意味ですね。私は、この個所を読んだ時、血が湧き、肉が踊る想いがしました。

 前号で私の伯父・釘宮徳太郎のことをまとめて下さった渡辺信雄先生という方のことを書きましたが、この渡辺先生がなんと、前述の浅見仙作さんの孫にあたられる方です。渡辺先生は大分工業専門学校が大分市に創立された時、たしか初代校長の松尾春雄先生に乞われて大分に赴任されて来たのでした。

 松尾先生は九州大学の教授だったと思いますが、この方もしっかりした無教会の信仰の人でした。大分工業専門学校のすぐ下に城東中学という中学校がありましたが、そのころ私はその中学校のPTA会長をしていました。そこの卒業式の時には、毎年、祝辞に松尾先生が来られ、私もPTA会長ですから祝辞を述べます。その松尾先生の祝辞ですが、きまって内村鑑三先生の「後世への最大遺物」から一部を引用して語られたものです。そこで、式が終わって校長室に帰ると、先生と私の間にひとしきり信仰の話題、また伯父・釘宮徳太郎の話題がのぼりました。(「後世への最大遺物」は特に青年男女に是非読ませたい本です。私がかつて韓国で若い人たちに「後世への最大遺物」を引用して説教したことがあります。説教が終わったら、韓国の青年のみならず、大人の人たちも大いに感激して握手を求めて来ました)。

 渡辺信雄先生のことですが、その後、定年になられて大分工業専門学校を辞し、今は島根県江原にある無教会の方々で経営する高等学校・愛真学園の校長をしておられる由です。(無教会の方々は、地方に小さい信仰的な高等学校を作って居られる。山形の独立学園、新潟県の敬和学園など。私は尊敬を覚えます)。

 前号の冒頭にあげた加藤虎之丞先生の「神を神とせよ」という遺稿集は、加藤先生の講義のテープから、この渡辺先生が鋭意聞き取り、原稿にしたものです。並々ならぬ努力です。渡辺先生のみ言葉を重んじる真情と加藤先生への敬慕の念がそれを成さしめたのでありましょう。感嘆せざるを得ません。

 この渡辺先生が、浅見仙作さんの孫にあたられるとは……。神様のネットワークは不思議です。かつての無教会の陣営で平信徒クラスというと可笑しいですが、そうした中で、浅見仙作さんは北海道で、釘宮徳太郎は九州で、そして藤沢武義さんという方が鳥取で、横井憲太郎さんが名古屋で傑出して有名でした。

 (無教会のことについては、また別の機会に書きます)。

          *

 不思議なことはまだまだあります。実は、渡辺先生にお会いして間もなくのことでした、先生の奥様にお目にかかって、この奥様が藤本正高先生のお嬢さんだと知って、びっくりしたものです。

 藤本正高先生も無教会の方です。たぶん、1941年(昭和16年)の頃だったかと思いますが、当時、藤本先生は「聖約」という主筆雑誌を出しておられました。その誌上で先生が九州に回ってこられるというので、大分にも来てくださいと、若僧の私がお招きしたことがあります。はなはだ小さい集会しかできないで恐縮でしたが、そこはそれ、加藤先生が助けてくださって、なんとか集会が出来ました。私は、その時の藤本先生のお話を今でも覚えています。

 詩篇73篇から、「悪人は栄え、その目は飛び出、心の願いにまさって物を得る……」などと引用して、「これはまさしく現代のヒットラーですね」と、おっしゃる。すでに日独伊三国同盟が叫ばれていた時代、当時としては危険な言葉です。聞いていた私の血の気が引いたのを覚えています。まさに無教会の先生らしい骨太な講義でありました。この年の12月8日に真珠湾攻撃があり、大東亜戦争が始まるのです。

 藤本先生については、また不可思議な因縁(?)があります。私の母を信仰に導いた母の長兄(つまり私の伯父)上田光曦が、四国愛媛県の大洲の中学校の校長をしていた時、藤本先生がその中学校の生徒だったというのです。ある時、その伯父が私の書斎に来ました。「あっ、藤本君の本があるね。彼が伝道していることは聞いてはいたが」と感動している。「どうしたのですか」と聞くと、「あの頃、大洲中学校で生徒のストライキが起ってね、その首謀者が藤本君さ。職員会議で彼は退校処分になった。私は藤本君を校長室に呼んだ。『こういうことになって、残念だ。これで自棄になるなよ。そうだ、聖書を読みたまえ』。こう言って新約聖書を彼の手に渡したんだよ。そして別れたのだが、あの聖書が直接の藤本君のキリストを信じるきっけになったのかどうかは知らないけれど、この本を見て感慨無量だねえ」と伯父は語るのであった。

