キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2000年3月

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2000/3/26

見よ、今は恵みの時、         
   見よ、今は救いの日
     

    一、信 仰 の 大 黒 柱

 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日」とタイトルをつけましたのは、これは私が1944年11月23日、福岡の刑務所のなかで回心して、その喜びの第一報をハガキに託して母に送ったときの聖句であったからです。大分の狭い世間で、非国民の母として辛い日々を送っていた母にとっては嬉しい息子からの音信だったと思います。このような喜びのハガキを出すことが出来た私の回心の源泉は第二コリント5章13、14節でありました。今日のメッセージは、まずこのみ言葉に従ってします。なお、今回から何週かに分けて、6章2節までのみ言葉に沿ってお話することになると思います。

 当時の私の回心のきっかけは本日の聖書のなかの一句、「一人すべての人に代わりて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり」(第二コリント5:14文語)でした。この聖句によって、「私はすでに死んでいる。そしてキリストと共に永遠の生命に甦っている」と実感したのです。これは私にとっては驚天動地のことでした。これは聖霊によって起こったことです。この経験と、このみ言葉とが私の信仰の大黒柱です。

 大黒柱と言えば、私の昔住んでいた家、大分市内の米屋町、今の大手町ですが、軒の低い古い家です。今、東京・田無市ですばらしい伝道をしている今橋先生が、この家を見て無邪気に「やあ、汚い家だなあ」と言ったのを覚えています。私はびっくりしました。それほど汚い家とは思っていなかったからです。却って誇りに思っていました。第一、家の真中にあった大黒柱がすばらしい。釘を打っても釘がまがって木に通らない硬い大きな木です。伯父から「お前は長男だからこの家の大黒柱にならにゃいかん」などと言われたものです。

 この家は私の伝道の思い出の多い家です。夜、2階のベランダに出て、近所近辺に聞こえるような大きな声で祈ったものです。この家の集会で今は亡き山本和万先生が、次の聖書の言葉によって講義してくれました。「我等もし心狂へるならば、神の為なり。心慥(たしか)ならば、汝らの為なり」(第二コリント5:13文語)」。

 たしかに、ベランダの上で恥をさらけだして大きな声で祈る。また異言で祈る。気違い沙汰でした。今、思い出しても懐かしい、神にむかって心狂ったような時代でした。いや、今もそうありたいものです。一休さんも狂、良寛さんも狂、聖フランチェスコも狂です。

    二、父 の 年 賀 状

 私はもともと、クリスチャンホームに生まれました。ここに最近発見された父の年賀ハガキがあります。大正十一年一月元旦とあります。私の生まれる2週間前です。その年賀状、文字がいっぱいつまっている。当時大分市で開かれた九州沖縄共進会という大きな会場で伝道に精出して嬉しかったこと、親族一統にクリスチャンがぞくぞくと増えて「リバイバルというもの、かくやあらん」などと喜びを遠慮なく書いてあります。事実、父の伝道によって一族の多くが信仰にはいったのでした。

 当世流行のリバイバルなどという(不謹慎な言葉でご免なさい)言葉を使っているのも驚きです。これをクリスチャンでない多くの友人や商売のお得意さんにも出したらしい。年賀状はよい伝道の道具ですからね。大正の九州の片隅の一平信徒の文章とは思えない意気込みが伺えます。

 彼には信仰の大黒柱がありました。人生に行き詰まって、そのドン底で神様の光にふれて(部屋中が火事になったかと思うほどの)神様の臨在を体験したのでした。彼はどんなに苦難の中でも笑っておれました。晩年、養鶏をしておりましたが、母が餌の調合に失敗してほとんどのにわとりを死なせてしまった時も、「いいよ、いいよ」と笑っていたと母が私に語ったことがあります。死の1ヶ月前、自分の死を予期して、葬儀の相談を兄弟とする時にも、あたかもふすまをあけて隣の部屋に行くような様子であったといいます。

 父はひどい喘息でした。当時は喘息にはよい治療法がありませんでした。父は「私は神癒を信じたい」と書き残しています。また小さな神癒体験はしたようです。しかし完全な神癒を体験せず天に召されて行きました。当時の日本のキリスト教会の、それが傾向でした。そのような信仰を助成する雰囲気は到底ありませんでした。却ってそんな希望は押しつぶされるだけのことでした。私はそうした父の残した遺志をついで神癒伝道者になったとも言えます。

    三、聖霊の場よ、広がれ!

