キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報とともに毎週発行する「日岡だより」)

2004年7月

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2004/7/25

(「日岡だより」第134号)

平和憲法を護ろう    

 例年、今頃になると、キリスト教関係の新聞から「8・15特集名刺広告」の申入れが来る。私は必ず応じる。そして、原稿に「平和憲法を護ろう」と入れることにしている。

 時代が変化してくると、こうした平和アッピールは色あせて見えてくる。国を護るためには軍備も必要だ。あの平和憲法は終戦直後、占領軍の言うがまま、仕方なく作った条文に過ぎない、あれは国辱ものだと言う人は多い。

 私はその作られたいきさつに異説があることを知っているが、ともあれ、あの憲法が日本に与えられたことは、正に神様の恵みだったと思う。あのような憲法は歴史上、世界無比、後世に向かって大いに誇ってよいことであるから。

 滔々として世情が軍備国家賛成に傾く時、私のような平和論者は「頭のヨワイ理想主義者、世間を知らないトンマな奴、売国奴、流行遅れの空想家」などと批判され、いつしか、日陰者にされてしまう。そういう時、「平和憲法を護ろう」などという提言は風にさらされ、ちぎれて舞ってゆくチラシ紙のように哀れなものになってしまうだろう。

 それでも、私は「平和憲法を護ろう」と声を高く語りたいと思う。まさか、大東亜戦争中のような暴虐な時代は来ないだろうと思うけれど、それでも安心は出来ない。一体に日本人は流行に弱い。一億一心、世間の動向が一斉にドッと変わる。「バスに乗り遅れるな」という言葉が世間を風靡したことがある。これらの言葉を覚えている人は、もう日本に数少ないであろう。

          *

 「平和憲法を護ろう」などという言葉は怖くて言えないというほどではないにしても、恥ずかしくて言えないという時代は来そうだ。そういう時代になっても「それでも、平和憲法は正しい」と言おう。言い続けたい。それが私の思いである。これは本当はそれほど難しい事ではない。英雄や豪傑や信念居士でなくてもできる。

 たとえば、外の国から攻撃され、一般国民が生命を犯され、国土が侵略されて行くときに、止むを得なく国家、政府、国会がそれを選択すれば、一箇の国民がいくら平和主義の信念を持っていても、到底、戦争を阻止出来ないだろう。しかし、その時でも、「それでも戦争は悪だ」と言うことはできる。言いつのることさえできる。

 新聞や公開の講壇から、街角や駅頭で言うことはできなくても、家の中で言うことができる。友人の前で言うことはできる。まして教会で言うことはできる。牧師は説教の中でそれを言うことは当然可能であり、また責任であろう。

 「障子に目あり、壁に耳あり」で、部屋の中でこっそり言うだけでも、いやそれを聞くだけでもドキッとして肝を冷すような恐怖時代はさすがにもう日本には来ないと思う。今、北朝鮮ではそういう恐怖政治が国土を覆うていると思うが、そういう国民意識の重苦しさは、もう今の日本人は忘れ去っている。しかし、私はけっして忘れない。身に染みている。

 さて、国家が戦争を始める時。また遂行している時、国内の平和論者、非戦主義者を野放しにしておけるのは、その戦争がいわゆる「正義の戦争」である時です。日露戦争の始まる前、内村鑑三が検束されなかったのは、その良い例です。戦争が始まったら内村先生は自分から黙ってしまった。先生の気持ちは分からないではないが、ただ残念に思う。

          *

 先日、アメリカの国務副長官の某氏が「日本の憲法九条は日米同盟関係の妨げになる」と発言、かつ「国連安全保障理事会常任理事国入りも難しい」と言っていた。恫喝とまでは言わないが、嫌がらせである。しかし、日本の徳川時代にたとえれば、外様大名みたいな日本という国、アメリカに対して如何に対処するか、政治家たちの苦衷は察し得る。いや、一向苦衷を感じない御仁もおられるだろうが。

 しかし日本は一応の独立国家であるから、そして負けたにしても一度はアメリカに立ち向かって優位を誇った(?)時もあった日本ではないか。あの戦争は歴史に残る壮大な戦争であったと思う。ルーズベルトに騙されて始めたバカな戦争であるという説もあるが、それにしても高村光太郎あたり一流の文化人たちが一様に諸手をあげて喝采した戦争ではないか。

