キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2003年2月

2003/2/23

(「日岡だより」第60号)

2・26事件のこと   

 もうすぐ、2月26日ですが、この日は何の日か知っていますかと問うと、すぐ答えられる人は少ないと思う。この日は2・26事件が起った日である。こう言っても「2・26事件って何ですか」と返事が跳ね返ってくるのが関の山であろう。

 これほどでは無いにしても、12月8日、8月15日、これらの日をはっきり覚えている人は少ないのでないか。ちなみに答えを書いておくと、12月8日は大東亜戦争の始まった日、8月15日はその戦争が敗北に終わった日である。多く、終戦記念日という。私は嫌いである。負けたことは負けたとはっきり言っておきたい。子どもにも、そう教えたい。

 こういう点、日本人は要領よく、言葉を替える。戦争で全滅させられると、それを玉砕という。占領軍がやってくると、それを進駐軍。憲法では天皇様を「日本国の象徴」だって……。ばかばかしいし、申し訳ない。

 さて2・26事件のことだが、これは日本が軍国主義に急激に傾斜してゆく重要な転換点だった。もっともその前に5・15事件というのがある。これはすでに起っていた満州事変や上海事変を抜き差しならぬ方向付けしてしまっていたという経緯もある。

 5・15事件では陸海軍の青年将校たちが官邸を襲撃、犬養毅首相を殺害した。「話せば分かる」という犬養さんの有名な言葉を残した。(犬養道子さんは、この犬養首相の孫である。)

 2・26事件は昭和11年2月26日の早朝、突然、起った陸軍の青年将校たちによるクーデターである。その日、東京は雪だった。一部の青年将校たちが1400人の部隊を率いて永田町一帯を占拠した。首相官邸や議事堂や陸軍省などに突入して高官たちを殺害したのである。一大事件である。

 こうした軍人たちは、徹底した天皇中心の皇国史観を抱いて、気分は純粋だった。彼らは利権にあくどい不誠実な政府高官たちを一挙に殺し、東洋永遠の平和のための理想政治を行える新政府を作ろうと言うのである。

 その純真さが、当時の今のデフレどころではない暗澹たる不景気の閉塞の時代、これを打ち破る革新的政治変容を求めていた国民一般に何か、良いことありそうだ、という気分をあたえた。天皇中心の皇道主義というキャッチ・フレーズも清新で道徳的信頼感を与えたであろう。

 当時のある新聞は「青年将校団蹶起」と見出しをつけていて、すこぶる同情的である。蹶起という文字は今の新聞用語では決起と書くが、悪の旧守勢力に決然と向かってゆく若々しい善玉の集団を思わせる用語ではないか。

 こうした青年将校たちにたいして国民には一種の人気があった。だから、政府も、軍部もこれをどう扱っていいか分からない、相当うろたえたらしい。

 この時、それこそ「決然」として、断固、決断されたのは、昭和天皇である。天皇は軍部の上位者たちを叱咤激励する。「彼らは反乱者である。ただちに掃討せよ」と。

 反乱を起こした青年将校たちはいわゆる皇道派と言われる「天皇制」謳歌の血気盛んな軍人たちである。その彼らが、天皇から反乱者と決めつけられて口惜しかったであろうが、しかも、そのように忠節な若い軍人たちは。死刑に追いやられつつも、天皇陛下をあくまで慕い、喜んで「天皇陛下万歳」と叫んで死んでゆく。そうした彼らの心底は特別に澄みきっている。大分県大野郡の村だったか。この2・26事件グループの青年将校を生み出した部落では、今もその人物を村の誇りにしているくらいである。こういう尊い精神の美学は、のちのちの大東亜戦争末期の特攻精神を生むのである。

         *

 ところで、そういう時代にあって、日本の方向を忍耐深く見届けようとする人もいるのです。私の伯父釘宮徳太郎もその一人であった。彼が当時書いた文章を次にのせたい、これは昭和8年(1933年)11月1日発行の彼の個人誌「復活」の巻頭言、「醒めよ日本」という一文である。所々文中に「〇〇〇〇」とあるのは、当時の検閲を逃れるため、不穏な言葉を見咎められないために文字を隠した個所である。(これが実は日本の当時の警察官僚の間抜けなところで、戦後のアメリカ占領軍は絶対に検閲されたと分からないように検閲個所を書き替えなければ検閲は通らなかった)。以下伯父の文章。

