キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2002年11月

2002/11/24

(「日岡だより」第47号)

聖会の思い出(二)   

 この教会がまだまだ、家庭集会的だった時だが、第4回の特別集会が前回より8年過ぎて1975年に行われた。当時の私の身辺のことについて、ちょっと説明したい。印刷業を始めていたことは前回書いた。

 私は主のお言葉の「今回の事業は10年間だよ」という期限の、ちょうど10年目の時、大分県と中小企業庁から企業合同の勧奨が私に来た。私はその勧奨に乗った。何と言っても神様とのお約束の10年目だったので、私にとり打ってつけの条件だったのであった。もっとも、その企業合同の企てが果を結んで新工場が完成するまでには2年かかり、お約束の10年を2年過ぎてしまい、更に私がその会社を脱退するまでに2年かかった。この間に面白い話題は山ほどあるが、「聖会の思い出」には関係の無いことなので割愛する。

 それは自分自身が参画した印象深い会社であったが、1975年にそこから抜け出した。たった2年間の在職であったが、700万円の退職金をもらった。この金で現在の会堂が出来た。まだまだ物価は安かった。

 1961年に零細企業の印刷屋を始めた時から15年たっている。主との、10年のお約束の年限は5年も遅れた。神様にお詫びしたことである。すでに在職中から、私は仕事を捨てて伝道一本に生きる決心のついていた、その1975年の夏である。

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 私は既にカリスマ運動にふれていた。特に「聖会」という形態も味わいも知っていた。私は、あのような聖会を独自に開いてみたかった。その念願を果たしたのが、1975年8月13日から15日までの2泊3日、別府野口にある日本キリスト教団の「豊山荘」で持たれた聖会である。

 豊山荘というのは、小さな部屋が幾つかある、こじんまりした会場である。私たちのような小さな団体にはちょうどよい会場であり、宿舎であった。集まったのは10名そこそこであったと思う。堺市にいた長男のえりや君が婚約者の八千代さんを連れてきて、私たちをびっくりさせたのも、この時である。

 この集会で私は渾身(渾心)の力をふるって語り、祈った。最後の賛美の時、私はボクシングか、空手のように手を突き出しながら、賛美を導いたことを覚えている。その時、原兄が明らかに聖霊様に打たれた。私は満足して大分帰った。

 その後、私はいつもはおとなしい中野高代姉から聞いた。彼女が聖会からの帰り。別府大分間の10号線を車で通る時、高崎山の木々の葉っぱが一枚一枚、輝いて見えたという。今でも、当教会における語り草である。高代さんは遠慮深い人で、本当のことであっても人の前で自分の経験を声に出して話せる人では決してない。

 その日から3日して、主日礼拝のなかで、二女のせつこが回心した。聖霊の息吹はまだ、私たちの中にとどまっていたのであろう。

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 その年、晩秋から教会堂の建設が始まり、年末のクリスマス礼拝は新会堂でしたと思うけれど(入堂式という式をする慣わしを私は知らなかった)、正式の献堂式は翌年、1976年(昭和51年)2月22日に行った。式辞を当時の日本キリスト教団四国教区長野町良夫先生にして頂いた。野町先生はいわゆる日キ教団の先生ではあるが、私たちと相通じる霊的な感覚があったのである。先生は言った。「ただ、釘宮君、県下の他の牧師の先生がたと仲良くしてくれたまえ」。「勿論です」、と私は答えた。

 この時の珍しい祝辞は当時の大分県知事立木勝氏であった。立木さんは私の大分駅における戦災孤児保護の時からの同志愛的つながりがある。当時、小学生の立木稠子さんが「私は讃美歌歌手になりたい」とお父さんの立木さんに言ったそうで、立木さんが私に「讃美歌歌手なんて、あるものですか」と問われことがある。(先週日曜日の夜、別府のカトリック教会で稠子さんの「教会コンサート〈祈りの歌の夕べ〉が催された。フランスでは教会や修道院などでしばしば賛美の奉仕を求められる姉妹である。フランス政府より教育功労勲章シュバリエ章を受賞された方だ。実はこの原稿は稠子さんのコンサートに合わせて先週の「日岡だより」に載せたかったのだが、残念だった)。