 太平洋戦争はともかく、大東亜戦争については私はまったく孤独な反対者であったが、しかしあの戦争で東洋諸国が白人国家による植民地化から解放された事実を認めるには、やぶさかでない。私はこれを日本の誇りとすることには少々後ろめたさを覚えるが、そのかつての植民地が次々解放された事実はすばらしいと思う。けっして疑念を持っていない。

 アメリカの国務副長官ごときが、なんと言おうと、日本は自信を持とう。これは政治的にも言えることだが、また人類の基本的意志として、これを言いたい。日本が建前として提唱した大東亜の解放は事実として成功しているのだ。現実には日本は世界最初の原爆を受けて敗れはしたが、誇ってもよいのではないか。

 聖書に「なんじ殺すなかれ」とある。万古不易の人類の徳目である。たとえ国が法律で「死刑」をきめても、戦争をおっぱじめても、「なんじ殺すなかれ」と唱えるのに遠慮はいらない。

 同様に如何なる時代が来ても、「平和憲法を護ろう」と語ることに遠慮はすまい。又、遠慮してはならない、かように思うのである。<く>

〔あとがき〕
★日本教会新報社発行「解説 イエス・キリスト」をお奨めします。単なるイエス伝ではない。創世記から黙示録にいたるまで、聖書はイエス・キリストを語る。そのイエス様のたとえ話。イエス様の教え。イエス様の奇蹟。イエス様に会った人々。様々な角度でイエス・キリストを語る。美しい図版も多い。2205円
★過日(7月17日〜20日)、東京、神奈川に行って来ました。秋川集会では久しぶりに赤坂一家、滝沢兄と典子さんに会えて感謝でした。しかし随分、集会も小規模になったので、再編を望むや切です。今後の祈りの課題です。
★八王子の野上家を問安。折から正子姉の強烈な発作で30分ほど祈る。悪霊の除去を命じる。腹部の痛みや呼吸困難が去ってホッとする。なかなか安心できない厄介な症状だが、徹底的な癒しを祈りつづけたい。
★7月19日、相模大野教会にて日本とりなし委員会があるので、初めて列席させて頂く。皆川尚一牧師の司会と議題説明に教えられることが多かった。また政治、経済、金融関係の参考資料に目を奪われた。昔は新聞を読まない純粋派の牧師さんが居たが、今はそういうわけには行かない。イエス様だってシロアムの塔の倒壊事件は知っていた。この集会は小人数ではあったが、長時間をかけて、談論風発、学生時代に戻った気分で楽しく過ごした。
★右、とりなしの課題は、(1)今回の参議院選挙で自民党が公明党に借りを作った危険性について神様の善導を祈ろう。(2)天皇陛下がイエス様にあって救われ、世界の祝福の基となられるように。(3)キリスト教界の不一致、反目を廃し、各教会間に悔い改めと和解を。(4)キリスト教文書出版の進展を。(5)日本の教育制度の健全化、チャーチスクールの開発、展開を。(6)日本の家族制度の健全化、少子化問題の解消を。(7)北朝鮮の拉致問題の早急解決を。(8)テレビ、新聞、雑誌等の報道の正しい規制、監視を。(9)イスラエルの平和のため祈ろう、等。
★閉会後、投宿先の品川のホテルに向かうため、同席の町田兄が電車を案内してくださる。電車の中で、同兄が按手祈祷してくださったが、品川駅でおりると、あの駅は階段が広くて私は少々足元が危なくなるのだが、町田兄の祈祷の結果だろう、しっかりした足取りで階段を上った、さすがに二段跳びはできなかったが。
★7月22日、古林三樹也先生が見えられました。当分、当教会に滞在、「釘宮牧師随筆集」編集のためです。感謝です。先生、どうぞ大分をエンジョイして下さい。<く>

2004/7/18

(「日岡だより」第133号)

死と生と    

 過日7月12日は私の親友荒巻保行君の63年の命日でした、彼を抜きにして私の人生は語れない。

 私は戦前の旧制の大分商業学校を卒業した。進学はしなかった。今の高校卒業生よりも就学年限は少ない。しかし、私はこの学歴を気にしたことはない。第一、旧制商業学校を出て牧師をしているなんて、すばらしいと思う。

