キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2001年11月

2001/11/25

「喜べ、恵まれたる者よ、主があなたの内におられる」

− ルカによる福音書第1、第2講 −

 先々週の礼拝から、毎週「ルカによる福音書」の連続メッセージを始めることに、私は自分できめていました。ところが第一週でさっそく失敗でした。S兄の証しに感動して、私はメッセージが脇にそれてしまい、予定した分量を四分の一も話せませんでした。そこで、先週の第二週では、第一週の残りの分も一緒にしての急いだメッセージになりました。聖書の個所は「ルカによる福音書」第1章1節から38節までになります。

 この書は医者ルカが書きました。最初のほうに、この書を書いた目的と、聖書の文書としては珍しい「献呈の辞」が載っています。献呈の相手は当時のローマの高級官僚らしいテオピロという人です。高級官僚らしいというのは「テオピロ閣よ」とになどと呼んで居るからです。同じ筆者ルカによる使徒行伝では「テオピロよ」と呼び捨てです。ルカが使徒行伝を書く時には既に親しい関係になって居たことが分かります。

 なお、「この福音書を書いた目的は、これまであなたが聞いてきたイエス様に関することは皆、真実であったと知ってほしいからだ」とあります。今、私たちにとって聖書が与えられている理由も同じです。聖書は私たちが聞いたきた福音の言葉の証言者であります。

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 5節から25節までは、年老いたザカリヤという祭司が天使ガブリエルの約束の言葉を聞いて、その約束を信じなかったので、罰というか、懲らしめというか、言葉を語れなくなった(現代語で言えば失語症でしょうか)、という記事です。その約束というのは、うまずめと言われた妻のエリサベツに赤ちゃんが生まれるということです。その赤ちゃんは後に預言者バプテスマのヨハネになる人です。

 ザカリヤは天使様の言葉を聞いて、仰天して「年老いた私たちにどうして子どもが出来るなんてことがありましょう」と思わず言ってしまったのです。これを「お前は不信仰だ」と責めるのは少々気の毒な感じもしますが、しかし一般市民ではない神に仕える祭司ではありませんか、天使ガブリエルがザカリヤを叱るのは尤もであります。

 最初に天使ガブリエルが「ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き入れられたのだ」とザカリヤに向かって言っています。思うに、ザカリヤは確かに心の中で無意識に子どもが欲しいと思っていたのでしょうが、それほど明確には祈っていなかったかも知れません。だから天使ガブリエルから「あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう」と聞いてびっくりするのです。

 私たちの祈りには往々にして、そういう無責任なところがあります。使徒行伝第12章1節以下にペテロがヘロデ王によって捕らえられ獄に入れられ時の記事があります。教会ではその時ペテロのため熱心に祈っていました。神様は確かにその祈りに答えられました。天使の手によって彼は奇蹟的に獄から解放されるのです。そして皆のいる家にペテロがたどりつくと、迎えに出た女中さんがペテロと知ってびっくり、ペテロをそのまま屋外において、あわてて部屋の中に飛び込んで、「みなさん、ペテロ先生が帰ってきました」と報告したものです。しかし、誰もそれを信じなかったと聖書にあります。あれほど熱心に祈ったはずの信者たちが、その祈りが答えられてペテロがそこに帰ってきても信じられません。それが人間というものでしょうか。天使様がザカリヤをお叱りになるのは酷なような気もしますね。

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 ところで、この第1章節以下は有名なマリヤに対する受胎告知です。この時、マリヤは「どうしてそんなことが起こるでしょう」とやはり天使様の言葉が信じられません。しかし、マリヤは叱られません。なぜでしょう。私の思うのに、処女マリヤにとっては、自分に子どもが産まれるなんて驚天動地のことで、到底信じられないのは当然のことだっただからだろうと思います。その点、ザカリヤは心の中に少しでも祈った形跡はあったということです、だから、天使ガブリエルに責められるのです。