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 会堂が建ってからの「聖会」なるものが、2回か3回はしていると思う。それは必ず、5月の「母の日」を使った。信徒の皆さんは一家の主婦のかたが多い。そこで、私は言ったのです。「日ごろ、教会にも出席するのも家族(特にご主人など)に遠慮している主婦の信徒の方々、この日は、母の日です。どうぞ『この日は一日母ちゃんに頂戴。母ちゃんはじっくり教会に行きたいのです』とご家庭に宣言して堂々ときて下さい」と。

 こういう訳で「母の日聖会」と称したのです。この聖会は、毎回よく恵まれたと思います。参加は30名は越えていたのではないでしょうか。

 今も覚えている印象的な事件があった。それは、江良姉が「あ、今日は教会で何か大事なことをしていると聞いていた。教会にちょっと行ってみようか」と、思って教会に来てみたという。すると、だれもいない。みんな昼食後の休憩だったか、図書室のほうに集まっていたかであろう。当時は図書室は会堂から切り離されていたのです。

 江良姉は「おや、どうしたのか」と思いながら、礼拝室のドアをあけると、とたんに姉妹の両眼に涙が溢れ出たのである。悲しいのでも、嬉しいのでもない。

 こうしたことを私は「聖霊の涙」と呼ぶ。私も前述の野町先生が鹿児島の霧島研修館で青年修養会でメッセージして下ださった時、その席上で私はそばの青年たちが不思議がるほどに、涙をたくさんこぼして机の上に涙の池を作ったことがある。私はその時の「聖霊の涙」の眼窩での熱さを今も覚えている。その涙を江良姉も経験したのである。聖霊様の臨在が誰も居ない空室の礼拝室に充満していたのに違いない。

 

私の「回心記」   

 私の19歳の初夏、親友の荒巻保行という同年の親友が、自殺しました。それは深刻な罪意識によるのでして、私を驚倒させ、困惑させ、そして彼と同様の罪意識に引きずり込みました。

 彼の日記を見ると、19歳の若さとは思えない、正鵠を得た哲学的理解と徹底した自己追及の、思索、特に罪意識でした。「まず生きることが大事である。その生きることを善として肯定した上で、まず生きねばならない」というような人生肯定論から始まる哲学や宗教を彼は一蹴した。生長の家や、今で言えば幸福の科学のような宗教、創価学会もその一つでしょうか。ロマン・ロランや武者小路実篤のような、闊達な明るい思想家たちも信用しませんでした。

 彼は言います。「生存は罪である」。そして言います、「私が今死んだからとて、罪を消すことは出来はしない。しかし、私は一刻も早く、私の罪の生涯にピリオドを打ちたいのだ」。そのように、私に書き置きの手帳を残し死んで行きました。

 これが私の信仰を求めはじめた発端です。私はクリスチャンの家に生まれ、育ち、いささか聖書を勉強していましたのに、彼の苦悩を察知しえず、彼の罪意識の解決の手助けを何一つせず、むざむざと彼を死に追いやったことに苦しみました。そして又、当然、私自身の罪を解決できない苦しみにも悶えました。

 荒巻君の死は昭和16年(1941年)7月12日です。それから6年たって、昭和19年(1944年)のことです。その間ずっと悶々として暮らしてきたわけです。私は反戦主義者として自殺をはかるが失敗します(詳しいことは又の機会に書きます)。そして罪を問われて入獄します。その獄中の一日、突然、聖書の言葉が超自然的に私の魂に響きます。私は救いを確信するのです。私はとっさに歌いました。