 「醒めよ、日本。汝はむやみに正しい言論に対して、迫害弾圧をくわえ、おのれ自ら自殺しようとしつつあり。言論の圧迫は暴力の奨励である。このままで進めば、更に〇〇〇〇〇〇が起り、〇〇〇が蜂起するであろう。

 醒めよ、日本。〇〇あたりでは、ヒットラーの真似でもあるまいが、しきりに強硬外交を唱えているとか。日本よ、まず神を畏れ、おのれ自身の罪を悟り、正義の上に固く立ち、外交は平和に、しかも最後まで戦い、軍事は強けれど最後まで戦わざるようつとめよ。是まさに平和の掟、日本魂と武士道を与えられている汝の使命であらねばならぬ」。

 これを書いた時、じつはこの雑誌「復活」の前号が発売禁止になったばかりの時だったのである。ある人の指摘では、日本においてキリスト教関係で「発禁」を喰ったのは、この伯父の雑誌が初めてであっただろうと言う。

 伯父は専門の伝道者ではない。一介の商人である。日本で最初の公設市場を大分市に具申して作らせ、第一代公設市場々長になった人でもある。その公設市場の機関紙を出して、今で言えばテナントの主人の商売教育、そして御言葉の伝道をした人である。のちに大分市商工会議所の専務理事になった。

 鉄道大臣に会うことがあった。大分県のある農産物の名称を格好よい名前に替えるためであった、それは成功した、その筋の県庁の課長がよくそのことを称賛した。鉄道の運賃表の名前が変わることによって、新聞、雑誌、ラジオ、相場等、一切が新名称に変わるからである。その大臣を訪問するとき、伯父は秘書を通さず、スーッと大臣室にはいって行ったという。そういう剛毅なところもあった。

         *

 こういう伯父が肺炎を病んで、死んだ。その日が前述の2・26事件の翌日、1936年つまり昭和11年2月27日だった、伯父はまだ若い56歳、もっとも私には相当、年を取って見えたものだ。私はその時、14歳だった筈です。旧制商業学校の2年生でした。この伯父の召天の日が、なんと日本を衝動させた2・26事件の翌日だったわけである。

 「クギミヤトクタロウシス」、この電報が東京の先生方に飛ぶと、先生がたはひとしく大分聯隊に青年将校たちの暴動が起って、釘宮さんが彼らに襲われ殺されたのかと思ったという。

 伯父はバタくさい白人ナイズされた信仰を嫌った。日本魂、武士道精神が口癖である。2月26日が近づくにつれ、私はこの伯父を思い出す。何も伯父の信仰が最高にして模範だったというのではない。ただ何物も恐れず神様に従い、そして自分にも正直だった彼の信仰の姿勢を学びたいと思うのである。(く)(2003.2.21.「親分はイエス様」の上映会の日に)

 

2003/2/16

(「日岡だより」第59号)

父の子守歌   

 私の父は釘宮太重と言います。太重とはヘンな名前ですね。たぶん生れた時、弱そうだったので、「太く重く」あるようにと名を付けたのでしょうが、その甲斐もなく父は生涯病弱で、45歳で死にました。他に、いろいろ苦労もあって晩婚でした。私は父の37歳の時の子です。他に兄弟はなく私は一人っきりでした。

 父は私を非常に愛した。私は子供心に「父には何かある」と思っていた。後で考えれば、それは信仰でした。母にはそのような信仰は無かったのです。

 母は父が死んで、4、5年して、自分の信仰の次元の低さが分かった。母は毎朝、大分川の川辺に行って祈りました。そして本物の信仰を掴んだのです。私には何となく分かりました。「母ちゃんも、父ちゃんのようになった」と。