 この学生時代、私には3人の親友がいた。先年、その一人の榊久雄君が亡くなった。彼が死んで4人組の生き残りは私一人になった。4人組というのは、この榊君と先にあげた荒巻保行君と安部勝美君である。皆、死んでしまった。

 

 死と言えば、私のことをちょっと書いて置きたい。私は生まれた時、「この赤ちゃんは難病です。3か月と持たないでしょう」、と医師に言われたという。父は断食と徹夜をして「この子の命を救ってください」と祈った。そして私は奇蹟的に癒された。

 20歳の時には、後述するが、軍隊の召集を避けようと自殺を計って失敗した。これは恥ずかしかったが、しかし、命を救えたことを神様に感謝する。

 40数歳の頃、ひどい喘息の発作を起こした。この時は実に命は危なかったと思う。医者は一時、医療を放擲さえした。新日鉄の工場から出る粉塵が原因だと医者は言ったが。

 60歳の時、教会の礼拝で、最後の祈祷の時、心筋梗塞で倒れた。祈祷の最中、肺臓の組織が粉々になって口から空中に舞い散ってゆく感じだった。礼拝の中で死ぬことは本望だと思って、非常に平静だった。

 こうして私は20年ごとに死の危険に襲われてきたわけだが、現在82歳。20年たったが、今死ぬ気配はない。非常に元気である。体も元気だが、気分はそれ以上に元気である。モーセほどの余命の自信はないが、出来るだけ神様のため、生き抜きたいと思う。

          *

 さて、私の4人組の旧友は、榊君を除いて、他の2人は早く死んだ。真っ先にあげるべきは荒巻君であるが、この人こそ私を信仰に追いやるきっかけになる。荒巻君は今、思うと天才である。彼は彼の哲学的結論にしたがって自殺したのだが、自殺と言えばこんなことがあった。

 私たちがまだ学生のころ、多分16歳のころかと思うが、もう一人の友、安部君が荒巻君に電話して、「釘宮が自殺した」と報じた。彼と彼のお父さんがびっくりして私の家に駈けつけてきた。来て見れば私はケロリとしている。

 ちょうど4月1日だった。安部が言う、「エイプリル・フールなんだ」。お父さんは怒って帰ったが、荒巻はがっくりとして家に帰った。

 昨年、弟さんの古後俊彦さんに会った時、言っていた。「あの時、兄貴は言いましたよ。釘宮はそれ(自殺)をやりかねないんだよ」と。

 ともかく安部君には、そういう突飛なことをする所があった。そして、その彼は彼で早く死んだのである。私が非戦主義の故に軍隊応召を避けて自殺しかけ発見された時、憲兵隊は私の友人関係として、すでに応召していた安部君を取り調べようとした。彼は憲兵の追及から身をかわそうとして、特殊工作隊員を志願する。

 事実、彼はスパイ並の特殊工作隊員になるには打ってつけの男であった。大胆で、機転がきいて、外国語がブロークンだがうまい、そして柔道二段である。その上、ともかく人に信頼され、頼もしがられる男であった。

 後に彼はフィリピン戦線におもむき山下大将直属の工作員となって、いずこの戦線でか戦死する。彼はフィリピンに赴任する時、福岡空港から背広を来て、たった一人で軍用機に乗って行ったのだという。その時、時問を縫って刑務所の私に面会にきたが、果たせなかったそうだ。私はその事を後に彼の父君より聞いた。

        *

 実は荒巻保行君の死は、その安部君の応召のずっと前のことである。彼は私の「荒巻死す」の電報に驚いて急遽、飛行機で日本内地に帰って来たのである。荒巻の葬儀のあとで、荒巻君の父君が号泣した。安部君と私はいたたまれず顔を伏せた。