 「愁いある獄にしあれど主によりて活かさるる身の幸に私が酔う」

 「イエス君の熱き血潮の今もなお、溢るる思い、わが身にぞすれ」

 11月19日、私は全く神に見捨てられ呪われた絶滅感覚に落ち込みます。地獄に落ちて行く私自身が見えたのでした。独房の床の板が裂けて、下から地獄の火がメラメラと燃え上がって来るように思えました。「ああ、私は生まれなかった方がよかったのだ」、とイエス様がイスカリオテのユダに言った言葉とそっくりの言葉を、私は自分に言ったものです。それから4日間死人のような気分で過ごし、11月23日が来ます。当時は新嘗祭(にいなめさい)という祭日、刑務所では免業日(公休日)です。その日の午後5時ごろ、聖書の第二コリント5:14の「一人の人が、すべての人のために死んだので、すべての人は死んだのである」という言葉が私の脳中深く襲ったのです。

 私はその一瞬、罪と悪とで全身汚れている私が死んでしまったことが分かりました。古い私はもう、ここにない。私は新しくなったことを感じました。驚くべき平安が来ました。私は神の祝福のテントの中に入れられたように感じました。この平安は、60年経った今も、私のうちに厳然として活きています。これが私の回心です。

 回心という言葉は戦前の石原兵永という方の「回心記」という本に出て来るし、その説明や、先生の体験記が書いてあります。この本は、何冊か貸し出しては、無くしてしまいました、今度、複写印刷製本してお見せしたいと思います。今回、又、先日の祈祷会の席上で原田美実という先生が昭和6年に出していた「基督」という雑誌を皆さんにお見せしました。この雑誌では「救いの確かさ」というテーマで原田先生は大上段振りかぶった達文を書いています。これも複写印刷して読んでいただこうと思っています。(く)  (2002.11.21.祈祷会にて)

 

2002/11/17

(「日岡だより」第46号)

永眠者祈念礼拝の感謝   

 私どもの教会では、これまで20数名の方々を天にお送りしました。このたび、私たちはこの方々のご生前を偲び、残る遺族の方々の敬愛の思いに併せ、天におけるご祝福を神様に更に求めようと、遺族の方々と共に祈りと礼拝の時を持ちたいと願いました。

 これは、いわゆる仏教の年忌の法事に似ていますが、ひるがえって考えれば、私どもの教会では、このような習慣がこれまでありませんでした。私(釘宮)にもこれに関して、しっかりした考えはありませんでした。

 こうしたことを反省し、ご遺族の方々のご心中をお察しし、「永眠者祈念礼拝」と名付けて祈念礼拝を開くことを決めたのでした。ところが、このことの計画に関し、ご遺族の方々から、ご賛成と喜びの声を頂戴し、今更のように日本人の家族意識の深さと、その麗しさに気づかされたのです。そして、この企てを立てたことを、「良かった、良かった」と安堵したことでありました。

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 さて、礼拝の当日、平素教会にお出でならない遺族の方々も早々とお出でくださり、この方々が11名でありました。遺族であって教会員という人たちも5名いましたから全員で19名、当日の礼拝参加の全員は合わせて52名でありました。

 私の語らせて頂いた説教の題は「内なる光を輝かせ」でしたが、凡そは本紙前号の「天国はどこにあるか」を踏襲しました。最後には、「先に天に帰った者たちを追慕する私たちの内なる光を灯火(ともしび)として、天にいる家族に心の道を作り、その道の繋ぎで永遠の世界、神の世界に入れて頂こうじゃありませんか、そのことを神様に祈ろうという結論でした。

 家族を天に送り、地上に残ったすべての人に、「これは決して悲しみの離別ではない。天に凱旋した友や親や子と、また夫と妻の再会の喜びです。その喜びの祈念式なのです、これは」、と語ったのでした。 説教を含めて讃美歌や祈りによる礼拝を終わりまして、引き続き愛餐会(教会での懇親的食事会)です。楽しく、別れがたく解散したのは2時ごろでした。

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 この日、永眠者の遺影は礼拝室の前方斜めに置き、この方々が礼拝席の私たちを眺めつつ、私たちと一緒に礼拝してくださっているような形に場所を設定しましたが、会集のみなさんは、どう感じたでしょうか。キリスト教に慣れない方々には、讃美歌や祈り、説教等、多少の異和感もあったかも知れませんが、天にある故人の方々は必ずや、大いに喜んで下さったことと信じています。

