キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
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2004年11月


2004/11/28

(「日岡だより」第152号)

主は一つ、信仰は一つ、からだは一つ   
-聖霊待望大分聖会-    

 さる11月22、23日、かねての予定通り聖霊待望大分聖会を開いた。この聖会は当教会が会場を受持ち、大分県下や近県の教会にお知らせして自主的に開いた聖会でした。

 楽屋裏を明かせば、当初、永井先生から私(釘宮)に慫慂(しょうよう)されての計画でした。要は「こうした聖会は地方の教会だけで出来るはずだし、せねばならないですよ」ということであった。中央から有名な先生を招いて開く聖会も悪くはない。それもよいけれど、いつもそればかりでは地方では何も出来ないのかと地方の先生がたに萎縮した感覚や習慣を与えてしまう。地方の先生がたばかりでやろうではありませんか。地方にも、すばらしい先生がたが揃っているじゃありませんかと、永井先生は言われるのである。私はそれを聞いて発奮したのです。

 そこで私の構想は、説教者に中津扇城教会の柴田勝正先生、大分チャペルノアの広田勝正先生、そして宮崎から高森博介先生、福岡から中山隆志先生にお願いしました。司会者も大分や宮崎の先生がたにお願いしたのですが、短い時間を駆使して熱意とユーモアのあるすばらしい奨励をなさってくださったですね。

 さて今回の聖会テーマは当初、「教会の刷新と地域の変革」とお知らせしました。最近、ビデオのトランスフォーメイションを見ていた私は、あの不毛に見えるエスキモー社会や中米、南米、アフリカの地でも地域をあげて、あるいは国家をあげてリバイバルし、社会全体が変革する姿に打たれていたのです。そこでつい「地域の変革」と謳ったのですが、それほど深い意識は実はありませんでした。

          *

 ところで当の私のことですが、一応のスケジュールがきまった頃、私の心に妙に不安というか、重い気分が滞留していました。中津の柴田先生を訪ねたのはその頃です。かつての由布院聖会で秋山先生と共に柴田先生が並び立って、聖会を盛り立てていた姿を忘れる事はできません。私の尊敬する両先生であった。

 秋山先生はすでに召されて天に居られるが、柴田先生はなおも矍鑠(かくしゃく)としておられる。私は先生のご援祷を願わずに居られなかったのである。また他の先生がたにも恥をしのんでご加祷を求めたことだったが、この聖会の終わり頃になって、私はこの重荷の意味がやっと分かってきたのであった。

 聖会の会場元としてしなければならぬ準備はいろいろとあるが、教会の信徒諸兄姉がよくやってくださった。奉仕の組織や統制もよく取れていたし、また自発的で熱心であった。おかげで長い間、気になっていた表の広場のじゃまな物も消えてしまい、控えの和室も立派に整理されて、やってくる賛美チームの若者たちの宿泊施設としてお役にたった。

 折たたみ椅子の数もちょっと足りないと分かってレンタルの椅子を30脚頼んでくれていたが、それがちょうど間に合った。我が教会は小さい教会です、狭い礼拝室ですが、そこに多からず少なからず、びっしりと先生がたのほか、信徒の皆さんが詰めてくださって霊的にも体温的(!)にも熱気がたてこもって凄い集会になったのです。

 参加してくださった方々は120名を越えました。牧師先生がたが17名、参加した教会は大分県、福岡県、山口県、宮崎県から17教会。特に賛美チームが福岡、宮崎、中津、別府の教会のメンバーで協力してくださって、爆発的賛美になりました。

 講壇のバックには「主は一つ、信仰は一つ、からだは一つ」と、告白の宣言をかかげました。

          *

 4人の先生の説教内容については、別にテープもありますので、ここでくわしくご紹介できませんが、たとえば高森先生は神のみ言葉の確実さ、奥様の久美子先生の癌の完全治癒について良い証しをくださいました。いつものことですが救いの証しが見事で感銘的なのが中山先生。第3講壇の広田先生はご出身の福音派の聖潔の信仰をいささかもおろそかにせず、かつ聖霊様の満たしを高揚されて感激でした。

