キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(告白の力)

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告白の力


 

第4回・性格の改善

一、性格とはなにか 

 私は心理学が専門ではありませんが、気質と性格とは違うように思います。少なくともこの2つを分けて考えるところから、この文章を始めたいと思います。
 気質とは、性格の根底にある生まれつきの、その人の霊の傾向であります。気質は変え難いものです。血液型が一生変わらず、指紋も同様に変わらぬように。
 性格は気質の上に乗っかって、健康の度合や生育の環境にしたがって形を作っていきます。地面に水を流れつづけると、土の状態や混じった石、水の流れの性質によって、水路がきまって行きます。
 気質を土地とすれば、生育過程における経験は土地の上にそそがれる水に似ています。水が水路を刻みこむように、その人の経験は気質という土地の上に性格という水路を造っていくのです。
 ですから、あらためて新しい経験を積み重ねると、その人に新しい性格を刻みこんで行きます。しばしば、「これは私の生まれつきの性格です。変えようもありません」という人がいますが、そう信じこんでいるのなら早計です。変えることができます。もし自分で自分の悪い性格に気がつけば、それを変えようとするのが当然です。変えようとしない人は、愚かであるか、又は怠惰な「性格」の持ち主であると言わねばなりません。
 江戸時代に盤珪という禅僧がいました。ある人が来て、「和尚さん、私は生まれつき怒りっぽくてこまります」と言います。その後の問答が面白いのですね。
 「へえ、あんたは奇妙なものを持って 生まれて来なさったなあ。今、ここで 怒ってごらんなされ」。
 「いや、そうは申しても急には怒れま せん。ひょいとした時に怒ります」。
 「そんなら、生まれつきのものでは無 いぞえ。生まれつきのものなら、いつ でも怒れるはずじゃ。そいつはお前さ んが生まれた後に、自分で付け添えた ものに相違ない。それを生まれつきと 言っては、親に不孝というものじゃ」
 盤珪は不生禅という注目すべき一派を立てました。「生きる術」としての参考になる提言の多い人です。

二、気質について

 気質は本来、善なるものです。神様がご自身の形にかたどって造られた人間なのですから、その気質は本来、はなはだ良かったのです。しかし、その善であった人の気質は、人の始祖が神様に背いて以降、罪の遺伝を受けてこんにちに至っています。すべて、人間は何を考え、何を想うにしても、その思考に罪の汚染が付きまとうことになったのです。
 ここに上質の味噌があるとします。この味噌に悪魔が悪い酵母菌を撒いて行ったとします。悪い酵母菌はその味噌のなかでどんどん勢力をまして、まったく食べられもせぬ悪い味噌にしてしまいます。 さて、新製品の善い強力な酵母菌ができたとします。それを悪い味噌の中に混ぜて悪い酵母の勢力を殺してしまうなら、その味噌は以前よりもさらに善い味噌に変るのです。
 この善い強力な新しい酵母菌を、イエス様の血汐にたとえることができます。イエス様の新生の血汐を受けいれるとき、私たちの気質は一変します。「神の種(つまり酵母菌)が、その人のうちにとどまっているなら、その人は罪を犯すこともなければ、罪を犯すこともできない」(ヨハネ3:5、9参考)人に変るのです。 もし、この事が事実なら、なんと魅力的なことでしょうか。しかり、魅力的であるという以上に、これは全クリスチャンが、ぜひ受けいれるべき聖句です。しかし、多くのクリスチャンが、この言葉を無視し、信じていないように見えます。敬して遠ざけているのでしょうか。
 私たちはよく、「人間には善なるものは全然無い、人間は罪の固まりである」と強調することがあります。事実、主観的には、回心や聖潔経験の寸前、そのように思えて仕方がない時があります。しかし、そう言い切ってしまうのは本当は行き過ぎだと思うのです。
 人の心には多少とも善きものが残っています。もし、それが無ければどうして神様の呼び掛けに応じることができましょうか。如何なる悪人でも、それなりに善なるものを求めています。泥棒集団や暴力団でも、その集団内では義理人情の一種の倫理が厳然としてあります。やくざ映画が感動をよぶゆえんです。
 人の性格の根底によこたわる気質は本来は善であり、一旦、人類の始祖の堕罪によりそれは罪に染んだけれども、クリスチャンの気質はイエス様のあがないによって善に回復している、これがこの節の要約です。

