キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報とともに毎週発行する「日岡だより」)

2003年5月

2003/5/25

(「日岡だより」第73号)

医者を必要とするのは誰か   

(牧師)ルカによる福音書第5章27〜32節を読みましょう。ここに出てくる収税所というのは今で言えば税関でしょうね。そこはガリラヤ湖畔のカペナウムという町です。交通の要地でして、他の領地からはいってくる農産物やその他の物品に税金をかける役所だったらしい。そこにレビという取税人、税金の取立人がいたのです。そのレビ税務官にイエス様が声をかけられた。「わたしに従ってきなさい」。その時、レビさんはどうしました? Kさん。

(K兄)はい、「彼はいっさいを捨ててたちあがり、イエスに従ってきた」と聖書にあります。

(牧師)いっさいを捨てたというと、どんなものを捨てたのでしょう。

(K兄)はい、金とか名誉とか……

(牧師)そうでしょうね。でも、その収税所でレビはすわっていたと聖書にありますが、そこから「立ちあがった」とすると、何を一番に捨てたでしょう。

(G姉)あ、先生、ソロバンや帳面を捨てたと思います。(笑声)

(牧師)そうでしょうね。

(G姉)だから、まず、その取税人の職を捨てたわけです。

(A兄)そんなに簡単に仕事ってやめられるかなあ。

(K兄)Aさん、レビはもう最近は取税人の仕事がうっとうしくて、うっとうしくて辞めたくてたまらんかったんや。ひょっとしたら、「退職願」ぐらいは、内ポケットに用意していたのかもしれん。

(B姉)そこへちょうどイエス様がいらっしたわけですね。

(K兄)それに違いない。「神様のなさることはすべて時にかなってうるわしい」ということですね。

(牧師)それにしても先ほどのK兄弟の、「退職願ぐらいは内ポケットに用意していたかもしれん」という声は真に迫っていたですね。

(A兄)ほんとうです、Kさんはもう献身したくてウズウズしているんで、会社で毎日「退職願」を内ポケットに入れてるんじゃない。

(K兄)まさか……

(A兄)そこで、レビは家に帰ると、すぐお別れパーティーを開くのですね。

(G姉)あら、一切を捨てた、と言っても家は残っていたのかしら。

(みんな)Gさんは鋭い……。(笑声)

(B姉)それにしても、たくさんお客さんが集まったようです。

(牧師)もともとやくざな仲間には人気があったのかな。

(G姉)ご馳走につられたかも。

(A兄)いや、やっぱりレビがイエス様の弟子になったということが町じゅうの評判を呼んだのじゃない?

(牧師)もちろん、そうだろうね。

(G姉)先生、ちょっと感じたことがあります。

(牧師)はい、どうぞ。

(G姉)「レビは、イエスのために盛大な宴会を催した」とあります。

(牧師)うん、それで……?

(G姉)ですから「お別れのパーティー」というだけじゃないんです。

(A兄)あッ、そうです。イエス様のため、なんですねえ。

(牧師)いいところに気がつきました。

(K兄)さっそくレビは伝道なんですね。すごいなあ。

(A兄)これぞ、献身者のかがみ。(拍手)

(牧師)そこでパリサイ人がイエス様の弟子たちに対してつぶやくのですね。まだ聖書に慣れていない方たちに、パリサイ人というのは何なのか、A兄弟、説明してあげてください。

(A兄)はい、ユダヤ律法の原理主義者とでも言いましょうか、職業的宗教家でも学者でもない、もともとは在野の真面目な信仰家たちなのです。惜しむらくは形式的戒律の厳守派、イエス様の自由と恩寵に満ちた神の国の福音が気に入らない、イエス様を律法冒涜者として非難したのです。その非難が遂にイエス様を殺そうとするまで過激になって行ったのです。イエス様もまた彼らの偽善に我慢できなかったようです。