 私が神癒の信仰を持ったのはもう40年も前のことです。最初は細々の信仰でした。「あなたの病気は必ず癒されます」、このように言うことは大変な勇気を必要としました。ある人はその頃の私を評して、「彼は山師じゃないのか。あんな大風呂敷をひろげおって」と言ったそうです。格別に大風呂敷をひろげた覚えはないのですが。

 でも今回、私は敢えて、大風呂敷をひろげてみたいのです。私は大きな希望を持っています。今、この小さな教会、小さな集団ですが、皆さん一人一人に不思議な神様の力が与えられて、皆さんがすばらしい証しをたて、すばらしい伝道をして、あなたの周辺に核が分裂するように、あるいは薩摩いもの蔓にどんどん子芋ができるように、すばらしい新しいクリスチャンがどんどん生まれてくるということです。そして大小数ある各家庭集会の集合体が大きな不可視的教会となって、遂には大分県、日本、世界を包み込むであろう、私の大風呂敷です。

 何も、皆さんに超人的な努力をして伝道しなさいと、言ってるのではありません。ただ神様を信じて仰いでいると、そうなる時が来るはずだ、と思っているのです。そうです、「千年王国」です。

 シェルドレイクの「形態形成場理論」というのがあります。時々、不思議なことが起こる。昔、グリセリンは決して結晶することはなかった。ところが250年ほど前、ウィーンからロンドンに運ぶ途中で一つの樽が結晶し始めた。その樽からタネをもらって、他の樽に移すと、そのグリセリンも結晶し始めた。次に、ある日、倉庫の中のグリセリンがタネも無いのにみんな結晶した。そうして、遂には世界中のグリセリンが結晶し始めた。なぜだろうか。シェルドレイクという人は、そういう結晶する不思議な目に見えない「場」ができているんだ、と仮説を立てました。それと同様に私は「聖霊の場」というものがあると信じるのです。

 やがて紀元2000年が過ぎると、最後の安息の千年、つまり千年王国を切実に期待できると思います。が、たとえ千年王国がまだ先のことだとしても、世界の教会に上述のような「聖霊の場」ができる時がくる、いやすでに出来かけているではないかと、思っているのです。そのような場が出来ると、会衆全員が倒れるようなミニストリーは簡単です。金歯がはいったり、金粉が降ったりする、どうでも良いとは思うけれど、そのような聖霊の場が今、日本に出来つつある、すばらしい! もっと、もっと広がって行くはずです。         (2000.3.19.主日礼拝メッセージ)

2000/3/19

聖書を読みましょう     
 −テモテへの第二の手紙第3章14〜17節−       

   一、パウロの愛する弟子テモテ

 テモテはパウロが迫害の地、小アジヤのルステラで生んだ最愛の弟子です。彼は困難なパウロの命がけの伝道の時にも、いつも一緒でした。その彼は今、パウロを離れて遠隔の町で若い牧師として働いています。

 テモテは心が優しい、どうかすると信者たちに軽んじられやすい所もある。それに胃弱で土地の硬水になじめなかったらしい、「少量のぶどう酒を飲みなさい」などとパウロが別の所で言っているくらいです。パウロはそんなテモテが心配でたまらない。

 私はこの第二テモテ3:14〜7を読んだ時、パウロはこのテモテに信仰成長と訓練をはかるための注意を与えているように思える。

 その第一は14節です。「あなたは学んだところにとどまっていなさい。また誰から学んだか知っておきなさい」と言う。

 信仰の成長のためには、イエス様を信じた、その最初の信仰にとどまることがまず大事です。それを土台にして、しかも、その後、学んできた先生や先輩方の教えを繰り返し反芻してみるとよいのです。学んだ人たちをつぎつぎに思い出していくと、自分の信仰の今日までの筋目がわかります。これは自分の信仰を神学的に確かめるためにも役立ちます。