 ここで、考えてみたいのは、ザカリヤの場合、浅い小さい信仰の祈りではあっても、神様は過大に祈りに答えてくださった。ところが、マリヤの場合は、微塵も祈りも無く、思ったこともないなことであるのに、神はこれに答えられた。

 私もかつて、「一瞬も途切れることなく、神様にむかって祈りつづける、仕事をしている時も、映画を見ている時も、やすみなく主に祈っている、そういう思いもよらない境地」を与えられたことがありました。それは、一年か二年つづきましたが、私は本当に驚きました。今、思い出しても神秘な感じです。神様はその子らの求める事に答えて、それを与えてくださる。それが原則です(マタイ9:38、7:7、エレミヤ33:3参照)。しかし、特別の恩寵の時がある。求めてもいなかったことを、神様は与えてくださるのです。それがマリヤの場合でした。

 マリヤは一度は驚いて、「どうしてそんなことがおこるでしょう」と天使に反問しました。しかし、天使ガブリエルは彼女を叱るどころか、親切に教えてくれます。一つは聖霊があなたにのぞみ、いと高き神の力があなたを覆うのだということです。もう一つは親族の間で評判になっているエリサベツの妊娠の奇蹟を証例にあげました。
 マリヤという人はじっくり思いめぐらす人です(ルカ1:29、2:19、2:51参照)。初めに天使は言いました。「その子をイエスと名づけなさい。彼はいと高き神の子ととなえられるでしょう、云々」。それのことを、思いめぐらした末、マリヤは言いました。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。この言葉を聞いて、天使ガブリエル安心して彼女から離れて行きます。

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 先に天使ガブリエルがマリヤに「あなたはみごもって男の子をうむでしょう」(ルカ1:31)とか、「いと高き者の子と、となえられるでしょう」(ルカ1:32)」」とか、「神の子ととなえられるでしょう」(ルカ1:35)とか聖書にありますが、この時の言葉はすべて原典のギリシャ語では本当に「……でしょう」という未来形です。まだマリヤの胎にはイエス様の命は宿っていなかった時です。マリヤが「お言葉どおりこの身に成りますように」と告白したとき、はじめて神の聖霊はマリヤに宿り、神の力が彼女を覆います。天使ガブリエル安心して天に帰って行ったのです。

 「その宿りし子はイエスと名付けなさい」と天使は言いました。私たちもイエス様に向かって、「主よ、私の中においでください。救いのお約束の言葉が私の身になりますように」とあなたの唇をもって告白してください。この告白の唇を開く時、この教会でも原兄はよく言いました、「今、あなた心の扉が開きました。イエス様があなたの心の中には入りました」と。こうして神の子が生れます。あなたの中のイエス様の命がやどり、あなたはあたらしい人になります(第二コリント5:17参照)。

 最後にタイトル「喜べ、恵まれたる者よ、主があなたの内におられる」という言葉について一言。ルカ1:28の天使祝福の言葉です。この聖句を私なりに恐れげも無く訳してみました。「喜べ」は原語命令形を忠実に訳したつもりです。「主があなたの内におられる」の「内に」は一般の邦語訳では「共に」となっており、英訳では “with" が普通のようですが、私は「あなた」の前置詞が「メタ」なので「真中に」と解して「内に」としました。 (2001.11.11,18主日礼拝メッセージ概要)

 

2001/11/18

祈祷の秘訣  

 今回は「祈祷の秘訣」などと大仰にタイトルをあげたけれど、実はざっくばらんに気軽に書きたいのです。祈祷についての本は山ほどある。有名な本はE・M・バウンズの「祈祷の目的」でしょう。この本の初版は1925年(大正14年)、名著です。同じ著者の「祈祷の力」も有名です。このバウンズの本には祈祷の英雄というか、祈りの鉄人というか、そういう人たちが山ほど出てきて、私たちを発奮させるどころか、気落ちさえさせる。