(牧師)A兄弟、ありがとう。よくかいつまんで説明できました。そのパリサイ人の人たちが、イエス様の弟子たちにつぶやいたのですね。なんと言ってつぶやいていますか。

(B姉)「どうしてあなたがたは取税人や罪人たちと飲食を共にするのか」と言っています。

(牧師)あ、この「罪人」というのも説明を要しますね。別に前科者というほどではないのです。ユダヤ教の戒律を知らない、守らない、そういう下層階級の民衆をアムハーレツ(地の民)と呼んだのだそうですが、そうした人たちを「罪人」と呼んでいたのです。

(K兄)先生、イエス様に直接、文句を言えないで、弟子たちに対してぶつぶつ言っているところがおもしろいですね。

(G姉)そのパリサイ人の小さい声がイエス様の耳には聞こえたのでしょうか。そのつぶやきに対してイエス様が直接答えてくれるということも、意味がありそうですね。

(A兄)そうですね、私たちはよく悪意のある質問をされて困ることがありますが、この箇所のようにイエス様が直接かれらに反論してくれるとすると、ホッとしますね。安心ですよ。

(牧師)T姉妹のご主人ね、だいぶ長い間、キリスト教に反対だったでしょう。病気になられて、K兄弟がお見舞いに行きだしてから、しだいに変ってきたのね。最近は「奇蹟を期待しています」などと、牧師の私の訪問を待っているそうですよ。神様がソッと、その心の深みに語りかけてくれているんだと、私は信じているんです。

(みんな)アーメン! そうです。(拍手)

(牧師)最後にイエス様が言われる、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。このイエス様の言葉は有名ですね。ところで、本人が病人なのに、自分が病気であるという自覚が無ければ医者を拒絶するでしょう。

(K兄)そうです、だから、自分の罪が分からない人はイエス様を拒絶するのですね。私たちが自分の罪に気づくということは、大変な恵みなんですね。私は長い間、人間の生まれながらの罪というのが、なかなか分かりませんでした。

(牧師)その罪、キリスト教では原罪と言いますね、どうしてそれが分かりましたか。

(K兄)やはり、聖書です。とくにローマ人への手紙でわかりました。

(G姉)私は先生の説教を聞いているとき、先生のお話の内容とは全然関係なしに、突然、私の罪がわかったのでした。

(A兄)先生、やはり聖霊様の働きなんですね。聖書でいう罪ということが分かるのは……。

(牧師)そうですね。そうして自分の罪が分かる時、イエス様の救いも身にしみて分かるのです。

<1994.5.10.夜に祈祷会にて話したことを座談風に編集。1994.5.15.週報より>

 

2003/5/18

(「日岡だより」第72号)

本間俊平という人   

 私の尊敬する人物に本間俊平という人がいます。人は秋吉の聖者と呼んだが、神父でもなければ、世捨て人でもない。小なりと言えども、れっきとした実業家でした。山口県秋吉村で大理石の採掘事業をして、製品を東芝などに納めた。その採掘現場に出獄者や非行青少年たちを受入れ、そして彼らの更生を助けたのです。

 それでは、彼を福祉事業家と呼ぼうか。どうも、それもふさわしくない。彼はひとつの型や名称には、はめにくい。彼を何と呼ぶか。彼こそは、クリスチャンである、と言おう。実人生を剛毅に生きたクリスチャンであった。他の何ものでもない。

 本間先生(と私はお呼びする)は、1873年(明治6年)に新潟県の一寒漁村に生まれた。小学校もろくに出ないで、大工の弟子となり、24歳の時クリスチャンとなった。29歳の時、前記のとおり大理石の採掘業を始めると、次第に先生を知る人が多くなった。一般講演や、刑務所やハンセン氏病の方々のための講演、そして著書などで人に知られるようになった。その話し方も文章も型破りで、熱血と気迫、奇抜で、愛の心がみなぎっていた。著書は企業家たちの間によく読まれた。戦後の1948年(昭和23年)、75歳で天に帰られた。

