キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2001年4月

2001/4/29

漫画講習会のこと

 かねて打ち合わせてあったのですが、古林先生が突然お見えになった。いつ来るのかしらと気にはなっても、先生のパソコンに何か異変があったらしく、全然メールがはいって来ないのです。

 今日か、明日かと、期待しながら、あきらめていた時、玄関のブザーが鳴って、「先生がおつきですよーッ」と家人の声がした。

 今回はもともと、漫画理論の講習会とマンガ描法実地講習を開いていただくつもりだったのです。

 しかし、日程がすこし短かったので、並の講習会と違って、相当準備と宣伝等の根回しをしておかなければ人は集まらないこの特殊な講習会、来年に延期しましょうと先生に頼んでいたのです。

 ですから、先生を待つ日程がはっきり掴めず、多少イライラしていたところでした(笑)。

 さて、この漫画講習会のことですが、これは講師の古林先生ご自身が涙を流して喜ぶほどの異色の講習会です。

 多くのかたが、漫画は好きなんだけれども、ほとんど無意識に、これを賤しんでいます。これを立派な文化活動と認めない。特にこれによって福音を語ろうなどとは思っていない、福音を伝えるのにふさわしい、便利な媒体だと認識していない。これは残念です。

 もしマンガを伝道用に使う人があったとしても、四コマ・マンガにキリスト教的金言でオチをつけるとか、長編ですと、大抵、きまって聖書物語、という程度です。

 私は手塚治虫の「火の鳥」の黎明篇を忘れることが出来ません。もっとも私の言うのは初版の黎明篇です。後に出た全集ものの黎明篇は違います。この手塚治虫の作品はけっしてキリスト教的宇宙観ではありませんが、東洋的全一思想の深みと広さをもって遍在的唯一者をよく描いていたと思います。

 あなたの信仰があなたにインカーネート(肉体化)し、生き生きと生活化し(私の言葉で言えばオマンマを食っている信仰になっているなら)、僅かでも絵心があれば、良いキリスト教信仰漫画が描けますよ。この漫画講習会を来年は開きますからご参加ください。どうぞご期待ください。 (古林先生の書評を左辺に載せます。)

 

《書評》

隠された十字架の国・日本(一)
               (ケン・ジョセフ著・徳間書店)  

古林三樹也  

 太平洋戦争後、22歳で来日した宣教師ケニー・ジョセフと、その息子ケンが、自分たちのルーツを捜してアッシリアにさかのぼり、遂に日本キリスト教誕生の原点を発見したという本です。

 22歳だったケニー先生(私はおやじさんをそう呼び分けています)は日本への船上で東ケ崎菊松氏(ジャパン・タイムズオーナー、当時70歳くらい)に話しかけられた。アッシリア人だと答えると、「君の先祖は、1400年前に日本に三つの宝物を持ってきてくれた。一つは『自由と民主主義』、二つは『福祉と医療』、三つ目が『キリスト教』だ。日本に行ったら、もう一度その三つの宝物をよみがえらせてもらいたい」と言われたとか。

 その意味がよく分からず、新聞に投書すると、全国から手紙が来て、その中に「景教研究」で有名な元早稲田大学教授・東京文理大学学長の佐伯好郎博士や、元京都大学池田栄名誉教授がいた。両教授との親交を得たケン(ジュニアをこう呼んでいます)は、自分探しを始めたのです。

 ケニー・ジョセフ父子の確信は、「ザビエルより1000年も前から、日本にはキリスト教が伝えられていた」ということである。

 ケンの祖父母はアッシリヤのニネベの生まれです。ヨナ書を思い出します、あの時先祖たちが滅ぼされていたら、自分は生まれていなかったとケンは言います。

 キリストの昇天後、弟子たちは、西方にだけでなく、東方にも向かったのです。トマスはイエス様昇天後2年には、既にアッシリヤで伝道しました。アッシリヤ人やアルメニヤ人は、異邦人世界で最初のキリスト教国家を作ったのです。 西方のキリスト教は、ローマ・カトリックとして成長し、東方キリスト教は、ユダヤ的側面、原始キリスト教の特徴を大きく残したキリスト教となりました。

