キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2001年8月

2001/8/26

告白の力、聖霊の力  

 先週は、「思いを変え、考えを変えよ。そうすれば、あなたの人生が変わる。その秘訣はコトバの活用にある」とでも言いましょうか、そういう纏め方で、今回のキックオフ聖会における第一聖会、第二聖会のコン・ヒー先生の中心主題をご紹介したつもりです。

 これは私が年来、主張してきた「告白の力」と全く同じ内容と言えましたから、そして又、前日の佐多先生の講演も同様だったので、私の驚きと喜びは連続的でした。

 ところで、こうした原稿を書いて数日後、一昨日のことです。ある人が相談に来たのです。「見知らぬ不審の男が何故か私を狙っている様子で、不安なのです。実際の行為は何もないので、警察に訴えようもありません。一人でおびえています。この恐怖から抜け出すには、どう祈ったらよいでしょうか」

 私は答えました。「こういう信仰を持ちましょう。『如何なる悪魔どもも私を襲うことは絶対出来ない。神の力が私の内にある』と」。

 あのパウロにも似た経験がありました。使徒行伝を見ると、パウロはコリントの町で、暴力団に襲われはしまいか、と心配していました。その時のことを、次のように聖書は書いてあります。

 「ある夜、幻のうちに主がパウロに現れて言われた。『恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、私がついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町にはわたしの民が大ぜいいる』」(使徒行伝18:9、10)と。

 私はこの「語りつづけよ、黙っているな」、というイエス様のお言葉を「信仰の言葉を語りつづけよ、口を開いて言い続けよ」という意味に取るのです。そして、「この町には私(イエス様)の天使たちが大ぜいいる、彼らはお前の味方だ」というように読むのです。

 これは「告白(言葉で信仰を言い表すこと)を繰り返しなさい」、といういつもの私の主張です。聖書の「言葉には人の魂を救う力はある」(ヤコブ1:21参照)という言葉を示して、そして言いました。

「『主にあって私は日毎に新しい力を与えられる』と、時間のある毎に、繰り返し口で言いつづけましょう。必ず、心が不思議に元気づけられ、勇気が出て、恐れが消えて行きます」と。

 こう言って、その方を励まし、また、一緒に祈ってあげた後、以上の言葉を私も一緒になって何度も大きな声で叫んだことです。

 この「私は主にあって日毎に新しい力を受ける」、こうした言葉を百遍も二百遍も大きな声で叫んでいると、不思議に心の底から力が湧いてくるものです。この言葉は私がイザヤ書40:31と第二コリント4:16の聖句を合成して作った言葉ですが、もちろん他の聖句を使っても良いのです。

 例えば、「私を強くしてくださる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)。「人には出来ないが、神には出来る。神はなんでも出来るからである」(マルコ10:27)「信ずる者には、どんな事でもできる」(マルコ9:23)などと、聖書には沢山ありますね。

 さて、その人は私の勧めを聞き、「はい、毎日この言葉を口に出して言います」と言って、元気よく、明るい顔をして帰って行きました。今日ごろ、よい知らせを持って来るだろうと期待して待っているところです。 結論はコトバの力です。信仰の告白を続けましょう、かならず、勝利の人生を送れます。もちろん、信仰の基礎は、イエス様による救いの御業です。この信仰に堅く立って、明るい積極的な良い思いと考えを持ち続けましょう。今回、コン・ヒー先生が繰り返し言ったことです。

              *

 私たちの信仰を強く保つために、神様は更に大きな別の方法を持っておられます。それがコン・ヒー先生の第三回聖会のメッセージでした。それは聖霊の賜物、特に異言についてのメッセージでした。今回の五回の聖会の中心メッセージであったかもしれません。(先日の会場で、すでに先生のメッセージを聞いている方にもお勧めします。もうすぐ、テープが届くでしょうから、何度も、じっくり聞いてください。)

 聖霊の賜物とは、神様から頂く霊的力です。聖霊の賜物のことは第一コリント12:4以下にパウロが書いています。知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒しの賜物、力あるわざ、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解く力、以上九つです。

 この九つの賜物の中でも、異言はもっとも初歩的で普遍的な賜物です。聖霊の賜物の「入門的な恵み」とも言えます。使徒行伝の2:4や10:4を読みますと、集会に参加していた人たちは、一人残らず、みんなこの恵みに預かったとあります。すべての人が頂けたのです。