          *

 さて、加藤先生の「神を神とせよ」ですが、これは旧約聖書のエゼキエル書の講義の筆記です。エゼキエル書は異象の記事が出るし、イスラエルを審く預言の言葉は厳しいし、読むにはなかなか難解で、難儀です。正直に言えばうんざりするところがあります。しかし、こうして加藤先生の「神を神とせよ」の助けを借りて読むと、なるほどと、理解出来るのみか、感動します。

 ここで言う「神」とはもちろん、日本神話などに出る神々の神ではありません。ヤハウエの神、文語訳の旧約聖書でエホバです。1955年改訳の口語訳以来、これを「主」と訳したことについては、私は日本聖書協会に抗議を申し入れたいくらいです。これはエホバの証人の名を嫌って、エホバという名をさえ使うことを躊躇したのでしょうか。もしそうだとしたら、その小心さに驚きます。

 旧約聖書の神様のお名前は、本当は読み方が分からないのですが、たぶんヤハウエとかヤーヴェとか呼んでいただろうと、学者さんがたは言うのです。それはモーセが神様から直接聞いた神様のお名前でした。これを神様ご自身が解説して、「我は有りて有るものなり」という意味だと教えられたとあります。

 これは神は万物の存在の究極的原因者であり、保持者であるということです。(万物が維持できるのは、時間が神の御前から出て来るからであり、そして時間は息づきの時となって生命を生むのであろうかと、私は考えています。使徒行伝3:20参照)。

 人類が本当の神を忘れ、本当の神を捨てて、神ならぬ神、偶像や、その他、金や物や地位や名誉、そうした物によって、人生を安心できると考え、人を押しのけて自分だけの幸福を求め、人の物や金を奪い取って自分の生活や城を築こうとする。そこに憎しみと離反が起り、戦争が起るのです。

 真の神を神とする時、道徳が成り立ち、正直者が損をせず、愛が世界を支え、平和が人類を蓋うのです。

そして、人間互いの約束は堅く守られ、勤勉は成果を生み、正義が太陽のように国家を治め、真理が国と国との平和の堅いきずなとなるのです。

 私は終戦の年の6月頃だったでしょうか、加藤先生から「北海道の浅見さんの高等裁判所から無罪の判決が出た、すばらしい名判決です」と聞いた。戦時下であるのに、こうした判決が出たことについて先生は非常に喜んでいた。先生は法律は聖書が下敷きになっていなければ。無に等しくなると言われた。良い判事や弁護士は必ず机上の聖書を持っていますよ、とも言って居られた。これが加藤先生の信念であった。

 先生は戦争中、よく旧約聖書の預言者を研究しておられた。預言者はしばしば悪しき時代に棲み、悪しき時代を責め、予言し、訓戒した。そしてしばしば世から迫害され、罵られ、命さえ奪われた。先生もあの時代の日本を矢内原先生ではないが、「日本よ、滅びよ」と言いたくなる時があったであろう。しかも尚、日本を愛し、日本の救いを信じ、日本を慰めるべきことを思ったであろう。

 私は伯父・徳太郎の「復活」誌上で、加藤先生が別府の石垣の草叢の中でパウロやルターの「十字架の救いの絶対性」を想起して、信仰の深さ、確実性を改めて確信したという証しを読んだ覚えがある。その確信を個人に対してだけでなく、国家に対しても抱いて居られたことを想起する。今回の「神を神とせよ」を読ませて頂いても、個人の救いにとどまらず、国家、民族の救いに思いを馳せていることに感動するのです。

 日本よ、救われよ。東洋よ、救われよ。世界よ、救われよ。宇宙よ、救われよ!