 フィニッシュの柴田先生はあの風貌からさぞ重厚な説教をされるかと思いきや、ユーモアたっぷり暖かい口調でした。しかし内容は深刻、日キ教団を出られてカリスマ派の仲間になってしまったといういきさつを淡々と語られました。

 こうした先生がたの連続説教のなかで、しだいに主の体は一つである。地域の教会は一つである。教派や教団の区別を越えて、大分市を、別府市を、九州を、日本を、キリストのからだとして、仕えてゆきたい、そういう霊潮が会場に満ちて来ました。

 そういう神学的表現はともかく。実際に会衆ひとりひとりが共に愛を覚え、喜びを共感し、むせるような感動で一つになっているのが分かるのです。

 かくて、立ち去りがたい思いを互いに分かちあいながら、暮れゆく晩秋の夕べ、手を振って会場前で別れたことです。

          *

 当初、「教会の刷新、地域の変革」と銘打った時、私の心にはこれほどの一体意識はなかったことを正直に申し上げます。講壇の後ろに「主は一つ、信仰は一つ、からだは一つ」と掲げたときにも、それほどの募る思いはなかったのです。

 ところが、聖会を終わってみると、ここは世界変革の灯火の一角であった。多分、今こうして全世界の各地に小さい灯であるにしても、喜びの声があがっているそれぞれの群れがあるに相違ない。このように導き給うた神様の呼び掛けが、あの当初の「重荷」であったのだろう、と私に分かりかけてきたのです。以上、心から大感謝!

 あたかも符節をあわせるようにして別府の永野先生が見せてくれた資料があります。世界のキリスト教界に地すべりのような変容が起こっている。これまでの西欧主導の教会概念ではない、第三世界に起こっている教会のほうが、盛んで規模も大きい。しかも最も大きい教会は「家の教会」のネットワークのような教会で、地域を総括する教会である。それは目下、世界で一番大きい韓国のチョウ・ヨンギ先生の教会よりも大きい教会が20もあるのではないか、というのです。

 主の日を間近に控えた今日、今、大なる教会も、小なる教会もひとしく悔い改め、刷新し、その地域を一新する時がきているのだと思います。まずその前提として、私たちすべての教会が一致しましょう。愛し合いましょう。

 またその大前提として各教会の中で各兄弟姉妹が心の底から愛し合いましょう。イエス様が私たちを愛してくださったように、愛し合いましょう。愛は不滅です。神様から頂いた愛はどんなに小さく見えても最高最大の愛となります。《く》


〔あとがき〕
 このたび聖会の終わりに、聖会スタッフから永井先生と私が花束を頂きました。今回は前面には遠慮して出ませんでした私ども、ありがたく頂戴したことです。実は第2日目の11月23日は永井先生の御誕生日、私の回心記念日、それぞれ有意義な日であったのです。本当はもっと感謝して花束を差し上げたい方がいました。▼それは大阪の泉大津から来られた、知る人ぞ知る古林三樹也先生です。CTC(クリスチャン・トレイニング・センター)を主宰して全国の教会の教育指導に鋭意専念しておられる方です。先生は先年の私の喜寿祝賀聖会以来、私の初著出版のため重荷を負ってくださり、全くの一方的なお申し出で私の古い週報等から適宜私の拙文を選んでくださり、今回その初版が出ました。その祝福と、皆さんへの紹介をなさりたくてウズウズして居られたはずです。私は先生をこの聖会にお招きしましたが、適当な顔出しの機会もなかったので残念でした。スタッフがぜひ先生に花束贈呈をしたかったらしいのですが、私がさえぎって私の記念にいただきました。古林先生、ご免なさい。▼世界の教会の新しい動向の一端として、中国での隠れたリバイバルの朝日新聞記事切り抜き、もう一つ永野先生から頂いたウオルフォング・サイモンという方の情報提供(本文で紹介しました)を複写しました。お読みになってください。《く》


 

2004/11/21

(「日岡だより」第151号)

高砂聖霊アシュラムから帰って(一)    