         *

 父はしろうとだが、文芸好みであった。日記によく俳句や和歌を書きこんだが、けっして短歌などと言うものではない。私のための子守歌もありました。よく私のために歌ってくれた、私の耳の奥に今も残っている。こういう歌だ。

  「可愛いい義人よ。おいしいお乳を、
   泣かずに眠らで、しずかにお呑み。
    夜も日も神様、共にいまして、
    あなたを愛して、守り給うぞ。」

 最後の2行が折り返しで、3番まである。メロディーは讃美歌(1954版)359番の曲である。私は今でも、自分のために、これを歌うことがある。涙が出る。

         *

 私は生れた時、医師から「このお子さんは難病です。2、3日か、長くて1週間くらいの命だと思う」と言われ、父は仰天した。「ラザロを甦らせえ給いし主よ、我が子を救ってください」と、もだえるように祈った。

 医師からは「産後の奥さんには、秘密に黙っていてください」と言われたが、もしも2、3日で死ぬ子の運命を、妻に黙って置けないと、すべてを知らせて、共に祈り、看護したと、父の残した文章にある。

 不安と祈りの中にも一週間過ぎ、私に「義人」と命名して祈りつづけた。なんとその2日後に、医師から「まず、大丈夫です。乳もよく呑み、元気です。完全回復の望みあり」と言われたそうで、見事な奇蹟的回復だったのです。

 この事は私は何度も聞きました。私の人生観や信仰に大きな影響を与えました。

         *

 父の私を愛する愛情の深さは単なる情緒を越えて、信仰的な深みを持っていたのは、こうした経緯の故だと思います。

 私が7歳の時、父は死にました。その命日を、今でもその日の朝が来て、起きるとすぐ「今日が父の日だ」と、自動的に思い出します。そして、先ほどの私の子守歌を歌い出すのです。

 私が信仰をイエス様から頂くのは22歳の時でしたが、信仰を持ってから、はっと気づいたのです。例の子守歌、その折り返しの歌詞に、「あなたを愛して守り給うぞ」とあることを。

 父はどうして私を「お前」と呼べなかったのでしょうか。神様から命を貰った、尊い命の子。我が子と言えども「お前」とは言えなかったのでしょう。私は「私の目にはあなたは高価で尊い」(イザヤ43:4節)という聖句を思い出します。父が私を「あなた」と呼んだように、神様も私たちを「あなたは高価で尊い」と呼んでくださるのですね! (く) (2001.1.24.テレホン聖書)

 

悪霊を追い出す力   

 例年、日本キリスト教団高砂教会の手束正昭先生をお迎えして、大分県下の諸教会や、時には宮崎県からも参加し、教職信徒のためのセミナーを開いてきました。
 企画は大分カルバリー・チャーチの橋本先生でしたが、私も名前だけは実行委員長だったかもしれません。それが、今回はセミナーは中止になって、大分県下では中津扇城教会と大分カルバリー・チャーチと私どもの教会だけ、個々に手束先生を迎えることになり、当大分教会は去る2月9日の夜に、聖会をお願いしたのでした。その聖会の記録を簡単に以下にまとめました。

 先生は開口一番、私の提唱する「笑いの祝福」に関連して、「私もこう思う、聖書的に見てイエス様も日ごろ常に笑っていたに違いない。あまりに当たり前すぎたので、このことを聖書には書いてないけれど」、と解説しながら、私の「笑いの祝福」をご推奨して下さった。心から、先生の同志愛に感謝しました。

 さて、次に「セル」集会について、かいつまんで解説し、日本民族総福音化のためにも、この「セル」は必須の活動形態である、と推奨してくださったのでした。ジョン・ウェスレーのメソジスト運動に置ける「組会」、チョウ・ヨンギ先生の「区域集会」、すべて同じ路線の信徒活動でした。「これをやりましょう」、という激励でした。私も、当教会で、ぜひこの「セル」を始めたいと決心したことです。

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 この夜の手束先生の中心的テーマは「悪霊を追い出す力」でした。