 異言は、それを語るものの「徳を高める」と聖書にあります(第一コリント14:4参照)。「徳を高める」という言葉の原語は「建てあげる」という建築用語です。つまり、信仰者のあらゆる面を強力に保護成長させる力であると理解できます。(聖書のここの個所で、預言にくらべて異言が低く評価しているように感じることがありますが、異言は信徒個人の信仰を建て上げるすばらしい賜物なのです)。

 第一コリント12:10や29に「種々の異言」と書いてあることに注意しましょう。異言には、その他の「種々」の驚くべき効果も沢山、備わっているということです。今回の聖会でコン・ヒー先生がおっしゃった、そのリストを次に挙げます。

 まず第一は、今述べた「異言を語る者、彼自身を力づける効果」です。それは携帯電話のバッテリーに例えることができます。バッテリーが弱った携帯電話は電力をチャージする必要があります。異言は私たちの欠乏した私たちの信仰エネルギーを回復・増殖させてくれるのです。

 第二、異言は賛美です(使徒行伝10:46参照)。賛美できそうもない環境や条件にある時にも異言を語っていると賛美が湧いて来ます。

 第三、異言は「とりなし」です(ローマ8:26)。誰かのために取り成しの祈りをしたいとは思うけれど、なんと祈っていいか分からない。そんな時、異言で祈りましょう。聖霊様が適切に、その人のために効果ある「うめき」の祈りをしてくれるのです。ヨハネ11:33、39の「イエス様が激しく感動する」という言葉の原語も「うめく」です。

 第四、異言は霊の戦いの武具です。エペソ6:11以下に悪魔との戦いの武具が書かれています。これらの武具はもちろん重要です。しかし、それに加えてパウロは「どんな時にも御霊によって祈り」と言います。 御霊によって祈るとは、異言の祈りのことです。悪魔との戦いの場は霊の次元です。聖霊様の助けがなければ勝利はありません。

 第五は、人を励ます異言です。聖書に預言の務めを、「人に語って、その徳を高め、彼を励まし、慰める」(第一コリント14:3)こととあります。この務めが異言の場合にも起こることがあります。大変重要で、もっと多く求められてよい異言の分野です。この異言の場合は、解き明かしが必要です。通常の異言は、神に向かって語るのであって、人には通じません。ですから、異言を人に対して語られる時は、かならず「解き明かし」が必要なのです。 

 

2001/8/19

21世紀キックオフ九州聖会の恵み 

 今回の「21世紀キックオフ九州聖会」の講師コン・ヒー先生のメッセージで、初めの第1聖会、第2聖会で驚かされたのは、ここ10年、私の繰り返し言い続けてきた「コトバの告白で思いを変える」という主題を先生が語ってくれたことでした。いや、これは永井明先生や万代先生が長いあいだ強調しつづけてきたことです。その源流はT・L・オズボーン先生でしょうか。その後、ケネス・ヘーゲン先生が語りつづけています。また20数年前、日本において、これを語って牧師を含めて多くのクリスチャンを驚倒させたのは趙ヨンギ先生でした。

 私が書いた小冊子「笑えば必ず幸福になる」や「だれでも出来る心の強化法」も、この主題の延長線上にあります。また、かつて「恵みの雨」誌上に連載した「告白の力」は、この主題そのものです。

 これは実技(?)的にはコトバの活用法です。単純なノウハウですから、高踏派の神学者からは軽くあしらわれる恐れがあります、「やあ、ハウツウものか」と。「『超』整理法」の野口悠紀雄さんが大衆向きの本を出すと、同僚の教授連から「先生、またハウツウものを出しましたね」と、どこか冷笑ぎみに挨拶されるそうですが、野口さんは言う、「ホンモノを掴んでいなくて、どうしてハウツウものが書けるか」と。

 私も野口悠紀雄教授ではないが、「笑えば必ず幸福になる」なんて、軽い名前の冊子を書きます。みんなに読んでほしいからです。「ワッハッハ」と笑うのも一つの告白ですよ。リバイバル新聞のコラムで繰り返し書いていますが、「ワッハッハ」と笑うだけでは信仰とは関係の無いことでしょう。しかし、聖霊による笑いを受け入れやすい「受け皿」となります。信仰を強化し増幅し拡大する道具にもなります。まして、信仰の言葉、聖書の言葉は、信仰を深め、高め、また増加(*)させる良い道具になるのです。(信仰の増加という言葉は不思議な言葉でしょうが、イエス様が弟子たちに彼らの信仰が「足らない」とおっしゃったのは、その辺のことです。多くの方の信仰は、その量が足りないし、その数が少ないと評しても過言ではないのです。マタイ17:20参照)。