 先々週の金曜日(11月12日)から翌週の月曜日(11月15日)まで、手束先生の高砂教会で行われた聖霊アシュラムに参加しました。

 3泊4日の高砂滞在でしたが、手束先生はじめ他の先生がた、信徒の皆さんに愛され、祝福され、しかも何と言っても私も老人、いたわって頂いて好い気になって、自分ではすこぶる元気なつもりで帰って来たのでした。

 この3泊4日の間に、教えられ、導かれ、魂の開かれたことが多かったので、忘れられない記憶が貯まっています。そのことを以下に略記することにします。

   一、終わりの日が近い

 私が小学校を終わったころ、伯父・釘宮徳太郎が大分市内のビルの一室を借りて無教会主義の集会を持っていた。私も時々出席した。坐っていて体がビリビリ震えた。今思えば、聖霊の波動に違いない、それが魅力で集会に出ていたとも言える。

 伯父の講義は難しかったが、特にある時、イエス様の再臨について熱心に語り始めた。私は今にも周囲の信仰深いおじさんやおばさんたちが天に昇って、私ひとりが取り残されそうで不安な気持ちになった。

 しかし、それ以後、私の育った教会は、そうしたきわどい問題にはふれなかった。私も再臨問題について勉強しなかった。もちろん再臨を信じてはいたが、私にとっては不安なテーマでもなく、それかと言って緊急な問題でもなかったのである。しかし、気になりはじめたのは、実は昨今の世界情勢である。

 実は、パウロ秋元牧師に啓発されたことだが、こういうことだ、「今や、テロ集団が核武器を手に入れてもおかしくない時代になった。一方、大国がグローバルに世界を支配しようとする。それに対抗して如何に小さい集団でも核武器でもって9・11のような襲撃を試みれば、核攻撃は世界に波及して地球は火だるまになることは目に見えている。いよいよ戦争の世紀が来た。黙示録の時代だ、主のご再臨も近い!」

 私はこの度、旅に出るにあたって、次の2冊の本を鞄に入れた。新幹線で読むつもりであった。乗ってみると、いいことに車両がサイレンスカーと言ってアナウンスが全然ない。しかも席がグリーン車並に立派。本を読むには最適である。鞄に入れた本は、この2冊、奥山実先生の「世の終わりが来る」、もう一つは高木慶太先生、芦田拓也氏共著の「これからの世界情勢と聖書の預言」である。

 この2冊の本を読ませてもらって、私は「主の空中再臨や、信徒の携挙のことや、あの黙示録で繰り返す艱難の記事や、そして千年王国、ハルマゲドンの戦い、主の地上再臨、様々のこと」が、これまで殆ど分かっていなかったことに気づいて、呆然とした。これは牧師としてあるまじき事でした。

 多分、冒頭に書いた、初めて「再臨」のことを聞いた時、不安や興味を持ったけれど、その後は何もおこらないので「なあんだ」と気落ちして、「再臨なんて、先の先のこと、まだしばらく関係ないさ」と肚をきめて、この問題に冷淡になったのだと思う。

 しかし、今やっと気づいた。時代は迫っている。地球は狭くなった。福音は全世界に聞かされている。西欧世界を追い越して、いわゆる途上国にリバイバルが起こっている、その規模たるや、先輩の白人国家を越える。いわゆる「トランスフォーメイション」である。私はこの福音の急速な展開に目を留める。たしかに「世の終わりは近い」。「主よ、来たりませ、マラ・ナタ!」

   二、静聴ということ

 今回、高砂聖霊アシュラムの集いにご厄介になった。アシュラムというのは何か。変な名前だが、もともとはインド語だ。アメリカのスタンレー・ジョーンズという人が多分インドのガンジーから名前だけを分けてもらったネーミングだと思う。詳しいことは別の機会に書きたい。

 私たちは傲慢な言いかたか知らないが、平凡なキリスト教徒として終りたくない。キリストの弟子としてキリストに従うクリスチャンでありたい。アシュラムとは、そのための修業の場所と思って良いだろう。キリスト教の信仰とは「行いによらず信仰のみによって救われる信仰」だから、修養とか修業とか言うのは邪道であると言う人もあるかも知れない、