 知る人ぞ知る、祈りと瞑想の人だった桜井信市先生が夜行列車に乗っていて、この本を読んでいた。一夜、8時間祈っていて、まだ祈り足らないと泣きながら部屋から出てくるような凄い人物の記事が出てくる。さすがの桜井信市先生も「これはたまらん、バウンズの奴、くたばれ」と、その本を列車の窓から投げ捨てたと言う。今と違って窓ガラスの上げ下げができる汽車ポッポの時代だ。桜井先生一流の逆説的表現とは思うが、その気持ちは私にはよく分かる。

 「ジョージ・ミューラーの祈り」という、あの2000人の孤児を養ったジョージ・ミューラーの伝記はよい本であるが、その彼の祈りの実際についてだけ編集した本があった。これもよかった。10年ほど前、早天祈祷会でこの本を毎朝少しづつ朗読してみなさんに聞いてもらったことがある。

 「祈りのハイド」という本がある。18世紀から19世紀にかけてインドにつかわされたアメリカ人宣教師です。彼は本のタイトルのとおり、祈りの人であった。私が注目させられたのは、彼がある時、祈っていて神様から「笑いの霊」を与えられたという。彼は、我らの神はイサク(笑い)の神であると言い、又、箴言8:30によって、神の家の子は「毎日喜び、いつも御前で楽しむ」のは当然である、と言っている。このように、祈りが高揚して「笑い」になることがある。一種の瞑想に近づくのである。

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 今朝(11月17日)、私は3時に目が覚めて、事務室でちょっと仕事。4時になって祈るために会堂に行きました。講壇の前のカーペットに坐ると、思わず笑いが込み上げた。「ワッハッハハ」。私は楽しんでイエス様に申し上げたことです。「イエス様、ありがとうございます。実は昨日はいろいろあって愉快ではありませんでした。体も疲れ果てて、ご承知のように早く寝てしまったのです」。「そうだったね、だから今朝は早く起こしたのだよ。どうだ、嬉しいだろう」。「はい、嬉しいです、しかし、キノさんが家出しているかもしれません。もう冬も近づき、寒くなりました。金もないはずです。どうしているでしょうか」。「大丈夫、安心しなさい」。笑いは対話の祈りさえ生むのです。

 キノさんはK君の女房である。昨夜、私はK君の家に行って酒に酔っぱらって寝ているK君を叩き起こして、「なんということだ」と叱った。事情はくわしく書けないが、彼は酒を飲むどころの筈ではなかったのである。しかし私は思いなおして、彼のうちにある酒の悪霊に向かって、出て行くよう命じたのだが、その時、キノさんは家にいなかった。たぶん、彼女はK君に愛想をつかして家出をしたなと思った事です。彼女にはしばしば家出する悪癖があります。

 ところで、私が「ワッハッハ」と笑って祈っているうちに5時になった頃、そのキノさんが会堂にはいってきたのです。いつもの早天祈祷会の時刻よりは早い。「やあ、あんた、居たのかい。ようもまあ、家出せんかったなあ、よかった、よかった。ワッハッハハ」、私は笑った。そこへ中野兄が来た。彼も長いこと早天祈祷会に来ていなかった。昨日、妻から厳しく言われたらしい、「明日は必ず早天祈祷会に出なさいよ、祈ってあげるから」と。実は最近、中野兄は体が異常に弱っている。医者に行っても、はかばかしくない。病気はますます悪くなるのである。そういうわけで、彼も今朝は重い足を引きづって来たのであろう。そこへ妻もやっと入ってきた。やっとと言っても、ちょうど早天祈祷会の定刻、午前5時半である。デザイナーの緒方兄も来た。