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 実は「21世紀キックオフ九州聖会」の前日、福岡県の豊前バイブル・チャーチで行われた佐多洋明先生の「子育ての勘所」講演会に出席してきました。すばらしかったです。そして、今回のコン・ヒー先生の第1聖会、第2聖会で強調された「コトバの告白で思いを変える」という主題が一致していましたから驚きました。実際、佐多先生も今回の聖会に来ておられ、一緒になりましたから、先生と顔を見合わせて、驚きと喜びを共にしたことです。

 佐多先生は鹿児島リバイバル・チャーチの牧師です。10年ほど前、佐多先生のご長男が東大医学部に現役でストレートで合格しました。このご長男は高校時代、塾にも行かず、家庭教師にもつかず、教会では父親の牧会を助け、学校のクラブ活動にも積極的に参加していたというのですから驚きです。その後、次男のご子息も同様にストレートで東大医学部に合格しました。そこで、鹿児島県の教育員会の先生がたが、先生の子育てと教育観を聞いて感動しました。今、先生は鹿児島県下の小中高の学校PTAで「子育てと家庭と教育」の講演をしているのです。

 ご長男だったか、中学時代、ほかの学科は非常に成績がよいのに、社会科だけ60点でした。そこで、先生はそのお子さんに「私は社会科が得意だ」と声を上げて何べんも叫ばせたそうです。そうすると、なんと見事に社会科が最高点になった。最近、そのことをご長男に言ったら、「いや、僕は昔から社会科が好きだったよ」と答えたので、佐多先生はダーッとなったそうです。まだ面白い実践例がたくさんあります。

 こういう風に先生のお話も実際的で聞いて為になります。今秋か来年、先生を大分に招きたいですね。

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 さて、コン・ヒー先生の第1回聖会、第2回聖会でのメッセージの圧巻は、「霊、魂(心)、体」の三層図による人間の存在様式の説明です。これも実は私のよく言ってきたことですが、私は円形で説明するのに比してコン・ヒー先生は三角形です。三角形のほうが霊が人間の土台であるということが視覚的にわかります。(残念ながら図面は省きます)

 日本語としては、霊魂と言って霊と魂は同じことのようですが、聖書では歴然と違います。霊は人間のもっとも奥深い場所です。自分では自覚できません。魂は人の全体から肉体を取り去って後に残るもの、それが魂です。魂を分けると、意志、感情、知性などと分けることができますが、混然としていて、その境ははっきりしません。

 聖書で心という時、情緒的な面をさしますが、また霊に密着した深いところを差すことがあります。エペソ4:23の「心の深みまで新たにされて」という時の心がそれです。そしてその「深み」という言葉が原語では「霊」なのです。

 また箴言20:27の「人の魂は主のともしびであり、人の心の奥を探る」という言葉も、この辺の消息を語ります。人の心の奥は「霊」です。霊は神様の言葉を受信する場所です。その御言葉が光を放つと、魂は灯火のように心の奥まで照らしてくれるのです。

 さらに箴言27:19では「水にうつせば顔と顔が応じるように、人の心はその人をうつす」と言います。人は自分で自分を意識し、自分と自分が対話できる存在です。ここに人が自己を励まし、また自己を訓練し、自己に命令さえする、生物界ただ一つの尊い存在として造られていることが分かります。

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 ところで、コン・ヒー先生の「思いを変えよ」という教えは、非常に傑出したものでした。これまで私たちの間で言われてきたことと同じ内容ながら、説明の切り口が新鮮で、理解しやすく、実践的です。

 前出の三層図で、まず魂の一番底、霊に直接つながっている心において信仰(信念)が確固としていれば、思いがしっかりして、ふらつきません。もし、ふらつくようなら、信仰(信念)に合わせて思いを変える必要があります。英語でいうと、心はハートです。思いはマインドです。