 

2002/12/8

(「日岡だより」第49号)

神を神とせよ(一)   

 去る12月3日か4日だったかと思う、別府聖書研究会の中村陽一さんという方から冊子小包が届いた。はて、なんだろうといぶかりながら、小包を開くと、中からずしりとした本が出てきた。本の題は「神を神とせよ」、著者は加藤虎之丞とある。「あっ、加藤先生の遺稿集だな」と、私は瞬間、当然そう思う。私のたいへん世話になった先生だからである。

 1943年、私は兵役法違反と、出版言論集会結社等臨時取締令違反で検挙される。これを聞くと、すぐ「何をしたのですか」と問われるから私は辛い。けっして雄々しいことではない。戦争絶対反対というキリスト教的思想と主義のゆえに、睡眠薬を飲んで自殺を図ったのだが、ああ恥ずかしい、睡眠薬が多過ぎたのか、少なかったのか、ともかく自殺は失敗して生き残った。これが兵役法違反である。時おり、教会の青年会などで内村鑑三先生式の「非戦論」をぶったり、少数の若い男女の諸君が来て語ったこともある。それが出版言論集会結社等臨時取締令違反である。

 その公判で、弁護士であった上記の加藤虎之丞先生が、私のために弁護して下さったのである。私自身は当時の軍国主義の政治下、こうした事件に弁護など成り立つものかと思っていた。だから、今さら弁護などしてもらう気はなかった。しかし、加藤先生は自分から買って出て私のために弁護してくれた。これは当時としてはなかなか出来ないことです。

 先生は公判で、いささかも事実を曲げて私に有利になるような弁護をしてくれた訳ではない。釘宮には天皇制批判とか、国家革命とか、そういう点は全く無いこと、ただ天皇陛下の宣戦の詔勅や兵役法に従えないことに苦しんで自殺を企図したのですと言い、そして温情のある判決をお願いしたいと結んだ。私の意図が曲げられなかったので、私は内心大いに喜びました。

 判決は非常に軽く、懲役1年ですから、この時の裁判長は偉かったと思います。

          *

 この加藤先生は私の伯父釘宮徳太郎が主宰していた無教会主義の信仰を標榜する大分聖書研究会に加わっていました。伯父・徳太郎を補佐して、よく集会を支えていました。

 私の父は日本基督教会の大分教会に属する熱心な信者でしたが、時には伯父の聖書研究会に出席し、図書管理等の加勢もしたようです。私の父は1930年に天に召されます。父は45歳、私は7歳でした。

 渡辺信雄先生という方が「内村鑑三の継承者たち」という本の中で釘宮徳太郎の信仰生涯を書いて、最後にこの伯父の年譜を作って下さっています。その1930年(昭和5年)の枠に、わざわざ「肉親で最も良き信仰の理解者であった実弟釘宮太重召される。この頃より、以後3年ほど、主筆の『復活』誌の内容で発行禁止を受けたり、また『危険思想』の人物として特高警察につけねらわれるようになる」と、書いています。釘宮徳太郎の文筆が先鋭化してゆく傾向に、この私の父の死が関係ありそうな文面になっています。意味深いものを感じます。

 この伯父は1936年(昭和11年)2月27日に肺炎で天に召されましたが、まだ若い56歳でした。もっとも、私の目には相当、年を取って見えました。私はその時、14歳だった筈です。旧制商業学校の2年生でした。伯父の葬儀を、後に私の弁護をしてくださった先ほどの加藤先生が司式されました。無教会主義の人たちですから、信者さんたちが自分で何でもします。実は、この伯父の召天の日が、なんと日本を衝動させた2・26事件の翌日なのです。

 「クギミヤトクタロウシス」の電報が東京の無教会の先生方に飛ぶと、先生がたはひとしく大分聯隊に青年将校たちの暴動が起って、釘宮さんが襲われ殺されたかと思ったそうです。そういう時代でした。ですから、伯父の前夜祭や葬儀の後、集まった人たちの中で、東京の事件の情報がささやかれたものです。

 というよりも、こういう事件の情報には早耳で詳しい弁護士の加藤先生がいます。当時、各家庭で電話など持っているところは1軒もありません。そういうニュースを電話で早く耳にするのは弁護士の加藤先生です。先生は親しい信者さんに向かって、2・26事件のみならず、当時の日本の政治経済、世界の国際情勢等をくわしく、しろうとに分かるように話してくれました。まだ14歳の私には全部は分からないにしても、なまなましい東京の青年将校決起事件、その他の情報を聞いて、私は興奮しました。