三、性格とは生きざまの習慣である  

 しかし、気質(霊の性格)は悪より救われていても、表面の性格や行為において救いは未完成なのです。私たちクリスチャンの性格や行為が日々、善に背き、悪に陥っていることは、弁解の余地がありません。特に、行為における悪について、ロ−マ人への手紙7:15、19におけるパウロの告白は深刻です。現実の世に生きる全クリスチャンにとって、これは大問題です。(行為における直接的罪と悪を止める秘訣については、更にくわしく、この連載の最後で述べます)。
 テレビの衛星放送のパラボラ・アンテナの方向が狂っていたり、表面が他の遮蔽物で覆われていたら、いくら元の放送局や空のかなたの放送衛星が正しく機能していても、地上のテレビには画面も音声も再生できません。このパラボラ・アンテナの方向を正しく向きを変え、表面の遮蔽物を取り除き、又もし別の妨害電波がはいって来るならば、それも退けるべきです。それは悔い改めや、潔めの経験や、悪霊追い出しに似ています。
 しかし、せっかく正確に受信していても当のテレビの内部に欠陥がありますと、チラチラする画面やガ−ガ−いう音声で悩まされることになります。気質という土の表面を、こんにちまでの経験が刻みこんで造りあげた性格という水路の傷やゆがみがガ−ガ−、チラ、チラを生むのです。
 性格とは生きざまの習慣です。具体的に言えば、思いと言葉と行動の癖です。癖とは習慣の定着です。ある環境や条件、刺激や干渉に対して同じようなパタ−ンで繰り返す反応です。それが心の動き、体の動き、また言葉の使い方に表われるのです。とすれば、性格の改善の具体策は明らかです。生きざまの習慣を変えさえすればよいのです。

四、あなたは実行できる

 体の動きがノロマな人は性格がグズに見えます。いつも会合の時刻に遅れる人は、同じくグズな人なのか、あるいは人を待たせても平気な横着な性格なのかと見られます。機敏に歩き、時間に遅れぬように行動習慣をつけると、あの人は活動的なビジネスマンらしい人だと言われます。いや、自分でもそう思えてくる事でしょう。会話のとき、明かるく、めいせきに、そして敬虔な言葉を語れば、あなたは明朗なクリスチャンらしい人に変ります。こういう事を偽善ではなかろうかと恐れないことです。クリスチャンでない人でも、その人のすばらしい性格を見たならば、それに心をとめましょう。「……すべて称賛に価するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」(ピリピ4:8下)とパウロは言います。
 聖書の教えを完全に確実に実行できるはずだという、雄々しい確信を持ちなさい。これは傲慢でしょうか。いいえ、けっしてそうではありません。それは自分の弱さや、これまでの失敗を見ないで聖書の約束を見ることなのです。「自由の律法を一心に見つめてたゆまない人」(ヤコブ1:25)になりなさい、とヤコブは言います。聖書の律法を厳禁律法、処罰律法としてではなく、目標律法、可能律法として、「心にとめ」、そして「見つめ」るとき、その律法があなたに実現するのです。み言葉で心の中を照らし、忘れてしまわないように映像的に心に焼きつけ、そのみ言葉に心をとめる(ペテロ1:19、ヤコブ1:24参考)とよいのです。
 さらに申命記30:14を読んでください。こういう秘訣を書いてあります。「善き律法の言葉があなたの口と心にあるとき、あなたはそれを行うことができる!」のです。
 もっと、具体例を次号にあげましょう。

 

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