 荒巻君の死は19歳の初夏だった。彼の日記や、彼が弟さんに残した当時の手紙を見ると、19歳の若さとは思えない、周到な哲学的理解力と徹底した自己追及がある。

 当時の文学者たちのことを「一旦世代が平和になったら、すぐに平和論をぶつだろう」などと言っている。戦時下の当時、そんな洞察をした人間が一人でもいただろうか。

 「まず生きることが大事。生きることを善と肯定した上で、まず生きねばならない」というような基盤から、人生肯定論を始める哲学や宗教を彼は一蹴した。生長の家や、今で言えば幸福の科学のような宗教、創価学会もその範疇にはいるだろうか。ロマン・ロランや武者小路実篤のような人間万歳主義、そういった思想家を些かも信用しなかった。

 ともあれ、彼の罪意識たるや、哲学的に言っても尋常なものではなかった。その深刻な罪意識は私を驚倒させ、困惑させ、同じような罪意識に引きずり込まれることになったのである。

 彼は言う。「生存は罪である」。そして言う、「私が今死んだからとて、罪を消すことは出来ない。しかし、私は一刻も早く、私の罪の生涯にピリオドを打ちたいだけなのだ」。

 そのように、私への遺書である小さなノートに書き残して死んでいった。これが私の信仰を求めはじめた発端である。

          *

 私はクリスチャンの家に生まれ、育ち、いささか聖書を勉強していたのに、彼の苦悩を察知できなくて、彼の罪意識の解決の手助けを何一つできず、むざむざと彼を死に追いやったことに苦しんだ。そして又、当然、私自身の罪を解決できないことに苦しみ悶えた。それは荒巻君の死によって始まり、22歳まで続いた。

 当時の私を信仰的に励まし、導いてくれたのは石原兵永という人が書いた「回心記」という本と、原田美実という人の個人雑誌「基督」、その29号であった。

 繰り返すが、荒巻君の死は昭和16年、1941年7月12日、それから私は悶々として日を過ごすが、1943年8月、軍隊への召集がきて、私は非戦主義の故に自殺をはかる。ところが恥ずかしいことに、自殺薬が多すぎたのか、吐いて失敗する。そして、兵役法違反、出版言論取締令違反で刑務所に送られる。昭和19年、1944年のことである。

 その年の11月20日だったかと思うが、私は全く神に捨てられて魂が絶滅する体験をする。独房の床の板が裂けて下から地獄の火がメラメラと燃え上がって来る。その奈落の底に落ちて行く私自身の姿が見えた。

 「ああ、私は生まれなかった方がよかったのだ」、とイエス様がイスカリオテのユダに言った言葉とそっくりの言葉を、私は自分に言った。

 3日たって11月23日、当時は新嘗祭という祝日、刑務所では免業日(公休日)である。

 その日の午後5時頃、突然、私は聖書の言葉、第二コリント5:14の「一人の人が、すべての人のために死んだので、すべての人は死んだのである」という言葉を私の心に聞く。

 私はその瞬間、古い私が死んでしまったことを知った。古い古い私はもう死んでいる、私は新しくなった。驚くべき平安が私を包んだ。

 私は神の祝福の幕屋に這入ったことを知った。それは超自然的経験だった。私は私の救いを確信した。即座に、私の口から歌が生まれた、

「愁いある獄にしあれど主によりて活かさるる身の幸にわが酔う」
「イエス君の熱き血潮の今もなお、溢るる思い、わが身にぞすれ」

 60年たった今も、その平安が私のうちに生きている。これが私の回心だった。<く>

   

2004/7/11

(「日岡だより」第132号)

「異端なんかじゃありませんよ」    

 先々週の「日岡だより」で、こんなことを書きました。「どうも私の基本的認識が日本では異端らしい。あの3人の向こう見ずかもしれないが、若者らしい勇気ある行動をどうして非難するのか、私にはさっぱり理解できません」。松原さんという方からメールがはいりました。