 テモテはパウロから学びました。私もいろんな人から学びました。歴史上の人物では、アウグスチヌス、ルター、ジョン・ウェスレー、それにサンダーシングや、異教の人であるけれどもガンジー。生きている人では釘宮太重という私の父から(実は今日は私の父の70年目の昇天記念日です。)この父は、私に本当に信仰の遺産を残してくれました。父は、部屋中が金色にまばゆく輝くような霊的経験をして信仰に入りました。その後、私の伯父釘宮徳太郎や、内村鑑三先生、石原兵永先生。直接に会って親しく学べたのは手島郁郎先生や、これもクリスチャンではありませんが一燈園の西田天香師でした。こうした人々から学んで、私は次第に信仰が植え付けられ、また育って来たという思いがします。

  二、罪の赦しと全き救い

 私の信仰の第1番は、イエス・キリストの十字架によって、私はあがなわれ、救われ、悪魔から奪い返され、神の子にさせて頂いている、すなわち神の子としての身分が保障されているという確信です。これは信仰の一番の基本だと思います。

 私の信仰の第2番は、聖霊様によって私の霊や魂と肉体の健康と性格が守られ、作り変えられるということです。言い替えれば、イエス様が私のうちに入ってきてくださって、私を新しい自由と力のある救いに至らせる、ということです。

 ここでは「救い」という言葉は、最初の「赦し」の信仰から始まって、全き天的な「救い」に至る過程をさしています。最初に頂いた赦しの信仰を「救い」と称することもあります。「私はイエス様を信じて救われた」などと言いますものね。しかし、しばしばパウロの言う救いは「完全な救い」を意味しています。真にクリスチャンらしい、実生活において勝利、あるいは品性における聖化、つまり心に愛と勇気と知恵と力を獲得すること。愛すべきものを愛し、退けるべきものを退け、すべきことを為し、してはならないことをしない力ある人物。つまり、自制力、自分をはっきりとコントロール出来る人に変わって行きます。こうして、完全な救いとは、全く清められ、遂には天国に帰って、肉体も完全に栄化することをさすのです。

 三、信仰の訓練、自己の訓練に聖書を用いなさい

 16節を読むと、ここではパウロはテモテに教会の信徒たちをしっかり導き訓練するためにはどうしたらよいか、そのテキストに聖書が最良だと教えているのです。聖書は神の霊感によって書かれた本です。本屋で売っているどんな本とも違う。聖書は普通の本ではない、如何にすばらしい、信仰の図書類と言えども、それとは違う特別な霊的な本です。

 先だっての主日礼拝で、永井基呼先生にメッセージをお願いしました。私はびっくりしました。先生がすっかり変貌しているのです。お聞きしてみると、聖書を1日20章読むようになってから変わったような気がすると言われる。

 私はそこで先生を見習って、最近、私も聖書をかなり長文を読みはじめました。そうすると、たとえばレビ記や民数記のような、同じような記事が続いて、読んでいて飽きが来るようなところでも、私の受ける感動の度合いが違ってきます。平凡な土地の名や、さしたる事もない所で、心が燃えます。感動して涙が出ます。いや別の時間に他のことをしている時にも、感動して涙が出る。そんなことが起こったのです。「聖書は神の霊感によって書かれた本である」ということが、こういう所で実感できます。

 もっとも、1章では足りません。20章か、少くなくとも10章くらい読んでください。1時間か2時間かけて、聖書をじっくり読んだ後の、その仕事のしぶりは変わって来ます。

 ルターは、「いつも私は1時間祈るけれども、今日は特に忙しいので、2、3時間祈らねばならない。」と言ったと言いますが、本当なのです。そうすると、後の仕事の能率はあがって、時間の余裕ができます。

 つまり、信仰生活の優先順位の一番は聖書ではないかと思います。信仰三原則とか、五原則とか言いますが、ごく初信の時は、礼拝や集会への出席が第一だと思います。また、原理的には祈祷が第一かとも思われます。しかし、一般的水準の信徒としては、聖書拝読が優先順位の第一番だと思います。