 悪魔を論ずることを怖がる人がいます。たしかにC・S・ルイスも言っていますが、「人が悪魔に無関心であることも、悪魔を怖がることも、悪魔に興味を持つことも危険です」。しかし、悪魔のことを正しく知って、悪魔に対してすでにイエス様が勝利されていることを知り、イエス様を信じるものはイエス様の御名によって悪魔に勝つことを知ることは、ぜひとも必要な知識です。今の神学に足りないのは「悪魔学」です。
 こうしたことについて、手束先生は学者らしい権威をもって、大胆に明確に語ります。しかも先生は悪霊払いの経験を沢山お持ちなので、お話が具体的です。だから、誤解を恐れず言えば、面白いのです。
 悪魔や悪霊は悪しき事を象徴的に擬人化したものではありません。悪魔や悪霊は、彼らは姿は見えませんが、人格を持った実在です。

 先生が書店に行って、アダルトなどの本や雑誌、ビデオのある辺りで、足にまつわりつく嫌な感じを受けることがあります。「悪霊よ、去れ!」と命じると、その雰囲気が消えるのです。

 たとえクリスチャンの家でも、その家を訪問すると、ワッと襲ってくる悪霊の匂いや風を感じることがある。その家にはいって悪霊払いをすることもしばしばです。

 先生は言われる。悪霊に憑かれたと言っても、すべて悪霊が人間の中に入り込んでいるというのではない。ただ外から影響を与えるだけという場合がある。

 また、人間の肉の部分に入り込んでいるという場合がある(ローマ7:17、20参照)。パウロでさえもサタンから「とげを与えられた」(第二コリント12:7参照)」と言っているのが、これでしょう。

 たいへん危険なのは、悪霊が人の人格に入り込んでいる場合です。そういう場合の悪霊払いは、こちらも複数で当たることです。非常な肉体的力を出す霊がいます。男性2、3人でもかなわないくらいのことがあります。

         *

 先生はさらにピーター・ワグナーの言葉を紹介しました。「聖霊の賜物で、聖書に書いてない賜物が2つある。それは『とりなし』の賜物と『悪霊追い出し』の賜物である」と。

 先生は毎朝、「聖霊さまの助けを祈る」と語られました。悪霊との戦いに、どんな時でも、どこででも勝利するためです。私たちは、いつ悪霊の妨害に出会うか分かりません。

 私たちも毎朝、祈りましょう。聖霊様の力を受けて、1日を始めましょう。力あるクリスチャンの生涯を送るために。(く) (2003.2.9、聖会にて)

 

2003/2/9

(「日岡だより」第58号)

「キリスト教は宗教ではない」?(1)   

 「キリスト教は宗教ではない」、と言うと、

「そーんな?、だってキリスト教は宗教の一つでしょ。鯛が魚であるように、キリスト教は宗教の一つのはずですよ」。こういう反論は必ず出る。そして、「ではキリスト教は何なのですか」、こうも言われる。その時、私は次のように、お答えしたい。「確かにキリスト教は宗教ではない。それではキリスト教とは何か。キリスト教は福音であります」と。

 福音とは何か、宣伝文句の「奥様がたの『フクイーン』、新型洗濯機の発売!」という福音ではない。「キリストの福音」である。

 私どもの教会の名前は「キリストの福音大分教会」。「キリスト福音大分教会」ではない。この「の」という一字に注意してください。キリストについての福音ではない。それは、キリストが持っている。キリストから与えてくださる「福音」のことである。

         *

 宗教の「宗」という文字は「主とすること。中心となること」(広辞苑)という意味である。

 ある人たちは言う。「だから、宗教とは『中心となる教え』を指すのです。つまり人が従うべき、また模範とすべき、信じてしかるべき中心的、主なる教えです。それは土地により、階級により、時代により、いろいろ表現は違うよ。しかし中心は一つだ」。

 続けて言う、「善い宗教なら、何でもよい。ただ、あまりに自分の宗教に凝らんことだな、凝って他の宗教の悪口を言うのはみっともない。日本人は何の宗教でも受け入れてきた。日本人は他宗教にたいして対して寛容である。その点、キリスト教は自分の信仰だけを、ただ一つ尊いとする、堅苦しいよなあ。だから日本ではキリスト教は伸びんのだよ」。などとおっしゃる人もいる。