 しかし、かつて「信仰とは神と人との協力作用である」、と言ったのは旧師手島先生だった。先生が黒板に大きな文字で書いたこの言葉が、今も私の目に焼きついている。私は目まいがしたものだ。

 当時、私の信仰は「信仰のみによって救われる」というパウロの言葉に固執していた。この言葉だけが私の救いだった。失敗が多く、いつも自己憐憫、自己不信、自己攻撃に陥らざるを得ない私の、最後の寄って立つ寄り所は「人の救われるは行いに寄らず信仰のみによる」、この言葉しかなかったのだ。

だから、「神と人との協力」とは、私にとり不思議な言葉だった。

           *

 日本にはスタンレー・ジョーンズ直系のアシュラム運動と、チイロバ牧師として有名だった榎本保郎先生の日本人向きに趣を少し変えた榎本アシュラムと、今回私の参加した高砂聖霊アシュラムがある。 高砂聖霊アシュラムは高砂教会の手束先生が特にカリスマ派の牧師として聖霊様の声に敏感に応答する「静聴」の時間を効果的に扱いたい趣旨から出ていると拝察する。

 かつてあるアシュラムに参加して、「静聴」の扱い方があまりに知的であったので失望していた時だった。手束先生から高砂聖霊アシュラムのことを聞き、「聖霊によるアシュラムか、これだ!」と、私は期待してこのアシュラムに参加したのだった。

 アシュラムにおける「静聴」とは禅かヨガのように瞑想して神の声を聴こうというのではない。聖書の言葉をベースにして、聖霊の言葉を聴こうとするのです。聖書の著者は聖霊様ですから、聖書をとおして聖霊様の声を聴くのです。

 さて、この高砂アシュラムでは、手束先生の特別講義がある、これも一つの目玉ですが、テキストは先生の著書「キリスト教の第三の波」を用います。その著者ご自身の講義を聞くのですから、本当に信用できますし、文章のウラのウラを聞くこともできます。ある一行の文章の裏に手束先生ご自身の信仰体験があった事実を聞くことができます。同じように聖書の言葉のウラにある聖霊様の語りたいことを聞きたいではありませんか。

   三、私の今回の静聴体験

 今回のアシュラムでは静聴の時間が4回ありました。その最後の指定の聖書も個所を榊原先生から指示がありました、それは第一コリント13章の一節から最後まででした。有名な愛の章ですから、この個所については、たいていの人が何度か、高名な先生がたの説教を聞いたり、読んだりしていることでしょう。まして牧師の私です。いろいろ講義や説教を読んでもいます。「今更、第一コリント13章と言っても……」という気分も一瞬起こるのも、正直なところです。

 しかし、ここは従順にみ言葉に接することです。へりくだって、み言葉をまず音読します。また、くりかえして黙読します。「神様、この聖書の個所から御心を悟らせてください」と祈りつつ読み進んで行きますと、

 私の目に突然飛び込んで来た言葉があります。「愛はいつまでも絶えることがない」、これです。異言も預言も、すべてのすばらしい賜物も、いつかはすたれる。そして最後に残るのは信仰と希望と愛であるが、その中でも愛だけがもっとも大きいというのです。私はドンとため息をつきました。

 私の内にある小さい愛、これは小さい御霊の実です。しかし永遠に残る最高の実です。天の神様の前に帰った時、地上からの私のお土産は今は小さい実であっても、永遠に御国に帰った時は最高のお土産である。

 大きな霊の賜物もうれしいけれど、この小さな神様からの恵みの実を愛して最後の完成の時まで、永遠の果てを目指して行こうと決意させられたのです。これはまさに聖霊様からの御声であったと感動しています。《く》


 

2004/11/14

(「日岡だより」第150号)