 私が初めて確信を与えられた時は、戦時中の刑務所の独房の中でありましたから、教会なんかありません。でも、一ヶ月間だけ、手元に聖書を貸してもらえました。夢中で読みました。そして、聖書の言葉が頭に記憶されました。そのみ言葉によって、私の心は開かれました。そして、祈りが始まったのです。

 聖書によって最初、不思議な感動が私に起こる、霊が働くのです。分からなかったことが、パーッと分かるのです。これまで理屈ばかり言っていた魂が、み言葉をそのまま素直に受け込んで、一瞬に信仰が分かるのです。イエス様は私といっしょに死んでくださった! 私はキリストとともに生きる! 私は新しく変えられた、私は赦された、私は癒された、救われた! その時から、私は勃然として主を賛美して、祈ることが始まったのです。

 「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、また、正しくし、義に導くのに有益である」。だから、神の人であるテモテよ。あなたがたが、あらゆる良いわざに対し十分な準備が出来、完全に調えられた(別訳・装備された)者になる為に、聖書は有力な武器なのである、とパウロは言うのです。

 さあ、聖書を読みましょう。

(2000.3.12.主日礼拝メッセージ)

2000/3/12

私たちは神の国の中にいる        

 「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」    
          (マルコによる福音書第1章15節)

 「時は満ちた」という言葉は「今だ」ということです。「近づいた」は英訳では in at hand と書かれてあります。手元まで来ている、ということです。時は来た、今だ、神の国は近づいた、手元に来ている、あとはあなたが神の国を掴むだけ。掴むか掴まないかはあなたの意志しだいなんだ、ということです。

 神の国というのは、行政的な「国」ではありません。「国」という言葉はバシュレイアと言って、秩序とか支配という言葉です。神の国とは万事を解決してくれる力です。神の力の支配するところです。しかし、目には見えません。

              *

 「神の国」は、「『見よ、ここにある』『あそこにある』などともいえない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)と主がおっしゃった神の国が、最も、私たちに現実的な神の国でしょう。一番身近な神の国です。

 ところが、このマルコ1:15では、あなたのそば近く、手元まで来ている、と言いますが、あなたの中に入っている、とは言っていません。

 神の国とは、平俗に表現すれば、神の力、神の愛、神に愛され、神に神に護られている、その祝福をいささかでも実感する、それが神の国です。その神の国があなたのそばまで来ている、あなたの手で掴みなさい。それが、福音、つまり吉報です。いい知らせです。その知らせをただ、信じればいいのです。

 では、「悔い改め」とは何でしょう。悔い改め、ということは、「メタノイア」「メタヌース」、あなたの心の転換です。メソメソ泣いて、わが罪を全部告白して、「神様お許しください」と言って、一生懸命悔いる、それだけじゃないのです。大事なのは、魂をばっと転換する、ということです。そのポイントは、最初に働かせる小さな意志です。それが悔い改めの第一歩です。

             *

 「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」と主は御昇天の時言われましたが、出エジプト記を読むと、モーセが「主よ、あなたが共に行ってくださらなければ、こんな60万人の民をみちびくことなどできません」と言って、神様に求めるところがあります。その時に主がはっきりと、「私自身があなたとともに行く」と約束されます。

 モーセに語った言葉を英訳で見ると、私の臨在(presence)があなたとともに行く、とあります。そして「臨在」の原語は、神様の「顔」なんです。神様の顔があなたとともに行く、と言っているのです。

 また、パウロがコリントで、困難な、命の不安も感じるような伝道をしていた時に、主はパウロに「恐れるな、語り続けよ。」と言いました。この「語り続けよ」という言葉を、「自分自身を励ます『告白』の言葉を語り続けよ」という意味に解すると、「恐れもせず、心配もしないために、勇気ある言葉を告白し続けなさい」と主は語られているかのように思えます。事実、「私はあなたと共にいるのだ」と神は語られるのです。神の臨在がパウロを守るのです。

 サンダーシングが天界に行ったとき、「どこを見ても、自分の真正面にイエス様がおられた」と言っている。すべての人がイエス様を真正面に見る、そこが天界です。

 地上では、主は目には見えませんが、サンダーシングが天界で、目の前にイエス様の顔を見たように、地上でも、実は目には見えない主の顔、主の臨在があなたの前にあるのです。