 しかし、たとえば結婚。良い人なら誰でもよい。誰とでも、何人でも良い、一緒になりなさい。という訳には行かない。

 日本で昔、キリシタンが入って来た時、大名たちはキリシタンを信じようとしても、キリシタンは一夫一婦制を固守するので、キリシタンになることを断念したという説もある。

 大名としての血統を守るために、男の子を確保したかった大名たちは、単に性欲充足のためばかりでなく、妻を複数にめとり、男児をたくさん得たかったためでもあったという、多少、理解できる、そういう大名たちにとってキリシタンは堅苦しい宗教だったでしょう。

 ともあれ、日本人は宗教については寛容というか、いい加減というか、味噌も糞も一緒というところがある。下に仏壇があり、上に神棚がある。これは日本に多くの家庭に見られる風景ではないでしょうか。

 だから「神仏礼拝」と言ったりする。私はある寺の住職の家に行ったら、台所に荒神さんの祠があり、井戸のふたに水神さんのお札があり、居間の天井の下にどこかのお宮の神棚があった。この住職は特別かも知らないが、私はびっくりしてしまった。

 私の母の父、つまり私の祖父だが、この祖父は朝は起きると必ず外に出て拍手(かしわで)を打って、四方を礼拝し、もう一度、斜めに南東、南西、北西、北東というように礼拝して、またもう一度、天に向かってパンパンと拍手して終わったそうだ。

 母が、「その最後のパンパンは何ですか」と問うたら、「うん、礼拝しそこなった神さんがいて、バチを受けたら困るから、もう一つおまけにパンパンとやるんじゃ」と答えたそうだ。

         *

 聖書が教える神はただ一つの神である。

「私たちはみな、唯一の父を持っているのではないか。私たちを創造したのは唯一の神ではないか」(マラキ書2:10)と聖書にある。

 宇宙の中でただ一つ居られる、というのではない。宇宙全体を覆うただ一つの神なのである。神は天と地を、つまり万物を創造された。神は宇宙の外にあり、また宇宙全体を覆い、また宇宙すべての場所を占有される(エペソ書4:6参照)。だから、この神は最高の神である。

 同じく神と称しても、言葉では同じだが、実際はギリシャ神話や日本の神話のセオスと言い、カミという神と全然違う。殆ど人間と異らない。ただ、空を飛んだり、姿を隠したり、異能があるというだけのこと。恋愛したり、喧嘩したりで、人間同様、煩悩そのものである。

 日本の神様は我々の祖先であることは歴然としている、人間である。もっとも、初代の七人の神様は単性であり、姿も隠しておられたように思う。事実、カミという言葉の一つは「隠れ身→カミ」なのである。もう一つは、「上→カミ」なのである。

 皇室では天皇様をお呼びするとき、「おかみ」と言うそうである。冗談を言えば、料亭や旅館では女主人が「おかみ」、講談では、つよい女房が「山の神」。

 本居宣長に言わせれば、なんでも奇妙なもの、異能のあるもの、虫でも獣でも皆、これをカミと呼ぶとある。日本では神は自然の一部なのだ。

 日本神話の一番最初の神様は天之御中主尊。この神様は、わだつみ(海)の中から、あしかび(蘆芽)のように生え出た神、つまり聖書の創造主なる神によって造られた自然の中から、生れ出た神というわけで、この日本神話の神と聖書の神との差はあまりに歴然としている。私は少年時代、これを知って日本人として残念で仕方なかった。一時、祖国への夢が破れたのである。

 しかし、その後、「日本よ、天地の主なる神様に喜ばれる国となれ」と祈るようになった。それが本当の愛国だと思ったのある。私は日本という国を真実、愛した。ただ「軍事に強く、財政に富み、世界一の国なることだけを願う」、そのような愛国心を嫌悪したのである。

 たとえ、戦争に破れようと、永遠の国に帰った時、「お前さんたちの国は世界でただ一つ正義の国であった。真理のために国土も国民も失ったけれど、お前たちの国と王(天皇)は天において永遠に記憶されるであろう」、このように神様に言って貰える国になりたかったのである。