人生の目的は……    

 ウェストミンスター信仰告白は1647年に制定された。その第1条は有名である。

 「人の主なる目的は神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶ事である」

 さて、この終わりのほうの「喜ぶ」という言葉だが、かつて永井信義先生がこの言葉を原文で読んでびっくりしたと正直に発表しておられた。

 この「喜ぶ」という言葉はなんと「エンジョイ」なのだそうである。エンジョイでは「信仰告白」という教会文書の中では、なんとなく軽い感じがするのですね。

 ウェストミンスター信仰告白は相当綿密に検討されて出来上がったという経緯があるので、このエンジョイは私もしろうとながら軽いなと思って驚いたものです。

          *

 エンジョイという言葉はもちろん「喜ぶ」という意味で訳しても正解であり、不思議がる必要もないと思いますが、しかし実際上の感じとしては、エンジョイは辞典を引いてもまず「享楽する、楽しむ」が出て、その次に「喜ぶ」です。つづいて「気楽に過ごす」とか「愉快に過ごす」とか、そんな感覚で扱われています。

 キリスト教は世間ではよく「敬虔」な宗教として印象づけられています。そのキリスト教の信仰基準としての「告白文」の制定にエンジョイという言葉が出てくるのには異和感を覚える人もいましょう。

 しかし、このエンジョイという言葉を口に含んで味わっているうちに、この言葉から暖かい感動が起こって来ます。「神をエンジョイする」という思いがけない告白文に、なんだかホッと救われたような感懷も湧いてきます。キリスト教にある一神教特有の厳しい正義の神様といった印象から、一歩かけ離れた暖かい神観を感じるように思います。


神をエンジョイしよう    

 前頁のウェストミンスター信仰告白の一句を学んだ時、私は以下の聖書の言葉を思い出した。

 「わたしは主(ヤハウェ)を大いに喜び、

 わが魂はわが神を楽しむ」(イザヤ61:10)

 括弧のなかのヤハウェは神様の名前である。ヘブルの民はモーセ以前は神様の名前を知らなかった。というより、神様に名前は無いのが本当であろう。世界で独りしかない方に名前は必要はない。

 昔、日本では百姓や町人には名字がなかったが、武士や公家たち由緒ある家柄には名字があった。ところが武士や公家たちよりも更に高貴な家柄の天皇家に名字は無い。必要がないからである。同様に神様には名前は必要ない。ただ「いと高き神」などと呼ばれているだけ(創世記14:22参照)。

 しかし、モーセが神様に呼ばれて、彼が自分の民ヘブルの人々60万人をエジプトから脱出させる任務を与えられた時、その民に神様のお名前がないと説明しにくいとうわけで、初めて神様はご自分をヤハウェと名乗られた。この辺のいきさつは出エジプト記3:13以下15までを読んでほしい。

 神の名はヤハウェ、そのお名前の意味は「私は有りて在る者」という意味である。それは神様の特有のご性質をさしている。「有りて在る」という方、これは宇宙に何物かを存在させる基礎的主権者たる宣言である。神様が居られなければ、何物も存在出来ない。

 (このお名前を文語訳聖書ではヱホバと訳している。本稿でこのお名前を使っても差し支えはないのだが、一応最近の聖書学者の所説に従ってヤハウェとした。口語訳、新改訳、新共同訳ではみな「主」と訳している。「主」と訳すにも一応妥当な理由はあるので理解できるのだが、多分本当は「ヱホバの証人」を嫌ってヱホバという名を避けたのだろうと私は見ている。避ける必要はないのに…、というのが私の意見である、少々ひねくれた見解でしょうね。)

 神の名を主(ヤハウェ)と申し上げる時、親しく肉体をもって人間のそばに来てくださる個性的な独りの神様を感じる。この神様の前には安らかに憩える伸びやかな平安がある。つまり喜び、楽しめる神様の臨在である。まさにエンジョイの神である。

 この方を先在のイエス・キリストと見るのは私の神学であるが、いかがなものであろう。


天は喜び、地は楽しむ    

 歴代志上16:31を読みたい。

 「天は喜び、地は楽しみ、
  もろもろの国民の中に言え、
       『ヤハウェは王であられる』と。
 海とその中に満つるものとは
        鳴りどよめき、
 田畑とその中の物は喜べ、
 その時、林のもろもろの木は
        ヤハウェの御前に喜び歌う。」