 さて、当日の毎週の礼拝献金とは別に遺族の皆様のご献金や、お名前がご記入なくても、ご遺族のご献金だと明らかに推測できる額を合わせて17万円ほどありました。まだ清算できていませんが、諸雑費を差し引いても15万円見当にはなろうかと思います。

 このお金は据え置いておき、将来の教会墓地もしくは納骨堂の建設のための準備基金として備えて置きたいと、教会の役員会で決まりました。まだまだ小さい額ですが、塵も積もれば山となる、その内、立派なご遺骨を守る施設が完成することと信じています。

 

聖会の思い出(一)   

 

 先だって、11月3日(日)、4日(休日)に当教会の信徒修養会を持ちました。当教会では久し振りのことです。木本兄が調べて「第7回信徒修養会」と銘を打ちましたが、「はてさて、そんなにもなるのか」と私はいぶかしがるばかりです。

 たぶん、キリストの福音大分教会と称して、私の教会意識をはっきり打ち出した時、その以前の特別集会などからも、木本兄が数え上げてくれたものだろうと思いますが、この機会に私は過去のいろいろの特別集会を思い出したことです。

 その最初は、私がまだ光研印刷という軽印刷の経営をしていた時のことです。当時、神様からの声によって10年間の職業を持つことを示され、奇蹟的にまたたくまに軽印刷を始めることが出来たのでした。

 当時は経営の第一期の頃、現在の牧師館のある所にトタン屋根の小さな作業所を建てて、簡単な印刷機などを置いてありました、その工場の中で1964年、昭和39年の年の瀬から、5日間の越年祈祷会を開いたのです。参加したのは、後に奥さんと一緒に原始福音に行った神田兄と、吉田一行兄の2人だけです。

 当時の私は、禅宗で言う「我、生涯に一箇半箇を叩き出せば良し」と本気で思っていた時代ですから、たった2人でも、弱ることも落ち込むこともない、無上の感激を覚えて、お2人相手に集会をしたものです。

 その最後の日でした、私が精神統一の指導をしている時に、「さあ、これから聖霊様のバプテスマを祈ろう」と心構えしている時でしたが、私の思いに先んじて、いきなり聖霊様が吉田兄に臨んだのです。

 吉田兄は急に笑いだし、踊りだし、私の自宅の玄関先に出て行って、そこで一人で長いこと踊っていました。あの遠慮深い物静かな吉田兄にしては、驚天動地のことでした。

 これが私の始めた聖会というか、修養会というか、特別集会の第1回です。この時、私は遠い津久見から通って来ねばならない吉田兄に、「無理に会堂も無い素人伝道者の私の所に毎週来る必要はないですよ。津久見にある教会に行きなさいよ」と奨めたのです。

 当時、私は真の信仰に導きさえすれば、誰にでも、あとは何処の教会へでも出席してください。また、どこの教会に行っている信者さんでも、信仰の確信を求めてくる人には快くご指導してあげ、またその教会にお帰します、と言っていたものです。

 ところで、面白い事がおきた。というのは、吉田兄が私の指示のとおり、津久見に教会に行ったのは良いが、礼拝の後で大きな声で激しく祈った。その教会の先生が驚いた、そうして、もう来てくださるな、と出席を断られたという。やむ無くその後、ずっと病気で来れなくなるまで、忠実に毎週バイクで出席された。週報に載せる私の説教概要の原稿を彼は毎週作ってくれた。私の牧会実務のよきスタッフであった。

 数年して、私の印刷会社の社員だった藍沢兄が信仰に熱心になった。森幸子姉が、結婚した孝行兄と一緒に礼拝に参加してくれはじめた。こうした人たちによって、第2、第3の特別集会が別府で持たれた。

 第2回の会場は鉄輪温泉の「花山」、第3回が亀川温泉「野村旅館」という旅館。1967年(昭和45年)の夏と秋であった。2回とも楽しい集会ではあったが、格別なことはなかった。参加者は14、5名だったろうか。