 五世紀にはアッシリヤのキリスト教が中国に伝わり、「景教」と呼ばれるようになりました。この「景教」が非常に日本に影響を与えるのです。(次号に続く)

 

2001/4/22

復活節の高笑い

 

 「復活節の高笑い」という言葉をご存じですか。昔、ヨーロッパでは、イースター(復活節)の夜明けの礼拝では、クリスチャンたちは大笑いしたものだそうです。礼拝堂の中は「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と、高く大きな笑い声で満ちたと言われます。

 イースターはクリスマスとならんで教会の大事な祝日ですが、日本の一般市民の間ではあまり知られていないですね。しかし、本来はイースターのほうがクリスマスよりも早い時代から祝われたと言われています。

 イースターの礼拝は徹夜で行われたと思われるふしがあります。前日の夜から墓の中のイエス様をしのびながら礼拝を守ったのではないでしょうか。そして、暗い夜が明けて……、さあ、日の出と共に朝が来ます。

 「イエス様のご復活だ。ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と、この時、喜びの叫びがあがるわけです。イースターらしい、明るい元気のいい礼拝ですねえ。

 今でも欧米では、イースターの日には夜明け前に野外などに集まり、日の出とともに主のご復活を祝う「サンライズ・サービス」(日の出礼拝)が守られているそうです。

 今でも「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と爆笑する習慣が続けられているでしょうか、現在もそれが続けられているといいですね。これは日本の教会でもぜひ真似したいことです。特に私どもの教会では、それが出来ますよ。

             *

 私どもの教会で「ワッハッハッハ」と高声いを始めたのは、ここ3、4年のことですね。私は説教の前後では必ず「ワッハッハッハ」と皆さんをせきたてますが、多少不謹慎な感じがしないではなく、私も内心気にしなかったわけでもありません。しかし、この「復活節の高笑い」を知って安心しました。(先週のイースター礼拝こそ、この「復活節の高笑い」をひときわ大きい声であげたかったです)。

 ところで、私たちは毎朝目が醒めて、床の上で何を思いますか。この時間帯は一日のうちで最高のゴールデンタイムです。お勧めします。毎朝、次のように、口で、あるいは心のなかで言って下さい。

 「今日も神様から頂いたすばらしい一日です。イエス様、 ありがとうございます」
 そして、「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と笑いながら起きてください。

 毎朝、一日をイエス様を見上げて「復活節の高笑い」で始めてください。終日を、心が「聖なる笑い」で満たされて過ごせるようになるでしょう。

*(冒頭の記事は拡大宣教学院機関誌「マグニファイ」2001年4月号に掲載された永井信義学院長先生のメッセージから拝借しました。)

 

 

私の信仰経歴(三)

 「殿様商売だねえ」と評判になった私の生涯で、ただ一度の事業でしたが、最初から「この事業は10年で止めるのだよ」、と神様は示されていました。そのちょうど10年目でした。県と中小企業庁から勧奨されて他の同業者と一緒になって、大分県ではまあまあ一番大きい新工場を造ったのです。

 その新会社が2年もしないうちに内輪揉めです。見かねた県からの内密のアドバイスで、私に新会社を造らないかと言われます。しかし、私はかねて「事業は10年で止めるのだよ」と主に示されており、もうその期限を2年過ぎているわけですから、「遅れてはならじ」と会社を出ることにします。

 その私の決心を知らぬ相手方の役員諸君は、私に退職金、つまり手切れ金ですが、700万円持って来て、会社を出てくれないかと言います。私はその金を有難く頂いて会社を出ます。そして、そのお金で今の教会堂を建てたのでした。

       *

 私は新会堂を建てたとき、「キリストの福音大分教会」と教会の名称を決めました。私は実は神学校を出ていない、どこの教団からも牧師の資格を貰っているわけではない、しかし、この時から厚かましく牧師と自称することに決心しました。

 その後、イエス・キリスト福音の群れの牧会長・永井明先生と親しくなりました。私はその頃、しばしば「私はもぐり牧師でありまして」などと冗談を言ったものですが、これは嫌味ですよね。永井先生もそう感じられたに違いないですね。先生は私に「名誉牧師」の称号を贈ってくれました。