         *

 私の伯父、上田光曦(みつぎ)は、大正の頃、大分師範学校の教師をしていた。その頃、本間先生は時おり、この師範学校に来たらしい。こういう逸話がある。

 先生が何度目の大分来訪か分からないが。そ時、先生は広島から大分港に着いた。校長さんか、教頭さんが迎えに行った。ところで、本間先生が船の中で金の無い青年がいて、先生に訴えるので、だまされていると分かっていたけれど幾分の金を与えた、というのである。「先生、それは問題ではありませんか。そういう人間は味をしめて、ますます人をだます癖がつきはしませんか」。

「ところが、そうではないのですよ。一度、人をだまそうとして失敗すると、今度は失敗しまいと、ますます悪知恵を練って、もっと悪い人間になるんですね」と答えたそうである。

 私の伯父はこれを伝え聞いてびっくりした。こういう人間洞察というか、こういう人もいるものかと、舌を巻いたわけです。

 もっとも、私はこれを教えられて、しばしばホームレスの人に旅費を貸したりして失敗します。決して返してくれません。私には本間先生の真似は出来ないのだなあと、また先生と私とは格が違うわい、と反省するのですが、しかも尚、またそんな人が来ると、同じようにだまされるのです、呵々。

 この伯父は後に外地の師範学校の校長になりますが、よく先生を招いて講演会を開いたようです。戦後、伯父がふと言う、「本間先生もさすが年を取られて、川崎の知った方の家に行かれて住まわれているらしい。川崎は玉川学園に近いから、先生は便利なんだろうね」と言うので、「どうして玉川学園ですか」と聞き返して、玉川学園の創立物語を聞いたのです。

 玉川学園の創立者は小原国芳先生です。小原先生は広島の学校のころ、毎週のように山口の秋吉の本間先生の礼拝に出た。その頃から小原先生は理想の学校を造りたいと念願して、その理想の学校を絵に描いたものです。今、玉川学園の校に立つと、その絵とそっくりの学園の姿を見て多くの人が驚くのです。「あなたの求める所を強烈にあなたの心にイメージせよ、あなたはそれを得るであろう」という成功哲学によくある法則そっくりではありませんか。

 後年、小原さんはいよいよ理想の学園を造る時がきました。しかし、まず土地をどこにしようか。良い土地は資金が高い。値段のやすい所は交通不便で学生も来そうにない。そう迷っていることを聞いて、本間先生が言った。

「相模のほうはどうだ。小田原から東京まで、一直線に線を引くと、このあたりが良いね」
「先生、そこは鉄道が通っていません」
「小原君、そこだ。学校が出来たら、その学校のために鉄道が来るような学校を造るんだよ」

 現在、本間先生の見通しのとおり、小田急線が通って玉川学園前駅が出来ています。

 神に全心全霊、従う人は、神の知恵が満たされるんだなあ、と思いますね。

        *

 三好明という人が書いた本間先生の人物評論が古いキリスト新聞に載っていました。本間先生の積極的な講演や行動をよく伝えています。その文中から以下に抜粋して載せます。

 1930年(昭和5年)、先生は東京周辺で53日間、100回近い講演をした。その中には官学・私学の代表校25校もあり、31回の講演が含まれている。その時、言っている。「今日の教育は人間を見落としている。新知識、新教育と申しながら、人間の偉大さを知らないで、教育している。『人間の尊さは全世界よりも重い』、この千古不磨の大教訓は、星が移り、物が変わっても、動かないのである。

 今日の教育の誤謬は見ゆる国だけを教えて、見えない国を教えないことである。信仰とは何か、この世において見えない真理、まことの勝利を得る道を教えることである。

 見えない国とは神の国である。神の国とは何か、同胞に奉仕し、自分は裸になっても他人の幸福をはかるところにある。そこには、決して不景気もやって来ません。

 学校では、この神の国を教えず、人間を記憶機械と間違えている。教育とは考えることを教えるのが目的であるのに、どれだけ覚えているかを試験してみて、うまく答えた者が秀才だと言われる。これは大きな間違いである。