これはダビデが神の契約の箱を自分のシオンの町に迎え入れたとき、賛美隊に歌わせた、彼自身の作詞の歌の一部である。

 天地の王であるヤハウェの前に、天も地も、海の物も、田畑も、林の木も、すべてのものが喜ぶという巨大な詩篇である。

 ここで私は本紙冒頭のウェストミンスター信仰告白の第一節を思い出す。そして私は、ウェストミンスターの信仰告白に更に加えて、天地万物、すべて神の造り給いし被造物をエンジョイする歌を歌いたいと思ったことである。

 ダビデはいつの日か成るべき神の国の様相を預言的に歌っていると私は思う。

           *

 そこで、「神のなされることは皆、彼の時(!)にかなって美しいこと」(伝道3:11)、また神は「すべての事を相働かせて益としてくださる」方であることを思いだした。私たちクリスチャンは万事をエンジョイできるはずなのだと、気づいたのです。

 この「気づき」は私にはほとんど主の啓示だとさえ思えた。もちろん、人の生きる世界は始祖の堕罪以来、矛盾と悲惨に満ちていると言える。

 しかしイエス様はこの世に来たり給うて、私たちに主の贖いを信じ、主の導きを信じて、聖別された人生を生き得る可能性を与えてくださった。主の預言された神の国はまだ到来していないけれど、しかし現在の世界情勢からその日ははなはだ近いと私は信じる。

 そのゆえに今、主の栄光の日を待望して、たとえ如何なる矛盾や困難が起こっていようとも、それを改変される主の御手を信じて、一切をエンジョイできるのではないか。私たちは前途にある明るい人生を謳歌してワッハッハと生きて行きたいのです。


鏡の前で五分間笑おう    

 最近、ベストセラーの「キッパリ」という本がある。著者は上大岡トメさんという古めかしい名前の女性だが、この方はもともとイラストレーターなので、マンガ入りの分かりやすい本を書いている。

 彼女は生きることの名人である。そのコツをこの本に書いてある。たとえば、「難しい仕事をしなければならない時は、まず軽い仕事を一つしなさい。そして難しい仕事に取りかかれ」という。これは良い提案である。私も言いそうなことである。

 又言う。「鏡の前で5分間笑いなさい。顔のしわが取れますよ、明るく生きられますよ」。私の専売特許を取られたみたいだが、私と同じことをいう人が現れたので、私は非常に心強かった。

 キッパリ生きるコツをいろいろ書いてある本です、おすすめします。こうしたコツはいつも申し上げるが、「なるほど、いいですね」と賛成はしても、実行しない人が多いのである。すぐ実行してほしい。実行するコツはその初発行動にある。

 たとえば、朝、目が醒めかけて眠いベッドの中、「さあ、起きなさい」と心の中で自分に命令する。数分すると、自然にムックと体が起きるものです。初発行動を気軽に起こせる人が、なんでも気軽にやれる人です。「自分に命令しなさい」は私特有の提案だが、ともあれこの本は良いです。

 クリスチャンはイエス様によって永遠の命を頂いている、死んだら天国だ。そして、主の日も近い今日、御国の到来はすぐそこ。どんなに意気揚々と生きても良いと思うのに、現世で生きるのが下手なクリスチャンも多いのです。メソメソ、ブツブツ、弱気で打ちひしがれている感じです。とは言え、

 その弱さのどん底で「主を信じます、感謝します」と徹底無比の信仰に生きる凄いクリスチャンがおられることも事実です。こうした弱さに徹する信仰は、私にもよく理解できます。この信仰は最後の土壇場で逆転する一種の弁証法です。しかし尚、もう一歩進んで、明るく強く、キッパリ生きる、剛健なクリスチャンであって欲しいと思います。《く》  (2004.11.11.祈祷会にて)

 


 

2004/11/7

(「日岡だより」第149号)

「雨ニモマケズ」のモデルだった人?    