 ここでコン・ヒー先生は思いを変えると、考えも変わる、と言います。「考え」とは英語でシンキングのことです。よく、ビジネスマン講習会などで積極哲学の用語を使ってポジティブ・シンキングなどと言いますが、その土台となる心の信仰(信念)や、鉄筋か鉄骨にあたる「思い」が強くないと、土台が無く、鉄筋や鉄骨もはいっていないビル、ポジティブ・シンキングだけでは泥に乗った骨格の無い恐竜のようなものです。

 思い(マインド)を全体構造に対するイメージ設計とすれば、それを具体化するのが考えです。考えは隅々、端々まできっちり組み込む材料に似ています。生活の隅々、端々まで考え(シンキング)の筋道が決まると、日常生活のすべての面が、活き活きと変わってきます。ライフスタイルが変わるのです。信仰の気配り、聖霊様のパワーが人生全体に充実して、信仰の効果が現れてきます。生活を栄化することになるのです。 

 

2001/8/12

キリスト処女懐胎の奇蹟  

 あまり知られていない名前だと思うが、私の信仰の恩人に原田美実という方がおられた。その霊的人格が凄いのである。もっと、もっと皆さんに知って欲しい方であった。まだお若いころの先生に、こんな言葉がある。

 「聖書の言葉は私をだました。こう言うと、人は私を不思議なことを言うと思うだろうが、私の経験上、事実そのとおりであった」と。

 先生は、聖書を読みさえすれば、自分は立派な人間になるであろうと思っていた。聖書は人が聖人君子になる道を教える教科書に違いないと思っていたからです。

 ところが先生が実際に聖書を読んで行くうちに、とんでもない。聖書は先生を突き倒し、先生を踏み殺さんばかりの怖い本となった。

 多くの人にとって、聖書の言葉は耳ざわりの良い美しい人生の箴言かもしれない。またある人々には味気ない古くさい教訓書にすぎないかも知れない。しかし、先生にとっては、それはカミソリの刃のようであった。それを呑み込むと、その言葉に先生の五臓六腑は切り刻まれるような思いがするのであった。

          *

 聖書の道徳論は動機論的であると言えよう。イエス様は「人に対して怒りを心に抱き、あるいは『お前は馬鹿だ』と言ったりすれば、その人は地獄に行く」。更に「情欲を抱いて女を見るものは姦淫を犯しているのだ」とまで、おっしゃる。結論は「あなたがたは天の父の完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」ということです。

 「そんなことできますか」、とふくれっ面で抗議しようとすると、使徒パウロ先生が追い討ちをかけてくる。

「義人なし、一人もなし。悟りある者なく、神を求むる者なし。善をなす者なし、一人だになし」(ローマ3:10,11)などと。

 私の親友A君が残したメモが私の手もとにある。「私の生涯を振り返れば、悪のみである。この寸前までも悪のみである。もはや私は死ぬほかはないと思う。死んでこの悪が赦されるわけではないが、しかし一刻も早く、この悪の人生にピリオドを打ちたいのだ」。 こう書き残して彼は自殺してしまった。

 自分の悪を見て見ぬ振りをすれば、彼はそのままで生きて行けただろう。しかし彼は自分の悪から目をそむけることができなかった。そして、自ら死んでしまった。
 私は途方にくれた。A君の自殺は私に大きな印刻を与えた。その時から、私は聖書を開かずには居れなくなった。

 私はクリスチャン・ホームに生まれたので聖書はいつもそばにあった、しかし、聖書の世界は私に縁遠く見えていた。また理解しがたかった。時には童話の本のように一時的に慰めを与えてくれても、本当の生きた命は与えてくれなかったのです。

 このようにして、聖書を読み始めると、聖書の言葉が私を徐々に責め始めた。先に書いた原田先生のように。使徒パウロは言う。「聖書の戒めに『むさぼるな』という言葉がなかったら、私は『むさぼり』ということを知らなかったはずだ。しかし『むさぼる』という言葉を知ったばかりに『むさぼり』の心が私の内に起こり、私は死に、罪が私の内に生きたのである」(ローマ7:9〜11参照)