 滑稽なことは人間の意志を強くするためといって、行軍したり武道をさせたりする。意志の鍛錬とはそんなことで出来るものでは無い。

 命を捨てて深く人を愛する時、初めて強い意志が起こる。他の同胞のため死のうと決心する、ここに意志の世界が生まれる。キリストが人間を愛したほどの愛をもって、深く同胞を愛する時、そこから新しい日本が興るのである」。

 そうした講演をした後、キリストの御名によって堂々と祈祷をささげる。官立の帝国大学でも、なんのはばかることなく、これをやって来た。本間先生の面目躍如たるものがある。

 当時は、軍国主義が日本国内にはびこっていた。ところが、先生は軍部を一向に恐れない。しばしば軍の高官たちの前でも語ったものだ。「軍艦よりも、飛行機よりも、もっと大切なものがある。それは信仰です、云々」。そして、当時の軍人たちにとっては敵国の神であるキリスト、敵国の宗教である聖書の話をするのです。先生は神のほか何も恐れるものがないのです。

 以上が三好明(北星学園大教授)という人が書いた本間先生の人物評であります。戦前の日本のひとりよがりな国家主義の雰囲気を知っている人には、この時の本間先生の勇気が分かります。私は日本のクリスチャンの中で、この本間先生が大好きです。内村先生と同じくらい好きです。<く> 

〔追記〕少年少女信仰偉人伝シリーズの「本間俊平」という本が図書室にあります。このシリーズの他の人のものもお勧めします。少年少女ものは文章が分かりやすいだけに、案外大人の心を打ちます。すぐれたクリスチャンたちの伝記は私たちを励ましてくれます。どうぞお読みください。<く> 

 

2003/5/11

(「日岡だより」第71号)

石原さん、大いに語る   

 私は昨年来、新聞の購読に「産経」を加えた。政治観では私と対極にある新聞だが、論旨がはっきりしていて、読むのにスカッとして気持ちが良い。特に台湾の前総統の李登輝氏の一頁寄稿など、興奮して読んだ。とにかく、「産経」は特に署名入りのコラム欄が良い。昨年連載された元駐タイ大使岡崎久彦氏の日本近代外交史は教えられる所が多かった。

 外交と言えば、先日5月5日の「産経」一頁に載った石原慎太郎氏の「日本よ」だが、これには驚いた。いつもの石原さんの口調を知っている者にとっては、今更驚くことはなかろうが、「やはり石原センセー、都知事選の圧勝で気を良くして遠慮無く言いましたな」と思いましたね。

 その寄稿のなかで書いていたが、かつて外務省の高官と議論したことがあるそうだ。石原さんが、「外交の神髄は徹底したゲーム感覚だ」と言ったら、その高官に、「それは非常に危険な認識で、それに徹すると外交という働きの中から大切な心の問題が外されてしまう」と注意されたという。

 ここで。「この高官の言う心の問題とは、要するに善意とか友情とか言う、いわゆる美しい心づかいのことであろう」、と石原さんは察している。そして石原さんは言うのだ。

 しかし、「外交という国益を踏まえた交渉にとって大切な心づかいに、善意とか友情とか言うのは、それこそ危険な認識である」と石原さんは言うのである。

 特に北朝鮮というようなグロテスクな国家相手に、最初から「善意とか友情とか」の事前認識で交渉に臨んでは、一気に腰投げか巴投げを食ってしまう。(ここの傍線は石原さんの文章ではなく私の文章だが、みなさん、巴投げって何か知っていますか)。もちろん「善意とか友情」らしきものを見せかけて有利に向こうさんをこちらの土俵に引っ張り込むのは良い手である。つまり、そういうポーカー・ゲームのようなしたたかさが必要だというのだ。ちなみに、石原さんは「自分はポーカーが好きだ」と言っている。まるで「外交は俺に任せろ」と言っているみたいだ。