 詩人で童話作家、宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」のモデルではなかったと言われるクリスチャン、斎藤宗次郎の生涯が最近すこしづつ分かってきた。

 宗次郎は岩手県花巻市に生まれ、地元の小学校教諭となった。無教会の創始者・内村鑑三先生の主筆雑誌「聖書の研究」を愛読、小学校で聖書や鑑三の日露非戦論を教えたりして退職に追い込まれた。

 しかし、些かも気落ちせず、新聞配達を仕事とした。宗次郎は朝3時に起き、雨の日も風の日も、大風呂敷に新聞を背負い、駆け足で配達に回った。1日40キロの道を配達したが、その合間に10メートル行っては神に祈り、さらに10メートル歩いては感謝し、木陰や小川のほとりで祈りを捧げたと言う。

 配達先で病人が居ればその人を見舞い、道ばたで遊ぶ子供たちに菓子を分けた。人々の相談にも誠実に応え、まさにデクノボー。その彼が配達を終えて花巻農学校に寄ると、教員の賢治が待ちかねていた。賢治はその感動と敬慕を詩に託したのであろう。

 当初はキリスト教信者だからと、石を投げられるなど迫害も受けたが、次第に人々の信頼を集めた。そのうち内村先生の伝道を助ける為、配達業をやめて上京することになる。駅には名士や住民200人以上が見送りに駆けつけた。花巻駅の狭い古いプラットホームには名残を惜しむ町の人たちが溢れ、お寺の和尚さんや、学校の同僚たちも、今はすっかり尊敬と親愛の情にみちて、別れを惜しんだ、

 駅長さんはそれと見て、わざと時刻を遅らせ、列車を徐行で発車させたという。(彼の自叙伝が来春、岩波書店から出版される)。《く》


好地由太郎、獄中30年の男    

 好地由太郎、なかなか良い名前ですが、名前に比して幼年時代から悲惨でした。生まれは千葉県は今の木更津市、慶応元年、3年して明治です。

 10歳のとき、父親が出奔、残された母子2人は物置き小屋に住む貧乏さ。それも僅かの間、すぐに母親が死んで孤児になる。親の借金のかたに貸し主の家に引き取られ、奴隷のようにこき使われます。

 こういう境遇ですから、悪い道に陥るのも無理はないと同情はできますが、ともかく、ついに東京に家出します。そして、しばらくして明治15年、日本橋のある小さな店に雇われることになります。それが悲劇の発端。

 彼は欲情にかられて、その店の女主人を暴行の上、殺して金を盗み、火をつけて「火事だあ、火事だあ」と騒ぎたてたわけですが、状況証拠がそろっている。すぐ逮捕されて裁判です。本来なら死刑のところだが、未成年ということで無期懲役という判決、以後長い牢獄生活を送るのです。

 その牢獄生活もしばしば人間を悪くする。けもののような荒くれた、すさみきった日々でしたが、あるときキリスト教に入信します。それから打って変わった人生を始めます。そして恩赦により無期懲役のはずを、30年で出所できたのです。そうした彼の人生の一端を少し紹介します。

              *

 以下は彼の自伝からの抜粋です。大正年間、大阪か神戸あたりでのことらしい、

 一人の中学校教師が、肺病で危篤が迫って居ることを聞いて、由太郎は一度、訪問しましたが、その中学校教師は大のヤソ嫌いでした。どうしても彼に会おうとしません。

 彼はある日、城山に上って、その教師の住まいを見下ろして一心に祈りました。それから、山を下りて、案内も乞わないで奥の部屋にはいって見ますと、彼は大喀血をしたあとで、疲れ切った様子で眠っていました。

 由太郎は静かに彼の枕元に座って祈っていますと、やがて目を覚まして由太郎を見て腹を立てました。

「貴様は非常識もはなはだしい。誰の許しもなく入って来るとは何事だ。家宅侵入罪だぞ。はやく出てゆけっ」。

 起き上がろうとして、また大喀血をしました。い由太郎は急いで洗面器を持って近づきましたが、彼は受けつけません。由太郎の目には同情の涙があふれ、思わず洗面器にあった血痰(結核菌の混じった血液と痰)を一飲みに飲んでしまおうとして、これを口元まで持って行きました。