 先生、異端なんかじゃありませんよ。わたしの学校の高校生たちで3人を非難する人なんて一人もいませんよ。捜せば、いるのかも知れませんが、圧倒的大多数は3人の行動を称賛しています。教会の若い人もそうです。
 わたしは3人のおかげで、今の 若者を見る目が変わりました。ああいう若者がいる限り、まだ日本は捨てたものじゃありません。それから、小泉さんにイラク派兵反対の署名を渡そうとした女子高生もいましたね。
 彼らのような若者こそ日本の至宝です。文部科学省や教育関係者が、国際理解だ、心の教育だと言うんだったら、むしろ、3人の若者のあとに続け、と檄を飛ばすような教育をせよ、と現場に指示すべきです。
          *
 幕末維新期、一途で向こう見ずな若者たち、いや訂正します、憂国の志士たちがあれだけいなかったら、西欧列強の植民地、良くても清朝末期の中国のような半植民地になっていたでしょう。
 松蔭も晋作も、それからあまたの名もない志士たちも、当時の頑迷固陋な識者からは、あの3人と同じように無謀で非常識だと非難されていたじゃないですか。
 でも今から考えれば、彼らこそ日本の大恩人です。あの3人の方も、それから今回イラクで殉職された2人のジャーナリストの方たちも、今の時代が歴史として語られるようになる時、うーん、今から百年くらい後でしょうか。
 その頃には、世界を思う大義のために身命を賭した「志士」として、幕末維新期のそれと同じような評価をされているものと信じます。

 以上の松原さんのメールで、私はどれほど元気づけられたことか、そして現代の若者たちの現状を知らず、固陋な慨嘆居士になってしまっていたことに気づき、目を覚ましたことです。

 

「笑え、信ぜよ、基本を守れ」    

 先週の日曜日の夕刻、見るともなくテレビを見ていたら、「ワッハッハハ」と数人の人たちが揃って哄笑している場面があった。

 「おや」と思って見ていると、それは中国の上海にある「がん学校」の一風景だという。この学校では、癌患者の人たちが、癌を癒して克服する生き方を3週間学んで家に帰って行くのだという。その卒業生たちの同窓会のパーティが写されているのであった。

 興味を持って見ていると、指導者らしい人が出てきて、「さあ、これからも完全に癌に勝利するまで家庭で頑張りましょう」とでも言っていたのであろうか。最後の注意を与えている。それは、こうである。

 「大いに笑うこと。そして癌が治ることを信じること。基本をしっかり守ること。この3つが成功の秘訣です」。(実は、この最後の「基本を云々」という所は、終わりのほうがはっきり聞こえないまま、番組が終わった。翌日この番組のビデオをキイ局のTBSに求めたけれど、今はそういうサービスはしていないということだった)。

 もう一つ大事なことは「群体抗癌」という言葉だった。よく集まって群れを作り、大いに笑って癌に打ち勝とうということらしい。

 この番組は非常に印象的だった。私たちの信仰生活を強化し確立してゆくために、私がいつも強く信徒諸兄姉に提唱している方法と全く似ているのである。

 私の言葉で信仰的に言いなおせば、こうなる。「大いに笑いましょう。神様の力を信じましょう、そして聖書の教えをしっかり守りましょう。みんな、よく集まりましょう」と。

          *

 あとでインターネットで調べてみると、それは上海にある学校であった。本当の名前は中国語でむつかしいが、とにかく学校を標榜している。病院でも治療所でもなく、学校というのが意味が深い。癌という難しい病気をなおすには、単に受動的に治療を受けるのではなく、自分で積極的に癌を治す原則を学びなさいと言うのであろう。

 インターネットの資料は当然中国語で、日本語に自動翻訳されるのだが、どうも読みにくい。しかし、おおよその事は分かった。この癌を治癒し、健康を回復する方法論を創始した人物、校長さんだろうか、語っている。

 「通常の医学で治療を受けつつ、癌が治った人たちと、治らなかった人たちとを調べてみると、きわだった差があった野です。

 治った人たちは、癌という病気を背負っていても、めげないで、愉快で、癒されるという希望を持っていて、積極的である。

 治らなかった人たちは、癌になったことにおびえ、失望し、いじけて、なんの希望も持たず、不服ばかり言っていた。

 そこで、私は考えた。明るく大胆に確信をもって生きる生き方を学校で3週間教えて、それを家庭に帰ってからも忠実に守って貰う、3年でも5年でも、気落ちせず、がんばってほしい。そのための基礎を教えたのです」。

 とは言え、この先生のやり方は決して精神論だけでなく、西洋医学も併用、中国らしく漢方や、気功法まで採用して、かつ「ワッハッハハ」と大いに笑うことを推奨する。私は興味深く、大いに参考になった。