 つまり政治家というものは、ただ正直なだけで手練手管の一つも使えない者はだめだぞ、と言っているわけだ。まるで正面切ってのマキアヴェリズムの奨めなののだが、ここまで、踏み込んで言うのは偉いですよ。

 そう言えば、かつてのアメリカ大統領カーターさんは、今のブッシュ氏とは違って本物のクリスチャンだったと思う。そこから来る人柄もあって、その上、彼の責任ではない救出作戦の失敗なども重なり、一時は「弱虫カーター」と酷評されたこともあった。しかし現在、ボランティアで平和特使として、どこへで出かけて行って実績をあげているではないか。(私は日本国天皇がクリスチャンになって世界諸国に平和特使となって出かけてくださる夢を抱いている)。

          *

 以上に紹介した石原さんの主張は結構説得力を持っていると思う。政治とはそういうものなんだと、うなづく人もあろう。しかし、私は疑問に思う。そんなことでよいのだろうか。これは国際政治というもの知らない書生っぽの議論かもしれないが。

 アメリカで言うなら、かってのリンカーンという人は果たして、この石原理論に賛成するであろうか。仮に、彼がしぶしぶ敵も味方も仰天するような汚い交渉をしたことがあったとしても、それを彼は悔みこそすれ、自慢はしなかっただろうと思う。敵の将軍を無闇に悪口する部下をリンカーンがたしなめて、並いる高官たちを唖然とさせたという実話もあったように思う。

 日本でいうなら、あの西郷隆盛さん、そういう腹黒い手を使うことがあっただろうか。勝海舟の西郷評を読むと、そういうことは、まずなかっただろうと思う。

 私はよく引用するが、ロマン・ローランが「ガンジーは政治に宗教を持ちこんだ歴史上唯一の人である」と言ったことがある。ガンジーが大衆闘争を起こそうとする時、英国総督府はスパイを放つ必要は全然なかったという。すべて事前に闘争スケジュールは公開されていたからでる。こういう政治の流儀は、政治にしろうとのガンジーならこそ出来たのだと言う人もあろうが、しかし、しろうと言えどガンジーはそんなに常識のない、愚鈍な人ではなかったはずだ。

 彼の運動は「無抵抗主義」と言われているが、それは違うと彼は言う。「私はけっして無抵抗なのではない。私は暴力をもってする抵抗はしないと言っているだけだ。時々、人は『卑怯者は暴力が怖いから無暴力抵抗などということを言うのだ』とせせら嗤う。しかし、私は卑怯のゆえに無暴力であるよりは、真理の敵と戦うためには銃も取るつもりだ。しかし。私は知っている、暴力は結局、暴力に勝たない。暴力に勝ったように一時は見えても、結局は悪魔にだまされ、また悪魔に負けるのである」と。

 話題をちょっと小さい世界に移すが、たとえば大分県の県政について。私は大分県や大分市は戦後、良い首長に恵まれて幸いだったと思う。大分県では木下郁さん、後を追って立木勝さん、「一村一品」の平松守彦さん。大分市では前記の後の県知事の木下さん、アイデア市長の上田保さん、安東さん等々。皆さん、潔癖で悪い噂もなかった。

 とは言え、私の最も親しくしていただいた立木さんは、子分が汚職めいたことで失敗しても、これをかばうことはしなかった。子分だろうと、なんだろうと悪いことは悪いのであるという姿勢なのだ。こういう人柄では子分はできない。こういう点、木下郁さんやはり、しっかり守ってやっただろうと思う。平松さんがどうであったかは知らないが。