 ところで第4回以降第6回までが「母の日聖会」である。この聖会はいろいろ話題に富んでいた。

 

2002/11/10

(「日岡だより」第45号)

天国はどこにあるか   

 一昨日、近所のかたが亡くなって、そのご葬儀に参列しました。仏教のお葬儀でありますのに、弔辞の方が、遺影に向かって「天国に行かれた××さん!」と呼びかけていましたから、不謹慎ながら、心のなかで可笑しくなりました。

 天国と言えば、かつて東北山脈の山深く、由緒ある旅館で、露天温泉につかって、谷間の両側から差し出ている木々の枝々に雪がつもり、そこに朝日が照り映えるという絶景。ちょうど一緒にお湯にいたサラリーマン風の中年の男性が、思わず「ああ、天国だなあ」と声を漏らしたものです。

 日本人は、キリスト教に対してはまだ一歩距離をおいている感じですが、天国という言葉にはなじみます。交通遺児の会などでよく言います。

「天国にいるお父さん!」と。

 聖書のマタイの福音書で、洗礼者のヨハネが「悔い改めよ。天国は近づいた」(マタイ3:2)と荒野で叫びます。続いてイエス様の有名な山上の説教の第一声では、「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」(マタイ5:3)などとおっしゃって「天国」という言葉を、お使いになるのです。

 「天国」という言葉はなんとなく楽しい幸福な感じを与えてくれます。仏教でいう「極楽」と同じでしょうか。「極楽」という言葉の原語は知りませんから、確かなことは言えませんが、多少とも「天国」にくらべて悦楽的な感じがします。一般の日本人の考えや想像では「極楽」という言葉には、なんだか「楽しいばかりの所」という感じがするのです。

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 それにくらべ、「天国」という言葉には、もっと高度な高邁さがあるように思います。

 ところが、聖書ではこの「天国」という言葉の代わりに、マルコの福音書やルカの福音書、又、他の箇所など、「神の国」という言葉が使われています。

 「天」という場所はユダヤ人にとっては神様や天使たちが住まわれる、たぐいなく聖にして幸福の場所でした。マタイの福音書はユダヤ人に向けて書かれた文書だと言われていますが、

 ユダヤ人ではない当時のギリシャ人やローマ人たちにとっては天とは神々の住むところ、そこで神々は恋愛もする、喧嘩もする、この世と少しも違わない、ただ霊的な異能や不思議が見られるというだけです。多分に堕落した世界でした。(残念ですが、日本の神話もこれに似たところがあります)。

 聖書の「神の国」という言葉には、もっと霊的な高品位の聖潔さと、唯一の創造主なる神の威厳に満ちた臨在と支配があります。

 更に、イエス様が来られて、この神様が「愛」の神様であることがはっきりしました。イエス様によって神様の愛を表してくださるまでは、神様は怖いばかりの神様という感じもしました。(イスラム教のアッラーの神様は、キリスト教の神様と同じ神様かと問われても、ちょっと答えにくい問題ですが、少なくとも、この神の絶大の愛という点で違います)。

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 さて「神の国はいつ来るのか、と当時の宗教学者がイエス様に質問しました。イエス様はここで角度を変えてお返事しました。日本の禅問答に似ています。

「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20、21))と。

 神の国は死んでから行く、というだけのものではない。生きている今も、神の国を実証できる筈だ、とおっしゃるのです。宗教感覚としては、空海や禅宗の方々が言う「現生成仏」に似ています。

 信仰というものが「あの世のこと」だけにとどまらず、今生においての神様の臨在、つまり神様の義と愛と清さと力を実証できる信仰でありたいのです。それが「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」というイエス様の言葉の真意なのですね。

 先にも述べましたが、先日、近くの方のご葬儀があって参列してきました。最近の仏教の葬儀の簡素化には驚きました。わずか20分で終わりました。たしかに忙しい現代人にとっては簡便です。最後の焼香のところで、途中で打ち切って。僧侶たちは短いお経をあげて、ぞろぞろと退場しました。そして残っている参列者のための焼香が再開しました。