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 昨日の早天祈祷会は私たち夫婦に相良姉がきただけの3名のさびしい祈祷会だったが、どうしてどうして、淋しくなんかはない。ちょうど、ジョン・R・ライスの「祈りの秘訣」という本があったので、その1頁を読んだ。弱冠20歳代のジョン・ライスが、日照りで苦しむ農村地帯の教会で集会をもった。祈った。「神よ、24時間以内に雨を降らせてください」。その祈りに神様は答えてくださった。数十日にわたるカンカン照りの枯れ果てた作物の上に、豪然と雨が降り注いだのである。「そのような雨を今、今朝のこの祈祷会に注いでください」と、私は心に祈ったことである。

 雨といえば、雲のことを私は思った。実は、昨夜、妻と話し合ったことの一つに、「雲消し」のことがある。以下の記事を読むクリスチャンの方々は怪訝の思いがするだろうし、あるいは異端ではないか、悪魔の所業ではないかと、つまづきはしまいかと心配もするのだが、

 この際公開すると、仏教詩人の坂村真民さんは「念ずれば花開く」と言うが、私は「念ずれば雲消える」という。空を見上げて、じっと念じていると、雲が消えてゆく。これはニューエイジの人たちの気に入る事だろうと思う。聞いてみると、驚いた。妻は40年も前から面白半分に、こっそりやっていたという。そのうちに雲を増やすことすら覚え、そして雲を増やしているうちに神様からの言葉を聞くようになったという。そうしたことのおかげで、「あの貧乏や困難で苦しんだ時代を乗り越えて来れたのです」と妻は言う。あの頃、信仰一筋はいいが家庭のことは全然顧みなかった私、頭をかいた。

 この雲消しはやってみれば簡単である。誰にもできる。聞いてみたら、先日これを教えておいた中野兄も「出来ました、ちゃんと出来ました」という。何事も尻込みしやすい中野兄には珍しく、思い切って早速ためしてみたものである。これを汐になんでも実行してみる進取の気象に富んだ人になるであろう。ともかく、この雲消しの練習は精神集中のよい訓練になる。

 実は40年前のこと、先師手島先生に、「先生、祈祷の秘訣はなんでしょう」と質問したら、先生は言下に「それは、君、精神集中だよ」とおっしゃった。神学的な答えを期待していた私は、あまりにキリスト教離れのした実技的な答えにびっくりしたことを覚えている。

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 「祈祷の秘訣」というような本にはいろいろな実例、奨励が載ってはいるが、「精神集中」などという奨めは案外少ないと思う。しかし重要です。例えば、「熱心に祈れ、長く祈れ、飽かずに祈れ、徹夜で祈れ、断食して祈れ、異言で祈れ」、こうした祈りの奨めは、実際上の結果としては、精神の集中を生むのです。

 アブラハムは天の星を見、イサクは野を歩きました、このイサクの個所で、英訳聖書はしばしば「瞑想する」と訳しています。我らの永井明先生が常にご励行なさる「ウォーキング・プレイヤー」(歩行祈祷)が、それです。これは実技的に、しかも割合に容易に実行出来る瞑想法と言えます。(散歩が欝病によい所以です)。

 ワッハッハの呵々哄笑。念じて雲を消す。歩行の祈り。すべて一種の精神集中法です。祈祷の秘訣の一面とも言えましょうか。いや、長口舌でした、ご免なさい。 (2001.11.17.)

 

2001/11/11

祈ってるだけでは駄目ですか 

 私は自分の声にびっくりしました。「祈ってるだけでは駄目なんです。信仰がなければ駄目なんです」と、私が言っているのです。こんなことを言っていいものでしょうか。

 必要があって、今年の3月10日のテレホン聖書の保存テープを聞いていたのです。ところが、そのテープで私の声が真っ先に言うのです。「祈ってるだけでは駄目なんです。信仰がいるんです」と。

 こんなことを言っていいものだろうか。聖書にも「イエスは人々に、失望せずに常に祈るべきことを教えられた」(ルカ18:1参照)」とあります。しかし、格好だけの祈りを何年、いや何十年つづけても、それだけでは駄目なんだ、と私は言っているのですね。