 要するに、きれいな水には魚は棲まないという。政治の世界はキレイごとやって行けない。少なくとも、準マキヴェアリズムで行こうじゃないか。これが常識であろう。

 なるほど、政治や経済の世界であくまでキレイにやって行くには、ただならぬ知恵と勇気がいるだろう。

 そうだ、神の力が必要だ。徹底した福音の力が必要だ。私の伯父釘宮徳太郎はそういう人だった。彼は正義の神を信じて悪人に立ち向かう時、怖いものはなかった。弁も達者だったし、いかつい顔もして見せた。仁王さんも裸足で逃げだすような人だ。その人が少年のような無垢な顔をして難しい相手との折衝にのぞんだものだと言う。そしてしばしば難問を一夜で解決させ、大きなプロジェクトを完成させたのである。こういう実戦的福音主義と言うべき腕前が要るのである。

 (以上は5月5日に書いたのだが、2日して5月7日の夜、テレビで古館というアナウンサーの対談番組に石原慎太郎氏が出ていた。その応答発言が面白かった。何よりも素直で正直だ。私はその無邪気な笑顔に惚れこんでしまった。)<く> 

 

近日雑感   

 最近インターネットで、ある種の電話を使うと、電話料が大変安いのだと聞いたことがある。私はパソコン音痴で、その意味は一向に分からないのだが、そのタイプの電話同士では電話料はタダになるのだという。「そーんな、バカな」と思うけれど、本当らしい。妙な時代になったものだ。

 先日、ロンドンからメールが入った。ある方がインターネットで、この教会のホームページを見たという。そして「テレホン聖書」や「ワッハッハの電話」のことも知って、それをできるだけ毎日聞いているという。先日は気落ちすることがあって、私のホームページを読んですっかり元気を取り戻したという。そこで、私の小冊子、「笑えばかならず幸福になる」と、「だれでも出来る『精神強化法』」を送ってくださいとおっしゃる。嬉しいです。こうして、

 いよいよインターネット教会が出来そうな時代になりつつあります。これは、かつてのラジオ伝道や、現在のテレビ伝道というのと違う。今までのテレホン伝道とも違う。インターネットを用いるサークルが出来る時代になっている。入会、脱会は自由にならざるを得ない。義理や顔で脱会出来ないという拘束力がない。逆に人目が気になって入会しにくいということもない。まったく自由な入会、脱会。だから考えようによっては、非常に脆弱、しかし、結束が固ければ無類に固い教会が出来る。イベントやおまけで人を釣る、そういう集会形成はできない。本当に魅力ある説教が、そう、話術ではない、真に力ある福音が必要なのだ。

          *

 最近は、私は「ヤベツの祈り」にのぼっています。本は10冊ほど出ていますが、どれも800円くらいで安いし、薄いので読みやすい。気軽に読めそうなので、私はちょっと寝転んで、飛ばし飛ばし読んでいたら、あまりアタマに入らない。また、何冊も買ってきたものだから、あれを読み、これを読みで、落ちつかない。なんだか、ピンとこなくなっていた。

 その時、A姉がウイルキンソン先生のメッセージの録画ビデオ、4巻をプレゼントしてくださった。これを見て、聞いて、本当に良かったです。「ヤベツの祈り」の良さと、深い意味と、実行する意志欲を湧かせてくれました。

 本を読んで、ビデオを見る。ビデオを見て、また本を読む。これを繰り返すと良いようですね。私はまだ始めたばかりですが、そこへ、前述のロンドンの女性からメールなのだ。ご覧なさい。「私の地堺が広がった」ではないか。

 私はますます元気になって、声一杯に感謝。寝ても起きても「感謝とワッハッハハ」。食前には「ワッハッハハ」と笑って感謝をし、毎食を食べます。そのおかげもありましょう、神様に大いに恵まれて、81歳とは思えない元気さです。ともあれ、「ヤベツの祈り」の祝福に感謝しています。