 何ということ、一般の人々に向かって「死」の問題を大いに語れる、宗教家として、これ以上の好機は無いのです。この時を捨てて、忙しい現代人に妥協して、通り一遍の儀式だけで終わるのです。現代の仏教が葬儀仏教に堕してしまったと、よく批判されるのも尤もです。

 葬儀と言えば、私自身、記憶があります。近所のさほど親しくもなかった老人が死んで、その葬儀を義務的にいささかの手伝いしただけのことでしたが、その時、私は「死」という問題に直面して、疑問と不安で、打ち沈んでしまったものです。

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 「あんたは、なんでキリスト教なんか信じたのか」と問われたことがある。「はい、死ということに悩みましてね」と答えたら、「若いなあ、君は」、その社会的地位のある先輩は「わしも若い時には心配したよ。しかし幾ら考えてもどうなるもんでもない。もう考えないことにしたんだ」と笑い飛ばしたものです。

 これが世馴れた「死」の問題の解決策でしょうが、実はこの会話のことは十数年まえ大分合同新聞に「死を考え、生を考える」という連載コラムを10回寄稿しましたが、その中でも書いたことです。私は「如何に生くべきか」を考える時、「死とは何か」ということをまず考えました。そうしなければ、正しい答えは出ないはずです。まず「死とは何か」、この疑問に対決しよう、としたのです。

 死に直面したご本人のなまなましい体験記が初めて本になったのは東大教授岸本英夫さんの「死を見つめる心」でした。初版は1964年(昭和39年)ですが、今もみずみずしく私たちに語りかけてくれます。

 その後、世界に向かって強烈な印象を与えたのは、キュープラ・ロス女史の「死の瞬間」です。彼女によって「臨死問題」が公の問題として認知されました。それまでは一部の狂信グループの世迷い言としか思われていませんでした。引き続いて、さっそく立花隆氏がこの問題に手を染めました。立花さんによって「臨死問題」は市民権を得ました。

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 さてキュープラ・ロスは興味深い報告と彼女の解説を書きました。彼女が悪名高いアウシュビッツの強制労働所を見学した時、そこで死んで行った子どもたちが壁に描き残した蝶の絵を見たのです。彼女は言う。「この蝶の絵こそは、子どもたちのメッセージです。蝶の絵は再生を願い、復活を信じ、来世に飛躍しようとした彼らのメッセージです」。

 これは来世感覚というより永遠感覚です。人間はもともと永遠という言葉は知っていても、本当の永遠という感覚は無いのです。盲人の人が赤という色の名は言葉としては知っていても、その赤を認識することは出来ないように。聾の人は「さくら、さくら」という曲を名前で知っていても、その音楽を聞くことは出来ません。ところがヘレン・ケラー女史はシンフォニーの演奏の場所に行って、その管弦楽の素晴らしさに感動したということがありました。見ることも聞くこともできないヘレン・ケラーさんが、シンフォニーの素晴らしさを感じることが本当に出来たのです。

 それは「内なる光」によったのです。ヘレン・ケラーは彼女の内なる光でシンフォニーを聞いたのです。

 来世から送られてくる天国の光が、私たちの心に注がれる時、私たちの心は天国の光で満たされます。

 私はその事を22歳の晩秋に体験しました。それは神学的にいうとイエス様の血潮(命)により私が救われたということです。その時、私は即座に歌いました。「エス君の熱き血潮の今も尚、溢るる思い、わが身にぞすれ」。当時、毎夜イエス様の血潮がコトコト音をたてて私の体を還流していうように思えたものです。こうして私たちの心に天国が生れるのです。

 先に天に召されて行った兄姉たちを追祷し思慕することは、単にセンチメンタルな行事ではない筈です。彼らと共に、同じ神の国、天国を共有する喜びを天の彼らにも告げ、この喜びを共感する人生の真実を、今味わうのです。(く)

 

2002/11/3 

(「日岡だより」第44号)

アシュラム運動について   

 アシュラム運動という言葉を聞いた人は多いと思います。この運動はスタンレー・ジョーンズが創始し、日本に持ちこんだのだったと思いますが、かれこれ、2、30年になりましょう。