 先日、曾野綾子さんが産経新聞に書いていました。「平和は祈りだけでは得られない」と。私は、曾野綾子さんはいつも何でもズバリ言う人だから好きなんだけれど、この時だけは、一時「こん畜生」と思いましたね。

 私が「全世界のクリスチャンたちよ、心を一つにして平和のために祈ろう。アメリカにも、タリバンにも悔い改めの心を与え、世界に平和を来たらせたまえと祈りましょう」と、強調していた時でしたから。

 しかし、よく読むと曾野さんの言うところはうなずけるのです。彼女が批判しているのはセンチメンタルな、そして格好だけに終る祈りなんです。とは言え、そうした祈りを批判するだけでは、「ああ、祈ったって駄目なのか」と一般のクリスチャンに対し、信仰を弱める影響を与えます。良くないです。

 曾野綾子さんはクリスチャンなのですから、こう言うべきでした。「米、タリバン両国に戦争をやめさせ、両国の間に平和を作り出す力ある祈りを神様に捧げましょう」と。

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 先に引用した聖書の個所では、イエス様は「失望せずに常に祈ること」を教えておられました。「失望せずに」とは、神様からのお答えがあるまで祈る、ということです。

 「神様からのお答え」とは、祈ったことが具体的に答えられた、たとえばお金の必要を祈っていたら、思わぬお金が舞込んできた、というようなことでもよろしいのですが、それが決して偶然ではなくて、全く神様のご指図からきたのだという確信が必要です。

 ですから、神様に祈って、その求めが拒絶されたとして、その拒絶が神様からきているという明確な確信があれば大丈夫なのです。

 たとえば、パウロは自分の病のために三度も祈って、神様から癒しを拒絶されました。これは正しく神様からのお答えでした。エレミヤは祖国イスラエルのための祈りについて同じような経験をしています。私たちの主イエス様だって、ゲッセマネの祈りの時、同様の経験をします。これらはすべて「聞かれなかった祈り」ではなくて、求めたことは拒否されても、チャンとした応答は神様からあったのです。神様からの応答があるまで、失望せずに祈り続けよ、ということです。

 次に、「常に祈る」とは、口で祈るか、心の中で祈るかは別として、日夜、継続して祈っているということです。第一に熱意が、これを生みます。また次の知識を持っていると祈りやすいものです。人間の心は二重、もしくは三重構造になっていて、他のことに心を使っている時にも、もう一つの心は神様に向かって祈っていることができます。だから日夜雑務の中でも継続の祈りは可能なのです。

 熱意と継続の祈りは必ず信仰を生みます。または信仰を新しくします。だから又、凡人中の凡人でも神様からの応答を聞くことができるのです。神様からの応答を聞いて初めて信仰が湧く、ということでもあるのです。

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 ヤコブの手紙5:16に「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」とあります。ここで言う義人とは、律法においてはパリサイ人、またイエス様の山上の教えを完全に実行できる人、ホーリネスの人たちが言う「聖潔の人」、そういう人のことではありません。義人とは、どういう人か。

 義人とは信仰の人です。「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17参照)のです。信仰に生きる人こそ「義人」です。信仰をもって祈る祈りが「義人の祈り」です。その祈りが悪魔の要塞を粉々に粉砕するのです。 

 

 