 しかも、私は今、この永井先生が創立された東北にある拡大宣教学院という神学校の理事長を仰せつかっているのです。名前だけでも重荷ですがね。

 1989年頃から、あちこちの新聞や雑誌に文章を乞われるようになりましたが、これも永井先生のお引き回しで、こうなってしまったような感じがします。

 昨年の一月、永井先生のきもいりで喜寿聖会を開いて、ご祝福していただきました。さて、今後10年、私は米寿になるんですよ。

       *

 実は昨年5月、晴天の霹靂、その永井先生がやってこられ、「大分市南部の稙田玉沢地区に新規開拓、会堂も移転しましょうよ」という構想を述べられたのです。私はびっくりしましたが、これは神様のご意志だと思いました。

 私としては重荷です。しかし、この計画に乗っかって私は夢を抱いたのです。私は本当は会堂を大きく建てるようなことには余り興味はないのです。しかし神様がそうせよとおっしゃるならば、そうします。しかし、私が願っているのは今の会員の200倍のクリスチャンを生むことです。

 そのためには流行を追うようですが、細胞(セル)集会がよいと思います。日本独特の創価学会、霊友会などの法座、倫理研究会の早起き会、あの型です。そうすると信徒リーダーの存在が必要です。

 チョウ・ヨンギ先生が最初の天城山荘の聖会の時、「私は創価学会を研究したのです」と言っていました。「ははあ、区域集会は創価学会の真似だったか」と思いましたね。真似でも良いのです。チョウ先生のお母さんのサイ先生がよく言っていました。「善い事は真似でもせよ」と。

 リーダーの養成は私は下手です。私はどちらかと言うと、一匹狼です。しかし、がんばってリーダー養成を是非しようと思っています。どういうことになりますか。

 極端な夢を、恥ずかしいけれど、言ってみます。10人のリーダーを擁し、その下に100人のサブ・リーダーを置く、その下に10人づつの信徒諸兄姉、そうすると全部で一万人という事になります。いかがでしょう、私に出来るでしょうか。

 人は言うでしょう、「そんなホラを吹いてどうするの」って。自分でもそう思います。ホラを吹きすぎて、牛の大きさを真似して、おなかを爆発させてしまった蛙のお父さんのようになる恐れもありますが。私の白昼夢のようなものです。嗤ってください。

 しかし、これはすべてクリスチャンが抱いてよい夢ではないでしょうか。それが今の時代の日本に対する神様のご意志ではないでしょぅか。また、ミレニアム第三紀とはそういう時だと思うのです。

ともあれ私の後、リーダー各位がそれぞれ独立したとしても、それは善いことだと私は思います。 

 

 

2001/4/15

イエス様は本当に    
      一度、死んだのです    

 イエス様という方は、十字架にかかって死んだということは、たいていの人は知っているでしょう。そして三日目に復活されたということも知っていることでしょう。しかし、もしかするとイエス・キリストは死んだと見せかけて、実は墓の中で息を吹き返し三日目に墓から出てきたんじゃないか、などと勘ぐる人もいましょう。

 しかし、イエス様は本当に一度、死んだのです。教会伝統の文書「使徒信条」には、イエス様は「十字架にかかり、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、……」とあります。陰府とは死んだ人の行く所です。仮死状態の人はいわゆる「臨死体験」でして、陰府に行かないで途中から地上に引き返して来ます。

 イエス様があの十字架の上で発せられた言葉が七つあります。その中の一つに、非常に不思議な言葉があります。「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」という言葉です。これは当時の通用語(アラム語)ですが、その意味は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」というのです。なんとも情けない言葉に見えます。

 迫害に遭って、堂々と死をも恐れず、殉教した信者たちはたくさんいます。それどころか、日蓮宗では、開祖・日蓮聖人の祈りに答えて、奇蹟的な電光が上から光ってきて、首切り役人の持った刀を真っ二つに折ってしまったという例すらあります。だからイエス様の十字架の死は、時々日蓮宗の方々から嘲笑されるのです。

 歴代の教会の偉いのは、こういう説明困難な、はなはだ都合の悪く見える言葉でもチャンと残してきたことです。聖書に「この聖書の言葉は削っても、書き直しても、書き足してもいけない」とあるからですが、これらのことは却って聖書は嘘偽りのない真実な神の書であるという傍証になります。