 スタンレー・ジョーンズという人は、戦前の名著、「インド途上のキリスト」という本を書いた人です。彼はインド伝道に出かけて、一時ノイローゼ?だったか、心の病気になります。アメリカに帰り、改めて聖霊経験をなさって、信仰を革新、その後書いたのが「インド途上のキリスト」だったと思います。

 彼はそれまでも、確かに一応の信仰は持っていたでしょうが、聖霊による刷新経験はなかったのです。

 そうした信仰で、インドに行って、たとえばガンジーのような人に出会うと、純粋な魂の持ち主ほど、信仰の確信を失うのは、あり得ることでしょう。

 イエス様を救い主として信じなければ、たとえどん立派な行為者でも天国には入れません。これが私たちの信条です。するとガンジーは確かに聖書、特にヨハネ福音書を愛し、イエス様を尊敬しました。でも、イエス様を救い主として信じたようには見えません。ガンジーはやはり救われない異教徒でしょうか。

 これはスタンレーを悩ましたかもしれません。私は戦前、彼の「インド途上のキリスト」を読んだ時、このガンジーの存在がスタンレーを悩まし、彼を精神病にしたのであろうと、勝手に決め込んだものです。

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 戦後になって、スタンレーが「アシュラム運動」を始めたと聞いた時、その推測が確信に変わりました。なぜなら、アシュラムというのはガンジーが断食などをした隠遁的修養道場の集落の名前だったからです。スタンレーはアシュラムという名はガンジーの所で知ったのに違いないと思ったからです。

 ガンジーは断食と瞑想とで、徒手空拳イギリス帝国のインド支配に勝った人です。ロマン・ロランは「ガンジーは政治に宗教を持ちこんで成功した歴史上、類の無い人である」と言ったものです。

 このガンジーの所にスタンレー・ジョーンズは1回ぐらいは、行ったことがありはしなかったかと思います。ガンジーはしばしばアシュラムで断食と瞑想を繰り返しました。この「アシュラム」という言葉はガンジー・ファンの私には懐かしい名前です。

 東洋的瞑想には、どこかクリスチャンは敬遠するか、たじたじとなるか、律法の一つと見て信仰に相反すると見做すか、そういう所があります。でも、

 聖書は言います。「汝ら静まりて我の神たるを知れ」(詩篇46:10文語)。これは瞑想のことです。この「知る」という言葉はヘブル語では「体験的な深い交わり」を指すことがあります。右の詩篇で「神を知れ」とありますが、これは「あなたは『体験的深い交わり』をもって『私を知りなさい』」と言っているのです。

 こんなことから、スタンレー先生は霊感を得たのではないでしょうか。一般に、キリスト教的瞑想は「み言葉による瞑想」です。この「み言葉瞑想」の伝統を活かして、キリスト教的、もしくは教会的なアシュラム風の瞑想会を思い立ったのがスタンレー先生だったのではないか、これが私の推論です。

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 アシュラムにおける聖書の読み方は、聖書のうちにひそむ神様からの根源語を聴き取ることです。これは知的近代人には難しいことです。しかし、知的壁を打ち破って聖書のコトバの奥から響いてくるコトバを聴きます時、これが聖書によるアシュラムの妙味です。

 アシュラムは静かです。騒々しいカリスマ(と言えば叱られそうですが)とは対蹠的です。聖霊がほとばしり出るような動的カリスマティックな教会で、静かなアシュラムを企てるのは冒険です。それをやってみせたのが、高砂教会(手束正昭先生)でした。

 この月の22日から25日まで、日曜日を挟みますが、この高砂アシュラムにおいでになりませんか。光栄にも私は主日の夕拝の説教を頼まれましたので、勇躍して参ります。 

〔註〕高砂アシュラムの詳細は掲示板をご覧ください。(問い合わせ・申込先は〒676-0015兵庫県高砂市荒井町紙町1-34日本基督教団高砂教会TEL0794-42-4354)

 