 すると今まで、半身さえも起きることが出来なかった病人が、急に飛び起きて彼を抱き止め、涙にむせびながら言いました。

 「神の愛が分かりました」。

 それから2人は、そこにひれ伏して祈りました。

           *

 こうした一見、非常識なこと、黙って他家にはいって病人を怒らせたり、血痰を飲もうとしたり、まさに好地さんの無類の信仰のなせるわざです。気ままな気分でこれを真似してはなりませんが、彼のこういう信仰はしばしば奇蹟的結果を起したのです。こんなことがありました。

 彼がまだ監獄(当時はまだ刑務所と言わず監獄と称された時代です)にいた頃、病気の囚人を看護する看護夫になったことがあります。

 ある一人の囚人が結核で梅毒です。おしっこが出なくなりました。どんな器械を使っても出ません、医者もさじを投げました。病人は「なんとかしてくれ」と手を合わせて看護の彼に頼みます。

 由太郎は祈りました。「死ぬも主のため、生きるも主のため、決して命は惜しみません、ぜひこの病人を救ってください」。

 そして口をあてて吸いだすと、なんと膿を含んだおしっこが出始めました。吸っては吐き、吸っては吐きで1リットルにもなったそうです。そして、この病人は回復しました。

 こうして彼は常に命がけです。好地由太郎の信仰と熱情は今も彼のことを聞く人々に感動を与えます。とは言え、いかなる人も、イエス様による聖霊の愛がなければ、こんなことが出来るわけがありません。「神は愛です」。(真菜書房発行「獄中三十年・恩寵の生涯」を参考に。週報96.4.14.より再掲載)《く》

〔あとがき〕
 リバイバル新聞10月3日号より。ベニー・ヒン師が来年1月インド政府の招きでニューデリーで1千万人の集会を計画とのこと。今年の2月にムンバイ(旧ボンベイ)で最終日には2百万人集まった実績があるそうです。また、3月にはフィリピンで3万人の集会が計画されているという。この記事のことは北九州リバイバル・チャーチの岡先生のメールで知りました。岡先生は言う、「途方もないことが世界に起こっているようです」と。
 同じくリバイバル新聞のもっと遡った9月5日号の記事ですが、FGBMFI(国際フルゴスペル実業家親交会)の世界大会が、去る8月3〜7日アフリカでは初めて持たれたそうで、首都アブジャで連日3万人の伝道集会が持たれたと言います。特に初日の開会の席上で大統領アバサンジョが登壇、信仰の恵みの証をして、「かつて政争に破れ、牢獄にいたとき聖書に励まされ、神を信じて祈り、力を与えられ、今ここに大統領として立っている。主をほめよ、主の御名を賛美せよ」としめくくったところ、競技場を埋め尽くした会衆は「アーメン、ハレルヤ」と歓呼したそうだ。最終日には会長のシャカリアンが「今後5年間で1億人を主に導こう」と宣言し、「クリスチャン一人一人が伝道者として立ち上がろう」と奨励したそうだ。

〔付 記〕
 私としたことが、今年の夏が如何に暑かったとは言え、7月以降のキリスト教関係の新聞3紙をほとんど読んでいなかったということに気づいた。前述の岡先生のメールを読んでびっくりして、綴じ込みを開いて今読み返しているところである。
 リバイバル新聞で大々広告を出していた。経営が悪いのか、新しい計画があるのか、出資金を募集している。1口10万円です。みなさん申しこんください、配当金がうんとあるといいですね。優良株として上場されるといいですね。日本でも5千万人のクリスチャンが生まれたら、そういう事態も起こるでしょう。新聞のみならず。雑誌もキリスト教出版社が軒並み繁盛して一般新聞の経済欄を賑わしますように、祈ります。皆さん、ご投資を!
 本紙の冒頭の斎藤宗次郎と宮沢賢治との逸話の紹介は、これまた北九州リバイバル・チャーチの岡勝牧師先生のメールからそのまま借用しました。先生の教会では今月21日夜7時、森彰先生によるリバイバル聖会です。皆さんご参加を。
 最近の会堂内外、皆さんのご奉仕ですっかりかたづき、綺麗になりました。聖会を控えて感謝でなりません。《く》


 

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