 イエス様が「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、イエス様が父なる神の独り子でありながら、その天の父を見失ったということです。それは、父なる神との間が断絶したということです。これこそイエス様の本当の死だったのです。

 イエス様は本当に死んで、陰府にまで下りました。イエス様は人類の罪の罰を身代わりに背負って陰府にまで下った。本当の死です。イエス様は、まさしく罪人の行くべき陰府に行かれ、本当の死をひとたび舐められた上で、どっこい、死に打ち勝って復活するのです。

 

私の信仰経歴(二)

 1957年、4月頃ではなかったかと思いますが、熊本からお見えになった手島郁郎先生に初めて会うのです。ショックを受けました。こんな信仰もあるものかと思ました。さっそく妻と共に、熊本の辛島町にあった先生の「神の幕屋」と称する集会に出席します。

 その席上で私はいきなり異言現象に見舞われます。もっとも、それまでにすでに軽い異言は起っていたのですが、この時の異言はものすごいものでした。私は仰向きに倒れ、「カッカッカッカッ」と河童の霊ではなかったかと、後で冗談も言いましたが、そういう異言でして、決して上品な霊的異言ではありませんでした。

 その場で私は手島先生の弟子になります。それまで、私の妻は私の信仰を高く買っていましたから、私以上の人物が出て、それも衝撃だったらしいです。

 実は無銭伝道旅行などをするのは、この幕屋の時代です。手島先生はもともと無教会の人です。塚本虎二先生の弟子です。手島先生が異言だの神癒だのと言い出して無教会陣営もその対処には困ったでしょうね。矢内原先生は絶対反対だったそうです。多くの先生方は反対だったでしょう。塚本先生は、手島先生の味方をしただろうかと思いますが、よく知りません。

      *

 ともあれ、手島先生は強力でした。こんな先生はめったにいません。手島先生は早く生まれすぎたのかもしれません。集団祈祷のなかで会集がバタバタ倒れるなどという異常現象は、その後、日本でも見慣れて来ましたが、1950年代ですから、大抵の教会からは批判され、また拒絶されました

 それに手島先生はアクが強い。説教中でも誰かを恐ろしい容貌で叱りとばしたり、かと思うとニヤッと笑って抱きしめたり、その感情表現たるや天下一品。夜の会食では酒盛りです。まったく豪傑風なのです。こう書くと先生の悪口を書いているようですが、結構私は先生を愛しているのですね。

 とにかく先生には肉的な面も随分残っていて、それがしかもアッケラカン、そこが又、魅力でもあります。私はしかし、その毒気にあてられたと言えましょう。詳しくは書けませんが、私はこの幕屋を脱出する羽目になります。

       *

 1958年(昭和33年)、その秋、多分11月だったでしょうか。私は熊本から逃げて帰ります。こういう時は、手島先生は悪辣な軍師のような手配をします。一流の弟子たちを大分によこして、私の集会の会員たちをかき集めて、私を孤立させます。私にはたった2、3のお弟子さんだけが残って、息もたえだえということになります。こうして、私の第二挫折期になるのです。伝道はほとんどできなくなりました。

 1959年(昭和34年)、この頃から約5年間くらい、キリスト教を決して離れたわけではありませんが、いろんな宗教を遍歴して研究した時代です。最初あるイスラム教の新興宗教(スブド)に出会ったのがことの起こりでした。そこから一種の宗教的天才とも言うべきR・Jという人に出会います。この人をとおして、日本の新興宗教の様々な指導者さんたちに会うことができたのです。

 その中でも特筆すべきは天皇家にまつわる歴代の神道教派の先生から霊的訓練を受けたことです。記憶術まがいのことから、霊言発声法、イメージ誘導法等を学びました。当時よくぞまあ、悪霊に取り憑かれずにすんだと思います。

 1961年(昭和36年)、突然、神様からのお声で、事業を始めよと言われます。しばらく伝道しながら、金の世界も体験して家族を自分で養いなさいと言われるのです。私はそれまで、私は神様のために働く、家族は神様に養って頂く、だから家族扶養の義務感は全然無い、そんな風でした。