          *

 手塚正昭先生の「ヨシュア記連続説教集」をもう一度、取り出して読んでいます。「ヨシュア記」はなるほど、「ヤベツの祈り」の実践書みたいです。イスラエル民族にとって、ヨシュアにとって、カレプにとって、カナンは約束の地堺の地です。神様の強力な誤りなき約束の土地ですが、それを奪い取るのは彼らの手によるのです。棚ボタ式に口のなかに落ちてはきません。「彼らは鉄の戦車を持っていて、私たちはこれを奪うことが出来ません」と泣き言をいう部族もいます。この連中を励まし、敵に向かわせるヨシュアも大変です。

 しかし「私は年を取りましたが、まだ元気です。あの土地をください。今から取りに行きます」と戦いに出てゆく若い時からの同志のカレプもいるのです。

          *

 今日は私は四国の北条に行っています。秋山さんに頼まれて「信仰の進歩と聖霊の働き」について説教します。信仰と聖霊様の相関関係について話したいと思っています。この要(かなめ)となるのは、言葉です。このテーマについて、今ちょうどテレホン聖書で毎日短いメッセージを続けています。「ワッハッハ元気が出る電話」と併せてお聞きください。<く>

 

2003/5/4

(「日岡だより」第70号)

祈りは聴かれる   

一、祈りは聴かれる     

 1950(昭和25)年頃だったと思うのですが、キリスト新聞社から「祈りは聴かれる」という新書版の小さい本が出ました。その中に私の「父は帰る」という証しも載っていました。

 当時、キリスト新聞社の社長は賀川豊彦先生、実際は武藤富男氏が取り仕切っていました。この武藤さんが、あるアメリカの「祈りは聴かれた」という証しの文集を読んで感動し、また慨嘆したのです。「日本のクリスチャンの間には、どうもこういう信仰の証しが少ないように思う。しかし待てよ。本当は日本にもアメリカに負けないような信仰の証しがあるのではないか」。

 そこで、自分の新聞に書いたのです。「日本の読者の皆さん、『祈りは聴かれた』という信仰の証しを寄越してくれませんか」。その記事を見て私は興奮しました。早速、次の日曜日の礼拝に私はその新聞を持って行って、信者諸君に訴えました。「みなさん、私たち、この教会からも、この新聞に記事を送ることができるような奇蹟を体験しようではありませんか」。

 ところが、その説教を聞いていた、まだ求道中だったI君が下宿に帰ってみたら、その家のお父さんが昨夜から家出をして行方不明というのです。「あ、これだ。奇蹟がおこるぞ」とI君は単純に、そう思ったらしいのです。

 お父さんを思う心配で泣いている、その家の娘さんを連れて、I君は私の所に来たのです。娘さんは言う、「父はどの方角に居るのでしょうか」。失せ物の方角を占う拝み屋さんと同じ様に私を見ているのです。私は言いました。

 「さあ、お父さんの行く先はわかりませんがね、しかし、お父さんが帰ってくればよいでしょ?」「はい、それはもう、そのとおりです」

 私はすぐさま、彼女を前において祈り始めました。信仰のシの字も知らない彼女もひざまずいて、私の祈りを聞いている。その区切り区切りで私は彼女に言った。「さあ、私と一緒にアーメンと言いなさい。アーメンというのは、そのとおりですという、あなたの神様への誓いの言葉です」。彼女はすなおに「アーメン」と言ったものです。そしてI君と彼女を帰した。

 さあ、そのあと私は大変です。大胆に、ああは言ったものの、実際はどうなるのか。私は徹夜して神様に祈りました。

 翌日、I君と彼女が飛び込んできた。「父が帰りました。ありがとうございました。父は小倉駅まで行っていたそうです。そして先生が祈ってくださった、ちょうどあの時間です。小倉駅で、やっぱり家に帰ろうと心にきめて、早速、汽車に乗って帰ってきたと言うのです」。

 私はそれを聞いて、嬉しいというより、緊張が解けてへたへたと座りこみそうになったものです。これは、私が奇蹟的体験をした最初の出来事だったと思います。

 