 そうか、私も大いに笑いのミニストリーを拡大したい。気功法が良いなら。私は聖書的瞑想法をもっと研究して実践に努めよう、そんなことを考えたことでした。<く>

 

土地ものがたり

 大分市今津留にありましたフルゴスペル大分教会はこのたび広い土地を恵まれて、会堂建築を終わりました。この19日に献堂式を行うそうでご案内を受けました。
 私は残念ながら関東方面に出張中で参席できませんが、同教会のご祝福を祈りたいと思います。敷地は七百坪と聞きましたが、場所は日出町の厚生年金会館の手前です。 場所を知っている方は、「どうしてそんな所に?」と疑問に思われるでしょうが、この都会を離れた広々した土地に建てられた新会堂の前途を祝したいと思います。
 私はかって高崎山裏の一万坪の土地を信用金庫の支店長からほのめかされて決断がつかず、そのまま見送ったことがあります。今に至るまで痛恨事です。<く>

 

2004/7/4

(「日岡だより」第131号)

「イラクを愛します」   

 イラクで人質になり、ついに斬首という無残な形で殺害された韓国の金鮮一さんの遺体が故国に帰ってきました。その亡骸を埋葬するにあたり、永訣式が6月30日に故郷の釜山(プサン)で行われました。席上、お兄さんが「和解と許し」のメッセージとして次のように朗読したそうであります。

          *

 「遠い異国の地、イラクから届いた悲痛な知らせに、兄弟は夜通し泣き叫び、両親は何度も気を失いました。鮮一が拉致され、死に至るまでの過程が伝えられると、肌をちぎり取るような悲しみは、抑えきれない怒りへと変わっていきました。家族の怒りが鮮一の無念の死に少しでも慰めになると思ったのです。

 しかし、鮮一は死んだのではありません。永遠に私たちの傍を離れたのではありません。私たちの前に、死ぬことなく残された鮮一の夢がありました。命が脅かされることがあっても、永遠に抱こうとした、愛しようとしたイラクがあったのです。

 

 そのはかない命をささげてまで守ろうとした鮮一の夢を知った時、怒りや悲しみだけでは鮮一の心を語れないのだということを知りました。私たちの怒りも消えはじめました。

 鮮一が死ぬその寸前まであなた方を愛したように、その愛でもって私たちはあなた方を許します。そして、今回の事を見守った私たち全員が、あなた方とあなた方の国、イラクを愛することが鮮一の夢であったことを、今この時間、鮮一に代わってあなた方に伝えたいと思います。

 韓国がイラクを愛しているということ、世界がイラクを愛しているということ、そして、私たち全員が一つになって、互いに愛し合うことの中に、鮮一が花咲かせようとした夢があったのだと、伝えたいのです。

 

 そして、その夢は神様が人類を愛する心から始まったのだということを、神様が私たちに伝えてくださったように、鮮一を天国へと送るこの席で、鮮一に永遠の別れを告げるこの席で、悲しみと苦痛の峠を越え、震える声で告白します。

 「イラクを許します。あなた方を愛します」

(以上は2004年6月30日、韓国の朝鮮日報日本語版の記事です。)

 

多く愛された者は多く赦します   

   一、悲しみと憎しみ

 この7月1日は、昨年の長崎の男児誘拐落殺事件の被害者駿君(当時4歳)の一周忌でした、駿君のお父さんが手記を書いて居られる。

 「未だに落ちこんでどうしようもない。突然涙が溢れたり、夜も寝るのが怖いのです。……。同級生殺人事件の被害者の怜美さんの死と重なって、表現しがたい感情が込み上げてきます。そして、どうしても加害者にたいして憎しみの感情しか湧かない。その親からの謝罪は一切お断りします」。

 これは、その手記の一部です。残されたご両親の痛ましさがひしひしと迫ってきます。私は、よく「子どもを殺された親御さんも大変だが、殺した子どもの親も可哀そうだよ」と言ったものです。たしかに加害者の親になった人の辛さ、孤独さは又、想像するだけでも可哀そうです。にも係わらず前記のような被害者の親御さんの悲痛な言葉に接すると、私たちは返す言葉もありません。