 神様からのお声を聞いた、その日に私は二人の人から印刷業をしないかと言われます。その時「すべて正しいことは二人の証人で証,しされる」という聖書のお言葉が私の魂をドンと打ったのです。

 私はさっそく前述のR・J氏をとおして知っていた大阪の印刷業のNさんに相談します。この方がただちにOK、私を応援してくれました。当面の資金と、整備済の機械と、しばらくは技術や営業関係の人材まで応援によこしてくれました。こうして「殿様商売だねえ」と評判になった生涯ただ一度の事業家時代が始まるのです。 

 

2001/4/8

歓呼の集会にお出で下さい

 私の大好きな人、浜田空林さん。シャボン玉博士というか、シャボン玉大王というか。新シャボン玉の開発者である。彼が先だって沖縄に行った。

 中城中学校というところで、そのグランドで浜田さんが新シャボン玉を飛ばせてみせた。コップを用意してきた生徒さんたちに特製のシャボン液を分ける。そして一斉にシャボン玉を飛ばさせたのです。

 見る見るシャボン玉がグランドから上がり、2度目、3度目と340名の手元からシャボン玉が飛び立ってゆくと、終わりにはなんと10万個のシャボン玉が学校を埋め尽くすことになる。校舎が見えなくなるそうです。

 生徒一人が浜田さんに向かって叫んだ。

 「おいちゃん、これは大空のアート、おいちゃんは大 空のアーチストだぁ」

 見ていた校長先生も他の先生方も、思いもかけない豪快なシャボン玉の舞う姿に息を呑まれていたそうです。

 昨日、浜田さんがそのシャボン液とシャボン玉飛ばしの針金細工を持って来て下さった。私も飛ばしてみた。

 みごとな七色のシャボン玉が次々と飛び出して空中に乱舞。空中に大花畑が出来てゆくという感じです。

           *

 さて、聖書の話をさせて下さい。

 イエス様が五千人や四千人の群衆にパンと魚を裂いて分けて与えたことがあります。大奇蹟です。

 その情景の想像して下さい。端々の連中は最初はよく分からなかったでしょうが、でもパンと魚がイエス様の手元でどんどん殖えてくるという驚くべき有様が伝わってくる。総勢、みんなで見に行ったのではないか。とても静かにしておれなかったと思う。

 彼らはパンと魚を食べながら、どんなに興奮したことでしょう。「食べ残したパン屑を集めなさい」とイエス様が弟子たちに指図されたのは、群衆の一人一人が興奮して食べ散らすというか、とにかく上品に食べておれなかったからだろうと思う。私だったら、そのパンや魚は記念に全部持って帰るところだったと思うのです。

 イエス様のパンの奇蹟の時、まさしく浜田さんのシャボン玉大乱舞の時と同じように群衆は大歓呼だったでしょう。さて、私たちの信仰の集会も楽しいのです。歓呼の集会です。ワッハッハと爆笑し、歓呼し、大きな声とアクションで神様を賛美しましょう。 

 

 

私の信仰経歴(一)

 最近、ある方に私の若い時からの信仰経歴をお知らせしました。省略もあり、決して全部を書いてはありませんが、概略のことは分かって頂けると思います。どうぞ、以下をお読みください。

       *

 私はクリスチャンの家庭に生まれましたが、信仰に入るのは随分遅れます。このへんのことはよく書きますので省略します。

 1944年11月23日(にいなめ祭の休日)に回心しました。私は22歳でした。回心を求めるきっかけは石原兵永先生の「回心記」です。アウグスチヌスやルターやジョン・ウェスレーやハドソン・テーラー、この方々が鋭角的に転換した、あの明確な体験を求めたのです。いわゆる内村先生のコンボルジョン」です。

 私の初期の伝道はただひたすら、この回心を訴え、この回心が与えられなければクリスチャンとは認めないというほどの頑固さでした。今は違います。

       *

 1949(昭和24年)、私はみ言葉を聞いて、大分県鶴崎町(後に大分市に合併されます)に行き、伝道を始めます。私は不思議な恵みで、土地の大分県立鶴崎工業学校の事務官に就職できたのです。