 その興奮とは、内村先生ばりの憂国の情です。明治維新前の青年武士たちの国を思う熱情に似ています。それとは違った角度ながら、東京では青年将校たちが政府高官や高位の軍人たちを殺し、朝日新聞を占拠し、何の見通しも立っていない時でした。成り行き次第では日本中に戒厳令もしかれるであろう。そういう雰囲気の中で語られる加藤先生のなまなましい時事解説?に皆さんは耳を傾けました。大人も私も、みんな興奮しました。

 少年・釘宮義人の心は日本という祖国を思って燃え上がりました。この心は後に、内村先生の日露戦争当時の非戦論、後の矢内原忠雄先生の「余の尊敬する人物」あるいは「イエス伝」を読んで、ますます熱烈化します。

          *

 「余の尊敬する人物」は、ごく初期の岩波新書です。あの時代に書いた人も書いた人ですが、出版した人も出版した人です。岩波という人も偉かったですね。

 とは言え、この「余の尊敬する人物」は、書くべき人物をよく選んで書いています。筆頭に日蓮を持って来てありますが、当時の右翼の人々に日蓮系の人が多かった事が十分計算に入っているようです。日蓮は内村先生の「日本人の代表的人物」にも上がっている日本の稀有なる宗教家です。多くのクリスチャン牧師先生がたは日蓮さんを好きでないかも知れませんが。内村鑑三という人は日蓮が好きでした。これは無教会の信仰の一つの不可思議な傾向をさぐるのに、よい参考になるかもしれません。

 とにかく、この日蓮に関する文章の最後に、矢内原先生は書いています。「誰が真の愛国者であったか、それは後の歴史で明らかであります」。こう書いてある矢内原先生の気迫に私は泣けました。先生は当時、改造か中央公論に「日本よ、滅びよ」と書いて、東京大学を追われていた時です。つまり当時、先生は日本全国にあがる「非国民」の罵声を浴びせられている時です。

 「日本よ、滅びよ」などと誤解受けやすい言葉を、矢内原先生はなぜ書いたのでしょうか。それこそ憂国の情からペンからほとばしり出た、止むを得ぬ真実の声です。「誰が真の愛国者であったか、それは後の歴史で明らかであります」、それはまさしく当時の矢内原先生のご自身の声であったわけです。そのことを、もう青年期に達していた私は肝に銘じました。

 後年、1940年(昭和15年)、私は18歳の時です。初めて東京に出て、銀座をおそるおそる歩きました。そして教文館のビルを発見しました。当時、大分などの田舎にキリスト教書店などあるはずはありません。私は教文館の小売部にはいって沢山のキリスト教の本を見た時、胸が喜びでむせかえりそうでした。

 そこで矢内原先生の「イエス伝」を発見したのです。私は、この本をイエス様のご生涯を書いてある入門的な本だろうと思っていました、ところが開いてみるとマルコ伝の講義の筆記なのですね。先生が講義しているそのままの雰囲気があって、むつかしくない。読みやすいのです。しかし、途中になってどきりとするお話になります。信仰を持って生きる者は必ず迫害にあうという個所だったのです。

 先生は現代(当時の)におけるクリスチャンのきびしい状況を語られます。その一例として、北海道の浅見仙作さんのことが出ます。非戦論や、天皇とキリストとどっちが偉いかというような問題で警察に捕らえられていた方です。浅見さんは当時、たぶん50歳くらい、すでに支那事変は始まっています。そうした戦争を浅見さんは罪悪だと言っています。聖書の言葉の丸呑みで、そのように言っているのではなく、当時の大陸における戦争の様子を見て、この日本の戦争は侵略だと断じているのです。

 こうした浅見さんのことを、矢内原先生は詳しく語っています。先生は言います。「こうした官権の圧迫を皆さんも覚悟していてくださいよ。私も又、けっして皆さんに恥はかかせません」と、先生は言い切るのです。私は胴震いしました。(く)

 

2002/12/1

(「日岡だより」第48号)

聖会の思い出(三)   

 「日岡だより」46号以降、かつての特別集会などのことを思い出しては、「聖会の思い出」と題して書いて来ました。この号でやっと、先だっての11月2、3日に行った「第7回信徒修養会」と銘打った聖会のことにふれることになります。

 「聖会と修養会と、どう違うのですか」という質問も出ようかと思います。私なりの感覚では、聖会は聖霊による燃え上がるような祝福された集会、会集一同、異言も出ようし、賛美も噴出、踊る人あり、倒れる人あり、回心者が出、献身の決心者が出る。そういう熱情的雰囲気の集会なら、私は聖会と呼びたい。