 しかし、7月1日は午前が祈祷会でした。私は信徒のみなさんに語らずに居れませんでした。憎いであろう、その加害者を赦さねばならないクリスチャンの信仰を語ったのです。

 先月、産経新聞のコラム From という欄で、どこかの大学教授の寄稿でした。「ある30歳の男性が交通事故の後遺症らしい癌で死んだという事件でした。その死に際して、その男性は『最後の人生の大事業』と決心して、怪我一つしなかった相手の運転者さんだが、その人に対して『赦します』と言い残して死んで行った」という実話でした。世の中にはクリスチャンでなくても、そういう人もいるのです。

 先日の映画パッションにもありましたように、イエス様はご自分を十字架につける人々にたいして天の父に祈られました、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34)。

 このみ言葉には、並の人間には到底付き合えきれないような高度な道徳性があります。とはいえ、前記のような実例もある、駿君のお父さんのようにとても癒されがたい深い悲嘆を理解しつつも、私たちは尚、イエス様の道徳性に近づきたいと語ったのでした。……そうです。人間はだれも完全を求める存在です。少々の犠牲を払っても良い人になりたいと、だれも思っているものです。

   二、衝撃的な韓国ニュース

 ところで、その午後、ある人から「今朝のテレビを見ましたか」と声がかかった。

 「今朝のテレビニュースにびっくりしました。韓国の人ってすごいですね。多分、あの人たちはクリスチャンですよ」。私はその日、テレビを見ていなかったので、「どういうことです」と聞くと、「あのイラクで人質になった韓国の人、首を斬られていたじゃありませんか。あの人の死体が韓国に帰って家族の人たちが埋葬しているんです。その場で家族の人たちが叫んでいるんです。

『イラクを愛します。イラクの人を愛します』って」。

 私はそのテレビをぜひ見たいと思って、再放送を捕まえようと躍起になったが、この日の夜のニュースはフセインの裁判や、曽我ひとみさんの夫君とインドネシアで再会など、重要ニュースが多くて、肝心のその再放送はなかった。それで翌日の朝刊に出ていやしないかと、家にある3紙の紙面をしらみつぶしに捜したけれど、そういう記事は見あたらない。ただ、一つ、産経新聞にだけ「殺害された韓国人埋葬」という豆記事があったが。

 私は落胆した。日本では、このような「敵を愛す」式の報道は記事にならないのだ。日本の社会がこういう記事に興味を示さないということなのである。ところが、韓国ではこうした内容を聞くだけで、「ハレルヤ! アーメン!」と、泣いて叫ぶクリスチャンが大勢いるのですね。日本の社会は、こうした聖書の道徳性になじめないらしいということを改めて認識したことです。

  三、多く愛された者は多く赦す

 アメリカの9・11の同時テロの際、ブッシュさんが「これは戦争だ。我々は復讐する」と叫びました。それを聞いてアメリカ国民の愛国心も燃え上がりました。ブッシュ大統領は熱心なクリスチャンだそうです。そしてアメリカ国民の大多数はクリスチャンだと言います。

 最近「文明の衝突」のハンチントン氏が次著の「分断されるアメリカ」でアメリカのアイデンティティの基礎は「アングロ・サクソンのプロテスタンティズムだ」と言っているそうです。そう言う断定は危険でしょうが。

 そうした西欧傾向のキリスト教に対して、今、韓国の釜山からのろしが上がった感じです。日本も遅れるな!西欧からキリスト教を受けた恩は忘れまい。しかし内村鑑三が言う「古い古い福音」を東洋から巻き起そう、その時が遂に来たのかも知れない。

 イエス様によって多く愛された者は、また多く赦すことが出来ます(ルカ福音書7:47節参照)。私たちは多く赦す人になりたい。真のクリスチャンこそ、人をどこまでも愛する人になれるはずです。

 「韓国がイラクを愛しているということは、世界がイラクを愛しているということ、そして私たち世界中の人たち全員が互いに愛し合うということ」、この兄さんの言った言葉は21世紀の世界に精神革命を起こす兆しではないでしょうか。多くの応答者を神様は各所に用意しておられないでしょうか。20世紀初頭のガンジーの出現時を思い起こします。(2004.7.2<く>)

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