 最初、別府不老町教会の伝道所という名目で集会を始めました。当時の別府不老町教会の牧師・野町良夫牧師の了解はちゃんと得ていました。先生は私を信任して全然不干渉でした。(ちなみに野町先生は後に日本キリスト教団四国教区長をした方。何人かの洗礼をこの野町先生にして頂き、また現在の会堂の献堂式にもこの野町先生に来てして頂きました。先生は甚だ魅力的な快男児でした。)

 野町先生が香川県の屋島教会に行かれてから、この鶴崎集会は厳密に無教会的集会になりました。

 でも、無教会の先生がたと親しくするということはありませんでした。ただ、お一人だけ講師としてお招きしたのが藤本正高先生です。その藤本先生に連れられて、ちょうど別府の特別集会に招かれていた黒崎幸吉先生にお目にかかったことがありました。

       *

 1952年、私の一身上の重大問題が起きて、今回は詳しい記事は書きませんが、本当に大変だったのです。それで伝道も一頓挫。

 1955年(昭和30年)、伝道を再開します。会場を大分市内のビルの一室を借ります。私は伝道と言っても、路傍伝道や訪問伝道はしたことがないのです。「路傍伝道など、わしはそのような福音の安売りはせん」と内村先生が言ったとか言わなかったとかを聞いたことがあって、その影響で最初から集会伝道一本でしたが、それはそれで、戦後のキリスト教がやや流行という時期だったからこそ、それでもなんとかやれたと言えましょう。「キリスト教の集会をします」とビラを貼っただけで5人、10人は集まってくれた頃です。

 その頃から、私は無教会にあきたらなくなります。無教会の良さは十字架信仰一本の真摯さです。それと聖書研究の誠意と熱意です。しかし、私はそれに加えて、聖化と霊的能力を求めました。心と実生活の清さ、そして神癒などの力ある信仰が欲しかったのです。特に、聖化は最初の回心の時からの心の底にうずく切実な求めでありました。

 神癒について言えば、当時はまだ国民健康保険も無かった頃で、人々は貧しかったですから、信徒のなかに病人でも居れば、癒しは切実な求めでした。そこで必ず説教の中で、「神様は必ず病気を癒して下さる、聖書にそのように書いてあります」の一点ばりで説教しているうちに、ぼつぼつ本当に癒しが起り始めたのです。

       *

 1956年、完全に生活を神様に委ねる覚悟をします。教員を辞めて、無収入で、独立します。

 実は京都の一燈園をあこがれていたからでもあります。私は西田天香さんの無一物無尽蔵の世界が好きでした。信徒の諸君を十人ほど連れて一燈園の夏の集会に2度ほど行きました。天香さんも喜んでくれました。

 その頃、衝撃的な経験が多く起りました。盲腸炎や乳癌が癒され、悪霊が出て行き、家出した男が帰って来る、高額の献金がある。しかし、信徒の数はまあまあ、30人を越える程度でしたが。

 私が自惚れて天狗になりかけた時でもあります。その時、大変な人物に会うのです。(釘宮義人)

 

2001/4/1

「ワッハッハ」の始まり

  一、だれだって落ち込む

 「先生だって、落ち込むことがありますか」

と聞く人がある。
「大ありですよ」
と私は答える。一度も落ち込んだことがない人は、そりゃ天使です。だれだって落ち込む。もともと私は少年時代から、ひどい吃音だったから尚更です。しょっちゅう私は落ち込んだものです。

 その性格は信仰を頂いた時から、少しは治りました。少しは治りました、というのが可笑しいが、信仰を持ったからといって、そう一挙に変わらない面もある、残念ですが、これも事実。

 そこで、時々ひどく落ち込む。礼拝で説教が失敗した時など、特にひどい。そういう時は信者さんの一人一人がそっぽをむいているように見える。家に帰ると妻も娘もよそよそしいような気がする。

 さて昨日のことですが、私は字が下手なので日記もワープロで入れる。ところが、先月の一か月分の日記を、ちょっとした不注意でいっぺんに抹消してしまった。こういうことは経験のある人は多いと思う。具体的な行事や事件はメモやその他の記録を見て、もう一度打てるけれど、祈りのことや感想類は再現しようがない。