 修養会というのは、どこか冷たい。静かな勉強会。祈りでも小声で、静かに祈る。ディスカッションしたり、研究会したり、そして今後の伝道体制を練る。そして、祈りと誓約。私はそんな感じなのですね

 ともあれ、私の現在の教会の状態では、聖会は成立しにくいな、と私は思っていたのです。深く考えた訳ではなかったのですが、今のところ聖会と称するほどの盛り上がりを見せることはむつかしいと、ぼんやり思っていたということです。だから「……修養会」と名をつけた訳です。それでも、次の回になったら、何とかなるだろう、ともかく、まず「修養会」の段階から始めよう、と私は思っていたのです。

          *

 まず第一日の私の開会説教は、私の母のことについてでした。私が小学校5年生の頃、彼女の信仰がある朝、急激に変化、一変した時のことです。私は、基礎的な確かな信仰について語りたかったのです。

 第2セッションは夜でした。永井先生の説教の時間です。ところが、予定時刻の前から、女性群がせっせと祈り始めた。この人たちは日ごろから、よく祈りこんでいるから、すぐ異言になります。その異言の祈りがほぼ1時間つづきました。

 まだ、霊的に高潮した集会に慣れない人たちのつまずきになりはしないかと心配もしたが、もう止められません。ままよ、なるようになれ。神様におまかせしよう、と覚悟したことです。

 後で聞くと、やはり初めて異言なるものを聞いた人たちは、当然びっくりしたようでありました。しかし、その人たちは皆、これは何か特殊な祈りの形態らいしとは想像できたらしい。そして自分たちも、こういう祈りを体験したいと心に願ったという。これは思いもよらぬ嬉しいことでした。

 こうして始まった第2セッションの集会ですが、まず永井先生の説教は「みなさん、もっと燃えようではないか」というアッピールだった。「みなさんの信仰は眠っていやしませんか」ということです。

 「こんな状態では、伝道体制を作ろうにも、みなさんに新しい教えをしようにも、受け取る力がないように思う」と言った塩梅です。

 しかし、開会前の異言の祈りによって会集の魂は整えられていました。だから、永井先生の語った言葉はみなさんの心に素直に深く浸透したのでした。

          *

 第3セッションは翌日の午前です。講師は再び、永井先生。しばらく先生の青年期の求道時代から、信仰生活の話題に移り、神学校時代に展開する。先生は、その神学生時代に、乞われて知多半島の紡績工場の女工さんたちの集会に行ったのですが、そこでなんと救われる人たちが続出、勇気を与えられる証しでした。

 その後の開拓伝道の挫折もあり、波瀾万丈と言える先生の正直な証し、そうした御体験を印象深く語られたのち、先生は一段と声を張り上げた。

 「みなさん、み言葉に立ちましょう。出て行きましょう。刈入れは多いが、働き人は少ない」。

 気迫に満ちた言葉で説教は終わりました。私は前に出ました。会集に向かって、「さあ、皆さん。永井先生の説教に応答しましょう。さあ、主が何をみなさんに語りますかを、聞きましょう。祈りましょう」。

 祈りが澎湃と起り、賛美となり、霊歌も出る。皆さんが踊り出す。燃えた。燃えた。先に書いた修養会というような静かな集会ではなくなった。まさしく、これは「聖会」であった。感謝、感謝!

 

第9回高砂アシュラムに参加して   

 このたび、日本キリスト教団高砂教会で行われた第9回高砂アシュラムに参加してきました。会期は、この11月22日から25日まででした。私は昨年も、この時期に初参加しました。今回は2度目です。

 アシュラムというのは、スタンレー・ジョーンズという先生が始められた「聖書によって、各自が直接に神様の言葉を聞く」という学びの集会です。

 この目新しい集会は、特に神様との親しい交わりを求める熱心なクリスチャン人たちの間で評判になりました。日本で始められて、もう20年以上になろうかと思います。

 私は別府のナザレン教会で持たれた榎本保郎先生が指導されるアシュラムに参加したことがあります。あの榎本保郎先生のご指導ですから、けっして悪くはないのですが、聖書から聖霊様の御言葉をじかに聞きたい、と期待する私には今一歩、足らないものがあるように思われました。もっと、もっと、神様の御言葉に、じかに触れたかった。そのみ言葉ヘの熱い願いが、私を高砂アシュラムに誘ったのだと思います。