赤ちゃんに語りかける    

 「日岡だより」第28号(7月14日号)に、こんな実話を書きました。母子のサルを研究している学者がいました。研究のため母親サルと子サルとを引き離しました。しばらく、しおれていた母親サルは、急に学者さんに腹をたてて反抗するようになりました。その学者は困りましたが、ついに母親サルに向かって涙を流さんばかりに丁寧に謝って理解を求めました。すると、その母親サルが、すぐに機嫌を直してくれたという話です。

 また、随分むかしのことですが、私どもの家庭で幼い子どもに一人で留守番をさせねばならないことがありました。妻が熱心に言葉をつくして幼い子どもに事情を説明して頼みました。私たちの話の内容を理解するはずもない幼い子どもでしたが「ウン」と納得したのです。そしてお利口に留守番をしてくれました。

 拡大宣教学院にいる大石弘美さんが、これを読んで、「私も同じような体験をしていました」と手紙をくれました。「今まだ、赤ちゃんの男の子ですが、昨年の1ヶ月くらいの時でした。先生のおっしゃるとおり熱心に話してあげると、私が洗面をしている間も、洗濯をしている間も、手紙を書いている間も、真剣な顔をして、じっと待ってくれていたのですよ、云々」。

 口のコトバではない、心の根源の思いを受け取る潜在力を、神様は赤ちゃんにも、動物にさえも与えて下さっておられるのですね。 

 

豊の国はがき道   

 「豊の国はがき道クラブ」という、ちょっと珍しい団体があります。安部友子さんという方が始められて、もう15年ほどになるそうです。複写はがきに気軽にお便りを書いて、親しい人には勿論、旅先でちょっと挨拶を交わしたような人にでも、投函します。

 そこから思いかけない「出会い」が始まるのですと、安部さんは言います。また、こうも言っています。

 「人生は出会いです。楽しい素晴らしい出会いが、あちこち起こります。まず自分が発振機となって新しい出会いを紡ぎ出して行く喜び。これこそ、この運動が持っている力なんだと、最近思えてきました」と。

 これは本当に、たぐい稀な文化運動だと、思います。文化という言葉は大正のころ市民化されて、文化住宅や文化釜など、ぞくぞくと生れましたが、それは残念ながら単なる「便利、快適、新しさ」を見せどころとする物質文明に過ぎません。

 この複写はがきで短い手紙を書く方法では、自分の書いた短い文章が複写に残ります。簡単に一応の「自分史」綴りが出来、記念になり、思い出になります。

 こんな例をよく聞かされます。お嫁に行った娘から、この複写はがきを貰って、お父さんは泣きだしてしまいました。改めて肉親の愛に目覚め、今更のようですが、新しい親子の交流が起こるのです。

 ある人は随分むかしの、心ない冷たい言葉をかけて気になっていた古い友達に、お詫びのはがきを書きました。はがきを貰った友人のほうは、忘れてしまっていた小さいことだったのですけれど、このはがき一枚で何よりの人生の麗しさ、人の交わりの尊さに目醒めました、そして、せっせと複写はがきを書き始めたそうです。

 私はこうした運動には人にはわからないたいへんな苦労があることを知っています。世界で誰もやっていない、こうした運動に起こる幾多の困難を乗り越えて、15年も継続してこられたこの安部友子さんの熱情に私は驚嘆するのです。

 この友子さんが先日大分県農業公園の蝶々の部屋に行ったら、沢山の蝶が友子さんだけに集まってくるのだそうです。蝶に好かれる友子さんの秘密は、この方にあふれる愛と喜びの心だろうと思います。この運動から一番の恩恵を受けているのは、案外、この友子先生自身かも知れません。

 友子さんと言ったり、友子先生と言ったり、本当は安部友子女史ともお呼びしたい人でありますが、また、友子ちゃんと呼んでみたい魅力的な人であります。

 さて、信仰の友に告げたい! 伝道のためにも、この複写はがき運動に参加しませんか、真似しましょう。「善いことは真似でもよい、やりましょう」、催子実先生が、よく言った言葉です。

 

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