. 〔図書紹介〕

お勧めしたい四冊の本

 以下に、お勧めする四冊の本は、どれも読みやすくはない。しかし、特に、初めの二冊の本はぜひ読んでほしいものです。
  「大発見!主イエスの血潮」(泉パウロ著、マルコーシュ・パブリケーション発行、一七〇〇円+税)これはまあ、驚天動地の本である。ある人々には信じられないだろうと思う。しかし、三年前出た「契約の櫃(はこ)」という本を読んでいた方は、あらためて納得するでしょう。とにかく、聖書の記事には一点の謬りも無いという確信を与えてくれる本です。
  「真理はあなたを自由にする」(ルーク・カラサワ著、リバイバル新聞社発行、二〇〇〇円+税)リバイバル新聞連載中から私の最も注目し、また共感した文章です。「罪を犯すのは私ではない。私の肉のうちにある罪です」とか「単数の罪と複数の罪との区別」、そして「人間の内的存在のありかたについて」の洞察、私が長年言い続けてきたことであったし、また私の考えていた以上に深い指摘があって、私も心ときめかして読みました。聖書的人間観にもとづくカウンセリング手法として、現在得られる最高の教科書ではなかろうかと思っています。
  「円の支配者」(リチャード・A・ヴェルナー著、草思社発行、二〇〇〇円+税)著者はドイツ人、クリスチャン・エコノミストです。却って金融経済を知っている人には驚天動地の本かもしれない。詳しくはリバイバル新聞一〇月二八日号の著者インタビュー(一頁特集)を読んでください。八〇年代のバブルは日銀が作り出したものだという。こうしたことの基本的思意を神様から啓示を受けたという。一九二〇年以降の日本経済の盲点が暴かれた感じであるが、私もこの本でもっともっと学びたい。  「生命の暗号」(村上和雄著、サンマーク出版発行、一六〇〇円+税)これだけは新刊ではないし、キリスト教の本でもない。筑波大学の教授として著者の良心を賭けて書いた宇宙生命の根源を遺伝子の暗号に求める卓抜した論文です。船井幸雄氏などからよく聞く「グレート・サムシング」という言葉は、この著者から出ているらしい。この言葉では創造者なる神には行き届かないのが私の不満です。私は「グレート・パースン・オンリー」と言いたいのです。しかし、科学もここまで来たのかと、感謝。

 

 

2001/11/4

アシュラムへの誘い  

 「インド途上のキリスト」という本は戦前戦後、よく読まれました。著者はスタンレー・ジョーンズ、アメリカの人です。彼は最初インドに宣教師として派遣されました。熱心に伝道しましたが、成果をあげることができませんでした。そして神経衰弱になり、アメリカに帰りました。

 確かめたことはないですが、彼がインドに行って神経衰弱になった一つの原因はガンジーにあっただろうと思うのです。ガンジーほどクリスチャンらしい人格を備えた人はありません。しかるに彼はクリスチャンではない。

 スタンレー・ジョーンズはクリスチャンとして伝道に来たけれど、ガンジーに対抗できるほどのクリスチャンらしい力も品性もありません。彼がまともにインドで伝道しようと思うと、このガンジーが気になって仕方が無い。そして、彼は自分の信仰に失望し、神経衰弱になってしまったのではないか。

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 アメリカに帰ったスタンレー・ジョーンズは必死で祈ったことでしょう。「なぜ、私は宣教に失敗したのか」。彼は聖書に帰り、祈り、かつ反省したことでしょう。そして、彼は悟ったのです。これまで説いていたのはキリスト教だった。しかし、インドの人々が求めていたのはキリストご自身であったと。

 私は、ひょっとしたら彼はガンジーがインド流の「黙想の家」で断食瞑想している姿を想像して、それに似た黙想の時を持ったのではなかったかと思うのです。それはともかくとして、彼はついにイエス・キリストに個人的にお会いする経験を持つのです。

 スタンレー・ジョーンズは変わりました。彼はインドに帰ります。今度はキリスト教という宗教ではなく、キリストそのものを伝え始めます。インド人はキリスト教を求めて居るのでない。インド途上を歩かれる活きたキリストを求めているのだ、と彼は悟ったからです。この経験を書いたのが、名著「インド途上のキリスト」でありました。

          *

 スタンレー・ジョーンズは戦後、何度か日本に来ました。大衆伝道のビリー・グラハムとは違って、彼は日本のクリスチャンの霊性の引き上げることに目標を置きました。聖霊の賜物や祝福の信仰を強調するチョウ・ヨンギ先生とも、ベニー・ヒン先生とも違います。それが「アシュラム運動」でした。