          *

 キリスト教が他の宗教に比して優れていると言い立てるのは、他宗教の方々からは、随分と傲慢で独善的に見え、不愉快なことであろうかと、十分推察できます。

 「キリスト教は宗教ではない」、こう言う命題を立てるとすると、その立論の基礎はどうなるであろうか。まず、その説明のために取り敢えず、次の3箇条を上げます。もっとくわしくは次号以降に回します。

 第一は、キリスト教の神は唯一の創造主なる神であるということ。これは既に、ちょっとふれました。他宗教と隔絶する所です。

 第二は、この神様のご意志と御心の儘に従い、肉体をとって地上に来られたイエス・キリストのあがない、これを福音と称します。

 第三は聖霊です。神様とイエス・キリスト様の意志と御心を人に示現し、かつ真理の命を人に注ぐのは聖霊の力です。(2003.2.9.)

 

2003/2/2

(「日岡だより」第57号)

永井先生を送る(2)   

 この1年、当教会を助けてくださった永井明先生と随行の遠藤志乃伝道師は、先日(1月31日)移転の荷物と共に、出発しました。遠藤先生は佐賀県武雄市の開拓伝道に、永井先生は一応ゴスペルタウンに帰られ、しばらく体を休められて、岩手県などの5教会の協力牧師を務められる筈です。

 永井先生の過ぐる1年のことについては、すでに先週の本紙で書きましたが、もちろん、あれだけでは書き足りません。多くの恩恵を先生から受けましたが、その幾つかを思い出すままに書こうと思います。

 「人生の成功の秘訣は目標設定にある」、これはSMIのポール・J・マイヤーの口癖ですが、目標設定の第一のコツは長期目標と短期目標を具体的に決めることです。これを見事にやって見せてくれるのが永井先生です。

 ずっと以前、拡大宣教学院の庭で先生と話していました。「釘宮先生、今はこんな幼い木ですが」と、ある潅木を指差して、「十年先には立派な背丈になって、宣教師館の庭先で小鳥を招くことでしょう」などとおっしゃる。

 私には到底思い付きそうもない想像ですから驚嘆したことです。大体、私には人並はずれて、そういう感覚がないのです。私は聞いた。「先生ってどうして、そんなに未来を見る目があるんでしょうねえ」。

「私はねえ、先生。私は百姓の子でしょう。今、蒔いた種は来年はこうなる。こいつは連作を嫌うから、来年は何を蒔くことにしようかと、いろいろ考える、父親ゆずりなんですよ」。

 先生が、先生らしい特徴ある神学校の設立を構想していたのは、私は早くから聞いていた。しかし、いよいよゴスペルタウンの敷地が決まってから、見る見る具体的計画や人事交渉など実施策が進捗するのに驚かされたものです。

 「世代交代」これも先生の口癖です。畑の作物の植え付けの見通しに似ています。「世代交代」! それは、まさに神様のための働き人の発掘、期待、養成、訓練、そういうことにつながる発想です。

 今回、武雄市の開拓伝道に抜てきされた遠藤伝道師は、昨年の1月に大分に来られた時、純真、真面目、先生の指示に忠実、従順、そういう良い性格と、仕事の確実さはよく分かるのですが、それにしても、やはり伝道者として立つには、まだまだ時期尚早かなと思えました。

 しかし、1年たってみると、先生はかつての「志乃ちゃん」を見事に育てられていましたね。今年の宮崎の新年聖会で伝道師としての按手礼を経てのちの遠藤姉の雄々しい変身ぶりを見て、これを褒めない人はない。

         *

 先生は食べることが好き、料理が好き。人を食膳に招くことが好き。これは人を育て、人を造ってゆく(先生が自覚せずして会得している)弟子造りの秘訣かもしれません。

 もう1つ先生の好きなのは温泉ですが、これはもう尋常ではありません。せんだって、由布院の広大な某温泉旅館にご一緒しました。凄い広さの名苑です。そこで先生はとうとう一夜に7回も入浴してしまったほどのお気に入りでしたが、如何に好きだと言っても7回もお湯に入るとは、例はそう多くはないでしょう。