          *

 ある日、マタイによる福音書第1章18節を読んだ。

「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった」、この言葉が私を貫いた。

 カトリック教会では母マリヤを無原罪の神の母と呼ぶ。尊いイエス様を受胎したマリヤ様だもの、彼女に罪などあるはずはない、というわけです。気持ちは十分わかりますね。 しかしマリヤを無原罪の方と呼ぶのは贔屓の引き倒しです。やはり、彼女は人間の生まれながらの罪に泣く女の一人です。その彼女に神の御子、イエス・キリストが宿り給うたのです。そうです、宿るはずもない処女マリヤの胎に神の御子キリストは宿ったのです。

 聖霊によって、この私の身にも主イエス様は宿って下さることは可能である。そう気づいた時、私の心は奮い立ちました。そして私はますます聖書を本気で読み始めたのです。イエス様は私の心を開き始めていました。私の救いは近づいていました。 

 

 

私の本が出そうです

  一昨年、私の喜寿を祝ってくださった時に、集まった皆さんに私の文集を出版するお約束をしました。しかし、怠け者の私は、なかなか原稿が出来ません。原稿と言っても書下しでなくてよい、古い原稿をまとめれば良いと勝手に考えて承諾したのですが、実際に手をつけようとすると、どうも難しい。
  そこへ、もの凄い助っ人が現われました。私のこの窮状を知ってか知らずにか、たぶんご存じでなかったでしょうに。 「私に先生の文集の編集をさせてくれ」とおっしゃる奇特な方が現われたのです。ご存じCTC(クリスチャン・トレイニング・センター)の古林三樹也先生です。それはもう願ったり、かなったりの編集の名手です。
  それにしても、こういうお申し出は、なんとも恐れ多い。私も一応、殊勝な顔をして遠慮してみせたのですが、なんの、なんの、そんな一時の見てくれの顔がすぐに崩れてしまう。私はうれしくてたまらないので、もったいぶった遠慮顔は一遍に引っ込んで、「先生、お願いします、お願いします」と、お辞儀ばかりです。
  この五月に古林先生が大分に来られて、かねて構想中だった先生を講師にしてのマンガ教室もキャンセルしたのみか、私の教会でも何ひとつ集会もしないで、その上、先生を誘惑して別府鉄輪(かんなわ)の湯治旅館に泊まり込んで、先生のご自慢の料理を頂いた。私はただただ御馳走にあずかるだけという無礼千万さ。
  この鉄輪(かんなわ)の湯治旅館は、温泉の噴気で燃料なしで煮炊きできる昔からの自炊旅館です。先年、永井明先生にも、お世話になって食事のおもてなしを受けたことがあるのです。私は悠々寝て御馳走になるだけでしたね。
  この旅館で私は、私が気に入って買った赤瀬川隼の本を前にポーズしたのを古林先生が写真に取ってくれました。というのも古林先生が無理矢理私を書店に連れていって私の気に入った装丁の本を選ばせ、それが赤瀬川のその本だったのです。
 「釘宮先生。その本を毎日見て、この選集がうまくできあがるようにと祈ってくださいよ」とおっしゃる。うまい!、イメージ祈祷法です。この本が出たら、読んでくださいね。

 

2001/8/5

平和をつくりだす人たち 

 明日はヒロシマの原爆の日である。私はあの終戦の年の1月21日に福岡の刑務所を出た。不思議にと言おうか、奇蹟と言おうか、当時の私に、出所後すぐに召集でも来そうなものだが、来なかった。

 ともかく、あの時代、大分市内を歩いても、私のような青年は一人も居なかった。毎日の空襲で市民は緊張していたが、おびえていたとは思えない。人の心は案外、強靭である。そこへ広島空襲のニュース。

 大本営発表は言わく、「敵の新型爆弾で、相当の被害を受けた、云々」、広島はひどい損害だぞと、その時、思った。その先月の17日に受けた大分市の空襲では、ほとんど全市丸焼けの被害だったが、それでも大本営発表は「損害軽微なり」というのだったから、「相当の被害」というのは、こりゃあひどいぞ、と思うのである。

 その翌日か、2日目には、もう「広島のあれはゲンシ爆弾だったという話だ」というデマが飛んだ。これはデマではない。ホンマのことだ。こういう人の口による噂というものの伝わる速さに驚いたものです。

 ともかく、このヒロシマとナガサキの原爆が日本に降伏を決心させるきっかけとなった。この原爆がなければ、日本はもっと長く戦争をつづけ、日本人はもっと悲惨な経験をせざるを得なかったであろう。「原爆投下は、やむを得ないアメリカの決断だったと思う」、というのが大方のアメリカ人の意識であろうか。