二、「まず、祈ってみよう」     

 「まず、祈ってみよう」、これは平野耕一先生の新書版の本の題名です。実は先日の5月1日にライフセンターで買った本です。平野先生の名前は「ヤベツの祈り」で心得ていましたから、つい「平野先生の本なら」と気軽に買ったのですが、これが良かった! ところで、ちょっと脇道に……。

 「ヤベツの祈り」は凄い本です。先日、祈祷会で、「みなさん、『ヤベツの祈り』を祈っていますか」と聞いたら、祈っている人は一人しかいません。私の宣伝が足りなかった、と反省しました。イラク戦争以来、「戦争と平和」の難しい説教ばかりして、「ヤベツの祈り」のお勧めは一言もしなかったということでしょうか。失敗でした。

 本家のウイルキンソンさんの本より、平野先生のほうが、初めて読む人には良いように思います、いま「ヤベツの祈り」関係の本が7、8冊は出ていると思います。「ヤベツの祈り」をどんどん読んでください。

 さて「まず、祈ってみよう」という、平野耕一先生の本のことです。びっくりしました。これはまた良い本です。凄いです。

 実は、前述した私の「父は帰る」にしても、又その「祈りは聴かれる」という本に載っている他の方々の証し十数篇にしても、どれも、なんとなく一生に一度しかしないような貴重な経験という口ぶりで、そこが残念なのです。もっと何度も経験しないものでしょうか。

 平野先生の「まず、祈ってみよう」ですが、そこでも各自ひとりひとりには一生にただ一度というような経験だったでしょうが、そうした信者さんの奇蹟的経験にかかわる平野先生にとっては、まさに連続的です。これが私の「凄いなあ」と思った理由です。「うらやましいなあ」とも思いましたよ。私もそうありたいです。

 その中の一例を次にあげましょう。

 

三、手術の直前、癌が癒された?     

 佐々木さんという女性の方です。鼻に癌が出来ました。精密検査の結果、早めに手術しようという医師団の結論でした。彼女は手術を3か月延ばしてくださいとお願いしました。手術しなくても、神様がかならず癒して下さるという確信を祈りを通して与えられていたからです。

 担当医の先生は困惑して言いました。「診断したからには、こちらにも責任があります。自然に良くなるということは絶対にありません。放っておいたらますます大きくなりますよ」。

 しかし、彼女は医師に食い下がって、検査を何度か繰り返すことを条件に、手術を2か月のばすことで承知して貰いました。

 手術の日が来ました。手術直前の精密検査が行われた結果、やはり手術をするとの最終決断が下されました(!)。彼女が手術の準備のための血液検査を受けている時、担当医が彼女を手招きします。行ってみると、「2人の医師がもう一度診察したいと言う、診察室に入ってほしい」とのことでした。

 そして再診の結果、「手術は今すぐでなくて良いですよ」と言うのです。彼女は驚いて思わず、「えっ、手術しなくてもよいとおっしゃいましたか」と聞き返したそうです。

 家に帰って、そのことを報告すると、ご主人もご両親も「奇蹟だよ、神様のおかげだね。あんたが信じている神様が、きっと護ってくださったのだね」と言ってくれたそうです。

 その後、医師は何事もなかったかのように、「次は6か月後の診察で良いですよ。何の支障もなければ、手術は必要ありません」と言いました。腫瘍はすっかり消えていました。

 こうした実例は、実は他にもあります。松山の万代先生の教会でしたが、ある土建会社の社長さんだったと覚えています。この方はクリスチャンではありません。ですが、奥さんと娘さんが教会で熱心な信者さんでした。このお2人が手術の前日に徹夜で「おとうさんの癌を取り去ってください」と祈りました。翌日、その社長さんの手術をしようとする準備の時、レントゲンで癌の病巣が全然無くなっていたのです。もちろん手術中止です。

 当教会の似た例では、S姉の腎臓結石でした。手術の前日、私と他の姉妹と2人で病院に行って祈りました。なんと、翌日には結石が全然無くなっていました。神様に賛美! (03.5.3)

 

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