 こういう風に、先生は何かに没頭されると、そこに神様から下さった日々を豊かに楽しんでいる様子が見える。先生がよくひとり言される言葉は「嬉しい。伝道は楽しい」。

 朝、起きると、1番に「今日は素晴らしい」と喜ぶのだそうです。ここに先生の人生を楽しみ、闊達に生き、信者さんや修養生や献身生、お弟子さんたちをくつろがせつつ、訓練し指導して行く秘訣があるように思う。秘訣と言っても、多分、ご自分では気が付かれていないでしょうが、持って生れたものか、ご自分で養ってきたものか、私のぜひ伺いたいところです。

 先生の明るい性格や、イメージ力は先天的なものでしょうか。(特にイメージ力は抜群で驚きます。人はみんな自分と同じようにイメージを描けるのか思っていたが、そうではないんですねと、つくづく私におっしゃったことがある。このことは、又別の機会に書きたい)。

         *

 すべてのクリスチャンは「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスの信仰による」(ガラテヤ2・16)という、義認の信仰によって立っています。これはキリスト信仰の要(かなめ)であり、基礎でもあります。この信仰に立って雄々しく清い信仰生活を励み、クリスチャンとして天国に帰る日まで、些かでも成長して主の御犠牲と愛に応えよう、これはクリスチャンの生き甲斐というものです。

 ところが多くのクリスチャンが「人が義とされるのは律法の行いによるのではない」という言葉を安直に誤解して、信仰を守り、信仰を成長させ、主のご信任に応える行為を無駄な行為、あるいは反信仰的行為とすら思いこむ傾向があるようです。徳目的行為を推奨するのはカトリック的偽善であって、プロテスタントの信仰は違う。そう言って、ただ「信仰のみ」というルターの言葉に固執するのです。

 たしかに神様の前に義と認められるのは「信仰のみ」によります。しかし信仰を成長させ、心にも言葉にも肉体の行為にも、クリスチャンとして愛と正義と聖なる主の姿を自分のものにするためには、「わたしはからだを打ちたたいてでも服従させる」(第一コリント9・27)とさえ、パウロは言いました。また、「いつも全力を注いで主のわざに励むことは決して無駄になることはない」(第一コリント15・58参照)とも言うのです。しかし、パウロがそうは言っても、

 肉体的行為、また人の前に語る舌と口をいくら責めたたいても、それほど大して効果はありません、偽善者としての自己不満を起こすだけです。このことは多くのクリスチャンが体験しています。もっと明るく。実際的に、確実に、明るく堂々と、愉快に、楽しく、クリスチャン的人間完成の方策はないのか。あります。

 それが永井先生得意の「告白の実践」です。私はかつて「恵みの雨」誌に「告白の力」という文章を発表しました。私の文章も良い文章?でしたが、永井先生の実行されている「告白の日常的実践」は本当に効果的です。

 実はすでに少し先に紹介したことですが、先生は朝起きると、「やあ、今日はすばらしい。今日は神様が造られた日、神様が私に下さった日だ」と手をたたいて喜びます。食膳に座ると、「ああ、おいしい、おいしい。神様の下さる食べ物だ、おいしい、おいしい」と連発します。「神様は全天全地を造られて、これは大いに良いと喜ばれた(創世記1・31参照)ではないか。私も天のすべてを見、地上のすべてを見るごとに喜ぼう。感謝しよう」と万事を感謝される。

 こうした言葉を口を開いて、はっきりと声に出して言う。聖書に沿って、信仰の言葉を告白する。「告白の信仰」です。成功と満足と平安、歓喜の大歓喜の人生を送る先生の秘訣の一つだろうと思います。この1年、永井先生と一緒に過ごして先生を見てきた私は、先生の信仰生活の秘訣は、この「告白の日常化」にあると分かったような気がするのです。(く)(2003.2.1.)

★1年間の協力牧師永井明先生★

 

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