  二、治療法は、まず祈りと賛美

 一瞬、しまったと……、くやむ。自分の不注意が原因だから、誰にも訴えようがない。一人で憂欝になる。それこそ落ち込むのです。いくら、自分の心を引き立てようとしても、どぶに湧くメタンガスのように、心の中で不平や不満やため息がブツブツ湧いて来るのだ。

 こういう時の治療法の第一は、まず祈ることでしょうか。しかし、これは案外気力を要するのです。徹夜で祈れば、気分は回復し、晴れ晴れとして活力が湧くことは経験上知っていても、その祈ろうとする気力がなかなか湧かない。それが問題である。
 もう一つ良い方法はマーリン・キャロザースの「賛美の力」である。この本はもう古典的と言っていいほどになった。「神様、このうっかりミスを賛美します」と手をあげて感謝しましよう、というわけだ。しかし、なかなかその気分になれないものである。

  三、もう一つ、取って置きの方法

 こういう時、私には取って置きの方法がある。風呂に飛び込むのである。わが家には幸い、すこしぜいたくだが、24時間風呂である。いや、このことのためにこそ、用意したのであるのだが。風呂に飛び込んで、お湯を浴びる。

 手をあげて、湯しぶきをあびる。そして「ワッハッハ」と大きな声で笑う。大きな口を開ける。体をゆすって、両手を振り回すです。「主よー、ワッハッハ」と笑い声を浴室に一杯みたす。頭から憂欝な気分が一掃されるのが分かります。喜びが心に満ちてくる。思わず「主よ、賛美しまーす」と叫び始めるのです。

 詩篇に「主にあって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)というみ言葉があります。この訳文は文語訳でもそうですが、「喜びを意志をもって造り出せ」というように感じる所がある。

 私はこのみ言葉によって。無理に口をこじあけて「ワッハッハ」と笑ってみようと思ったのです。これが「ワッハッハ」の笑う習慣作り始めたきっかけでした。
 (リバイバル新聞2000.7.2.「ワッハッハ元気の出るコラム」より転載)

 

−編集余禄−

お知らせ欄でミッションバラバの吉田芳幸さんと中島哲夫さんの本を推薦した。二つとも良い本です。ご購読をお勧めします。私の考えでは「親分はイエス様」を見る前にこの本を読んでおくと良い思います。映画には描いてない大事なことが、この二つの本に出ています。お知らせ欄の案内文にも書いておいたボーンアゲインのことです。ボーンアゲインという言葉は最近は使われなくなったようですが、私がしばしば使う「回心」のことです。▼もっとも、回心という言葉は、もっと単純な信仰の決心の意味に使うこともあります。あるいは、聖霊経験と呼び替えてもよいのですが、人によって理解が違うようです。私の言いたいのはアウグスチヌスや、ジョン・ウェスレー、ハドソン・テーラーや、チャールス・フィニーなどの伝記に出てくる、彼らの鋭角的な心理的体験です。もっと、更に激しい興奮を伴う例がウイリアム・ジェームスの「宗教経験の諸相」には出てきます。この本は賀川豊先生も熱心に読んだと聞いています。私自身のことを言えば、フと気がついたという程度の弱い意識転換でしかありませんでしたが、それでも自分の深い意識の底で主の働きによって明確な転換が起こったという確信は六十年近くたった今日も変わりません。▼総称すると、聖潔の経験とか、聖霊の充満、火のバプテスマ等々、聖霊経験は幾つもあると私は思っているのだが、「一回しか無いんだ」という人もあり、「二回だけだ」という人もあり、「いやそんなものはなくても良い、義認信仰一本だ」、と言い切る人もいて、そう言い切っている言葉に何か厳粛な確信を感じさせる人もいるものです。▼最近、旧友のK君が来て、「私は『回心』とも違う、私のは『聖霊のゆすぶり』だった」などと言う。聖霊体験は共通するものがありながら、個人差がある。「聖霊によらなければイエスを主と呼ぶことは出来ない」と聖書にあるとおり、信仰はすべて神秘なことである。その宗教心理学的な範疇で言えば、禅宗やヨガの悟りは似た境地であろう。しかしキリスト教の特徴は神とキリストと私の人格性にある。この人格が人格を呼び「さあ、我に来たれ、汝の魂は安きを得ん」と招きたもう所にキリスト教がある。 

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