 それかと言って、この高砂アシュラムでは、けっして東洋風の瞑想というか、むつかしい神秘的な方法を奨めるのではありません。誰でも出来るやさしい小集会方式、ファミリーと称していますが、その中で祈りをもって始めます。これは元々のアシュラムのやり方で、どこでも同じですから、ことさら、異をたてて変わったことをしている訳でもありません。しかし、

 このアシュラム方式を手束先生が高砂教会に取り入れて、特に今回から「高砂聖霊アシュラム」と名付けられたことに、私は先生の特別の意図を感じます。

          *

 私は今回の高砂聖霊アシュラムに参加し、ファミリーの信徒の方々と共に座して、静かに聖霊様の語りかけを聴き、それを正直に互いに語って分かち合う、その妙味は格別です。大いに恵まれました。

 さて、手束先生の「福音の時」という特別な時間があります。先生の語られるのは、聖霊様の働きを視点に入れて、正にカリスマ神学そのもの。分かりやすい講義ですが、決して水割ではない。絶品です。この名講義を聞いて、私は大いに啓蒙され、励まされ、また聖書の真理を深く悟る喜びを味わったことでした。

 もう一つ特記したいのは、3日目の夕べの賛美礼拝です。メッセージは私がさせて頂いて、散々笑う。その後で手束先生の按手により会集一同が聖霊様に満たされて、倒れる人、解放される人、部屋いっぱいに皆さんが賛美と歓喜、笑いと踊りに酔いました。

          *

 毎年、2月にカルバリ・チャーチの橋本先生が手束先生を大分にお招きして、リーダー研修会を開きますね。ああしたセミナー形式の時は、先生は椅子に腰掛けての講義口調で、時には声も低くいし、地味です。

 ところが、今回の高砂教会における礼拝では「聖霊に生きる喜び」(今回の説教題)を火が吹くように語られる。熱烈でした。会集のすべて、聖霊に迫られて熱く燃やされました。私も目に涙がにじみました。

 来年も又、2月には手束先生は大分に来られるでしょう。皆さん、参加してください。(く)


【あとがき】

 台湾前総統の李登輝氏が先月の24日に慶應大学に招かれて講演をする予定でした。ところが日本政府からビザの発給を拒否され、氏は日本訪問を断念されました。同氏が慶應大学で講演するはずの原稿を産経新聞が入手しました。全文が同紙の先月20日号に掲載されました。▼それを読んで私は泣きました。キリスト信仰の言葉は一語も無いのですが、私は迷わずに、この文章の一部を木曜日の祈祷会で紹介しました。私はこの方の原稿を読むと興奮します。日本人なら誰でも私のように興奮し、涙を感じると思います。▼私はついに、この新聞記事全面をコピーして掲示板に貼りました。みなさんに是非読んで頂きたったからです。又、このコピーを前述の高砂教会の手束先生にお見せしましたら、先生は既にお読みで、「もう一度李登輝氏を日本に招いて、日本の主要大学で講演会をして頂こうではないか」と、産経新聞社に要請したということでした。私も大いに賛成でした。▼「日本人に日本精神を回復させたい」。これが李登輝氏のこの原稿を書いた願いです。戦前、台湾で大ダム工事を完成させたのみか、台湾の原住民を愛して三毛作の水路のことまで考慮したという人。その人は死ぬ前、遺言して遺骸を台湾の土に埋めたそうです。八田與一という方です。彼は今も尚、台湾の人々に尊敬されています。彼の人格の故です。彼の人格とは、李登輝氏に言わせれば、彼の「義を重んじ、まことをもって率先垂範、実践躬行する日本精神」でした。▼私たちはこのすばらしい日本精神に自信を持とう。そして、この日本精神を元木にして、その上にキリスト信仰を接ぎ木して、キリスト信仰を築くならば、更に驚くべき真の日本人クリスチャンを生むに違いない。この場合、日本精神は旧約の魂と言ってよい。宣教師がもたらした西洋のキリスト教について私たちは大いに感謝します。しかし、私たちは日本精神の上にキリスト魂を接ぎ木した、更に強く清いクリスチャンになりたいのです。

 

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