 アシュラムとは?、そうです、あのガンジーの「黙想の家」の名前です。インド語でアシュラムというのです。私が先にスタンレー・ジョーンズはガンジーが気になって仕方なかったのではないか、などと立ち入ったことを書きましたが、それは先生が創始された信仰運動にインド語のアシュラムという名を当てたことから推測したのであります。スタンレー・ジョーンズ先生にとって捨てがたい名であったのでしょう。

 日本では特に、チイロバで有名な榎本保郎先生が率先して、この「アシュラム運動」を継承し、日本で活動されました。この榎本先生のアシュラムに私も参加したことがあります。良い集会でしたけれど、今一歩私には食いたりませんでした。

 スタンレー・ジョーンズ先生の言うアシュラムは深く沈潜して聖書の声に心の耳を傾けるというものです。榎本先生のアシュラムに出た時、それは私の浅い見方かもしれませんが、どうもみ言葉(聖書の言葉)深く聞き入るというより、知的洞察に汲々としている人々が多かったように思えたのです。それが不満でした。

 ところで今回、手束先生が指導されるアシュラムということになりますと、これは霊的な次元での開発が期待されます。義認派でもホーリネス派でない、私たちのような聖霊様の働きを重視する仲間では、み言に聞き入るというアシュラムの結果は、果たしてどんなことになるでしょう。

 そうです、アシュラム運動は私たち聖霊派において初めてその真価を発揮するのではないでしょうか。創始者のスタンレー・ジョーンズ先生も想像しなかったようなすばらしい成果をあげたいものです。かくして「日本途上のキリスト」を発見し、イエス・キリスト様と共に日本列島を歩む人々を生み出すのではないでしょうか。皆さん、私と一緒に大勢、高砂アシュラムに参加しましょう。(釘宮生)

 

 

〔テレホン聖書〕2001.11.3.

アメリカよ悔い改めよ

 小説家にして仏籍の住職、瀬戸内寂聴さんが米国の対アフガン軍事行動に反対して、抗議の断食をしているという。「それは偏り過ぎではないか、アフガンの無差別テロで無辜の市民を6千人も殺すなんて、許されるべきことではない」という、新聞投書もありました。それも尤もな意見です。しかし、私はやはり、寂聴さんの抗議の姿勢に賛成します。▼イエス様は言われます。「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことはあなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:43,44)と。「隣人を愛し、敵を憎め」とは旧約聖書の言葉です。旧約聖書はキリスト教の経典であり、またユダヤ教やイスラム教の経典でもあります。この教えに従えば、敵を憎み、敵を攻撃することは神様に許されており、また喜ばれることですらあります。故に聖戦と呼ばれるのです。▼ところがイエス様は旧約聖書の時代には神様に許され、喜ばれさえした軍事行動を否定します。却って「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われます。パウロも言います。「悪をもって悪に報いず、かえって善をもって悪に勝ちなさい。復讐はわたし(神)のすることである(ローマ12:17,19,21)と。▼イエス様はご自身の身代わりの死をもって人類の罪と罰を負いたまい、憎しみ合う互いの間から敵意を取り払って、二つの陣営の間に平和を築き、世の罪悪を清めようとされた方です(エペソ2:14参照)。このイエス様を信じるクリスチャンの国アメリカが、どうして「報復する」と威嚇し、事実そのとおりにミサイルを打ち込み、しかも誤爆を繰り返して一言の陳謝もないのでしょう。これは全くキリスト様の御心に反します。▼アメリカが今、アフガニスタンに打ち込んでいる弾薬の莫大な費用はいかほどのものか知らないが、この額をもってアフガニスタンの一国の経済を助けるとすれば、どれほどに役立つことかと私は思うのです。こうした平和のために努力することは一考の価値もないのでしょうか。市井の一部に声あり、「今回のアフガン攻撃で、死の商人の武器ストックは一掃されたかも?」。このまま、バイオ戦争が拡大すれば、地球の人類を滅亡に追い込む恐れは十分あります。

 

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