 目に見えないけれども、父なる神様は「私の上にいまし、私を貫き、私の中にある」と、エペソ書でパウロが言いました。また使徒行伝の中では、私たちは「神の中に生き、動き、存在している」と言いました。

 神の中にある、ということは魚が水の中に住むのに似ています。ベンゲルという古いドイツの聖書学者は、パウロ特愛の言葉「キリストにあって(エン・クリストース)」という言葉を、「魚が水の中におるような関係ということ、魚が水の中ですべての生命活動を行なうように、私たちはキリストの中にあって生きている」ことをさしていると言いました。私たちはキリストの命を吸って生き、そして、私が出すどんな汚いものや悪いものは、キリストが全部吸い取って、私を清めてくれる。このようにして、いつも主の中に生きている。これが、神のバシュレイア、地上における神の国の実相です。

 私は、もっと豊かな、明らかな神の国が来て、私たちを支配し、私たちも主と共にこの世界を支配する千年王国が来る、ということを信じています。その王国は、明確に目に見える神の国です。

 それから、更に、天も地も消え去り、天界から新しいエルサレムが下ってきて、神の国を実現する終わりの日が来ます。このように、神の国の3つの実現の過程があるように思います。

             *

 神様は、私たちに「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われます。この言葉は、求道者ヘ向けての言葉のようですが、それだけではない。すでに信じている人にも向けて語られているのです。

 この文は英訳では、「Come to me」つまり「来たれ、我に」という言葉が最初に来ます。この世で、クリスチャンでありながらも、金や病気、家庭問題、信仰問題に、重荷を負って苦労し、神様が遠いものになってしまった、そんな人たちに向かって、「来たれ、我に」と主がおっしゃるのです。それは、いつも神様が私たちを包み込んでいるからです。

 実際、私たちは神様から遠くにいるのではない、いつも神様の中にいるのです。そのことに目がさめていないから、すでに救われクリスチャンになっている人にも「悔い改めなさい、心を変えなさい」と言うのです。主はあなたに、「来たれ、我に」と言われます。「私はいつもあなたと共にいる。永遠にいる。あなたは心を変えて、心を転回させて、私に帰って来なさい。」と主は言われるのです。

              *

 「見よ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」。あなたの中におり、あなたの周囲にあり、私たちを包みこんでいる主イエス様がおられます。我々はそのことに気づき、悔い改めて思いを変え、主に帰って行くとき、吉報はそこに実現する、神様は私たちを助けてくださる。私たちは、神ともにいるのです。この真理を握りましょう。握らなければ、いつまでも近くにいるだけです。しかし、それをあなたの手に握り込めば、それはあなたのものになって、あなたは主の平安を受けるのです。願わくは、イエスキリストの平安が永遠に私たち一同の者にありますように。 (2000.3.2 木曜祈祷会にて。)

2000/3/5

イエス様はろばの子を求められる     
       マルコによる福音書11:1〜11         

 「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。……。」そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。

 

 ろばという動物は、おろかなものの代表のように言われますが、ろばは本当におろかなのでしょうか。ろばは一度行った道はよく覚えているそうですよ。

 また、ろばの特色は、耳が大きいことですね。略画で馬を描いて、耳だけ大きく描けば、ろばに見える。「ろばはよく聞くけれども、話は下手だ」とメキシコの農民は言うそうです。おろかに見えるが、本当はよく知っている。これはすばらしいことです。

 

 「まだ、人が乗ったことのないろばを引いてきなさい。これから、仕事に役立つろば。この賢いろば。耳が大きくて、黙って聞くだけ。しゃべれないけれども、勤勉に働くろばに、この幼い少年ろばを育てたい」とイエス様は思われたのかもしれない。

 イエス様に初乗りされたろば君、もし、彼に言葉があれば、「私は世界一すばらしいろばだ。」と言ったかもしれません。口がきけないから、言わないけれども、この子ろばは喜んだことでしょう。