 これはアメリカ人の自己欺瞞だと日本人は憤慨する。その日本人はしかし「大東亜戦争によってアジアの解放と独立がもたらされた。大東亜戦争は決して悪くなかった」などと同工異曲の詭弁を吐く。今度は南京30万の虐殺を非難される、また言い返す。アメリカは広島60万の非戦闘員を殺したではないか、東京はじめ全国主要都市を絨毯爆撃した、これ全く非人道的であると。

 ところで広島原爆については、韓国の人たちの正直な心情は、やはりアメリカ人に似たところがあるという。あの原爆がなければ、もっと日本の非情暴虐な韓国支配は続いたであろう、あれはやむを得ない天の配剤であった、というのです。アメリカ人の言い分には納得しがたい私たちの心も、韓国人の感懷にはなぜか、うなずけるものがある。「韓国の方々、私たちの国が負けて良かったですね」と言いたくなる。不思議ですね。

 かつて、冷戦という言葉があった。私は言った。「冷戦でもいい。熱い戦争よりは良い」。同様に「冷たい戦争よりは、たとえ冷たい平和でも、平和のほうが良い」。今、国際社会は「冷たい平和」の時代であろうか。これを変えて「熱い平和」の時代としたいものである。

 イエス様は言われた。「幸いなるかな。平和を造りだす人たち。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ福音書5:9私訳)。「平和を造りだす人たち」というイエス様の言葉は示唆に富む。単に「平和な人」と言うのではない。戦いや不信や憎しみのある所に「平和を作り出す」積極的平和工作人たち、それはどんな人たちか。私たちはここで、ガンジーやマルティン・ルーサー・キングを思い出したりするが、しかし、もっと身近に、貧しい村落に、都会の町蔭に、満員の電車の中に、彼らは居るのではなかろうか。ところで、

 真の「平和を造りだす」方は一人しかいない。イエス様である。「私はその方の弟子だ」と言う人よ、あなたは、その「平和を造りだす」人たちになるべきでないでしょうか。あなたの今、居る所で、「平和を造りだす」戦いがあるに違いありません。(今回は重い主題でしたが、つい随筆風に書いてしまった、ご免なすって。) 

 

 

八・一五特集キリスト新聞広告のこと 

 例年、キリスト新聞は8月15日の終戦日を期して平和特集を企画する。今年も私に協賛広告を依頼してきた。単なる名刺広告はしないが、こういう意図的企画には申し込むことにしている。

 そこで、先日のキリスト新聞には、その私の広告が出ていたが、深く考え込んだことがある。各方面の教団や団体から、それぞれの広告が出ているのだが、牧師個人名の広告は私以外には無いのである。どうしたことか。以前はもっと多くて、少なくとも数人の同志がいた。それが昨年あたりから、急に減ってきた感じである。

 私の広告には必ず、「平和憲法を絶対守ろう」と入れる。私はもう一つ、核廃絶という行を加えたいと思っている。平和を追及するため、広い賛成を得るため、実際的アッピールとしては絶対平和論よりは、核廃絶のほうが賛成を得やすいし、また緊急の主題だと思うからである。

 もう一つの「平和憲法を守れ」、これも現実的だと私は思う。日本が、今の自衛隊をさらに強化して、現憲法が現実に沿わなくなっても、そうであるからこそ、現実に合わせて追随する憲法改定の声に従わず、ますます理想堅持、世界無比の平和憲法を残して置きたいと思うからである。

 ある所に不和と喧嘩が止まらない困った家庭があったとする。一人のお子さんが、修学旅行に行って「和」と書いた色紙や、武者小路実篤の「仲良きことは美しきかな」という額を買って来たとする。「わあ、これいいじゃない。坊主、いいお土産ありがとう。おれんちにぴったりだ」と言ったとして、これを笑えれるだろうか。

 お母さんも「本当ねえ」と言ったら、「バカな、いつも喧嘩ばかりしておって……」と嗤う人もいるだろうが、しかし「そうだ、そうだ、仲良きことは美しきかな、だ」と励ます人も居るかも知れない。少なくとも神様は喜んでくださると思う。たとえ、その夜、また毎夜のごとく、その家に喧嘩が始まったとしても。

 憲法はこの家の「和」という色紙みたいなものである。これがなくなったら、おしまいである。 

 

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