 ろばにはいろいろな長所があります。ろばはまず本当に従順です。もっとも、主人に対してだけらしい。他の人が来ても、言うことを聞かない。がんこだそうです。私たちクリスチャンも、神様だけには従順でありたいと思います。悪魔の誘惑には絶対従わない。

 

 私は最近、ろばによって多くのことを学びました。ろばは案外平衡感覚に富んでいる、山などを登るのは、非常に上手だそうです。険しい道も平気で登って行きます。そして、重い荷物をかつぐのです。そういう人に私たちはなりたいですね。

 イエス様は、世間では愚かと思われているろばですが、この子ろばの初乗りをして、いい教育の手始めをしてやりたい、と思ったのでしょうか。そして、このろばは主の御心に従って、すばらしいろばになったに違いない、と思うのです。

 

 ろばの、人が見てよくわかる一番の特徴は、非常に食欲が旺盛、ということです。ろばの一生は食ってるばかりのように見えるそうです。道を歩いていても、すぐ道ばたの草を食う。「彼の頭の中には食べることしかない」と、メキシコの人が言うそうです。私たちも、み言葉に対し、食欲旺盛な者になりたいですね。

 私たちの日毎の糧は聖書の言葉であります。聖書の言葉を読んでください。読んで、読んで、頭の中に聖書の言葉がいっぱいつまると、すばらしいクリスチャンになりますよ。先週は永井基呼先生が、十戒のことをお話してらっしゃいましたが、十戒の言葉を、はじめはただ、口でそらんじているだけのようでも、その人は次第に変わります。

 「昔の日本人は良かった、教育勅語があったからだ。」という言う人がありますが、たしかに、教育勅語には日本の国民としての倫理観がよく書けていたと思います。常にこれを読んでいると、心の中に一つの自戒力が出来上がって、それによって生きる習慣がつきます。

 今は教育勅語もない。子どもに「ウソをつくな」と言う人も。昔は「うそつきは泥棒の始まり」と言ったが、そんな言葉も死んでしまった。だから、子どもは何をしていいかわからない。でも、私たちは、聖書に従って日々を生きることができるのです。

 「汝の父と母を敬え」という言葉が聖書にありますが、いくら親でも、「自分を敬え」とは子どもには言いにくい。「親の言うことを聞きなさい」とは言えても、「親を敬いなさい」とは言いにくい。「いい親なら敬えるけれど、できそこないの親だから敬えません」か?でも、聖書にはそんなことは書いていません。聖書には「出来のいい親だけ敬え」とは書いてないのです。

 クリスチャンの中には時々、「自分の出来が悪いから、子どもにそんな立派な教えは言えません。」と言う人がいます。そんなことはない。そんなことでは、「背中を見て育つ」子どもになります。

 「子どもは親の背中を見て育つ」とはよく言いますが、親の背中だけじゃ困ります。親の背中を見ているだけでは、親の7割がたしか育ちませんよ。だから、イエス様を見させるのです。最高の理想の人物である、イエス・キリスト様を見させるのです。そのためには聖書を開くのです。「いいか、聖書にこう書いてある。汝の父と母を敬え」とね。言いにくかったら、紙に書いて貼っておきましょう。

 幼いときから、こういうふうに育てたい。また、中年になっても、老年になっても、「今生まれたばかりの嬰児のように」なって、主の教えを聞こうではありませんか。

 

 「今生まれた嬰児のごとく、霊の乳を慕え」(第一ペテロ2:2)と聖書にあるとおり、「またあなたがたは幼子のようにならなければ、神の国にはいることはできない」と言われたイエス様は、人を乗せたことのない子ろばを探したのですね。私たちも子ろばのような幼な子になって、「神様、み言葉をください」と言って、聖書を開いてください。必ずや聖書からあなたを導く言葉が聞くことができます。その言葉を一日中思いつづけ、思いつづけて、その聖書の言葉を誦んじていると、必ずみなさんは変わってくると思います。どうぞ聖書をお読みください。そして、大胆に祈ってください。尊いイエス様がきっとあなたを導き育ててくださいます。

 私たちも、今生まれたみどりごのように霊のまことの乳(御言葉)を慕い求めイエス様の訓練を頂きましょう。

 

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