キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報とともに毎週発行する「日岡だより」)

2003年7月

2003/7/27

(「日岡だより」第82号)

信仰は希望を生み、希望は喜びを生む   

 先々週の主日(7月13日)の礼拝で私は「失望せずに祈れ」と題して説教しました。「イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に喩で教えられた」(ルカ18:1)とのみ言葉によったのです。しかし、私はこのみ言葉を以下のように拡大解釈して語ったものです。イエス様はこれを、お許しくださると信じてます。

 皆さん、「失望せずに」という言葉を肯定語に変えて読んでみましょう。「常に」という言葉も変えてみます。私たち自分自身に当てる言葉として読んでみましょう。こういう風にです。

 皆さん、希望をもって、信仰をもって、常に祈りましょう。常に祈るというより、祈りの目標に向かって祈りを積み重ねて行くのです。

 そうすると、信仰は次第に強化され、確信へと変わって行きます。この「積み重ねの祈り」をつきつめて、ついには「祈り抜く」祈りになります。ちょうど大工さんが釘を「トントントーン」と打ち上げた時のように。こうして『すでにかなえられた』(マルコ11:24)という信仰に進化するのです。

 要約すると、希望は信仰を生み、信仰は更に確固たる希望を生む。この確固たる希望を更に強い信仰に成長させる、この相乗作用は積み重ねの祈りの力によるのです。

          *

 イエス様がこの教えをなさる時、不義なる裁判官を喩に使ったのは何故でしょう。よく考えてみると、イエス様はここで神様を不義なる裁判官にたとえているわけです。これはなんとも冒涜的な喩えではあります。イエス様でなければ、こんな大胆な喩えは言えません。また、なんとも奇抜で抜群な作話であります。

 たしかに、幾ら祈っても神様は私の祈りを聞いてくれない。神様は私に対して不公平である、私に対して酷い方だ、と思っている人、そういう人にとって、神様を不義なる裁判官と見立てるのは、奇妙な喩えですが、言いえて妙、共感があるでしょう。

 良い例は、旧約聖書のヨブです。彼は東の国一番の義人でした。そのヨブが突如、息子を奪われ、財産を奪われ、妻は去り、彼自身ひどい病気になってゴミ捨て場に捨てられ、日夜うずくまって、年来の友がくれば、彼らからは「お前は何か罪を犯して隠しているだろう」と責めたてられる始末、ヨブにとって神様は正当な裁きをなして下さらない不義なる裁判官でした。

 ヨブは神様に喰らいつくようにして、文句を言いました。諦めませんでした。しかも神様が何事かを答えてくれても、それは彼にはさっぱり分かりかねる言葉でした。彼は当代随一の知恵者でしたが、その時、聞いた神様の言葉は理解でない不可解な言葉でした。

 そうして行き詰まってしまう彼ですが、よく聖書を読んでみると、そのようになっても彼は神様の前を離れません。使徒ヤコブは彼を忍耐の人と呼びますが、忍耐というより、どんなに理不尽な神様、理解困難な神様でも、この神様から離れられなかったというのがヨブです。

 ついに、ヨブは理不尽この上もない神様の言葉に知性も理性も投げ捨てて「ハイ、あなたのおっしゃるとおりです」と閉口頓首するのです。黙って口を閉じて頭を深々とさげた事です。

 神様がこうせよ、と言えば、訳はわからなくても「ハイ」と答えて従うのです。それが信仰です。この態度を「へりくだる」と言います。

 先週の主日礼拝のタイトルは「自分を低くするものは高くされる」でした。学んだ聖書個所はルカ18:14でした。

 自分を低くするとは、謙遜な態度のことですが、それは昔の大店の番頭さんが主人にむかって「へい、へい」と、へいこら腰をかがめるような卑屈な態度を「自分を低くする」とイエス様が言われたのではありません。

 イエス様は「幼な子のように神の国を受け入れなければ神の国にはいることはできない」(ルカ18:17)と言われましたが、マタイ福音書ではイエス様は「幼な子のように自分を低くする者」と説明して居られるのです。つまり「自分を低くする者」の見本が幼な子です。

 あの、やんちゃで、しばしば我が侭な幼な子が、まさか「自分を低くする者」であろうとは……。イエス様の評価は私たちとはかなり違いますね。イエス様が「自分を低くする者」というのは素直な人のことです。よく理解できなくても、父や母の言うことを「ウン」と聞いている幼子をイエス様はさしているようです。

 ルカ18:9〜14のイエス様の「パリサイ人と取税人」の喩、ここは当時のユダヤ人にとっては意外な喩えであったでしょう。ここでは完全な律法実行者が神様に受け入れられず、良いことは一つもないような取税人が神様に受け入れられる。聞いてユダヤ人たちは「えっ?」と息を呑んだでしょう。

 しかし、自分の罪を素直に認めて、神様の前に一語の言い訳もせず、ただ私をおゆるし下さい」という取税人の態度がイエス様がお好きなのです。自分を低くしているのです。反対にパリサイ人は自分を高くしているわけです。

          *

 先週の主日(7月20日)の夜、夕拝はなんと私を含めてたった4人の小さい集会でした。しかし、私はそんなことは気にならない。私は一種の覚悟というか、この夜の説教に賭けるものがありました。私は、今夜は重大な夜になる、私の晩年の信仰姿勢を決めるエポック・メイキングな夜になると予感しました。説教は先々週の礼拝説教からの続きです。

 希望をもって信仰をもって、祈りを積み重ねて行き、神様の前に閉口頓首して素直に神様のみ言葉を受け入れるということでした。

 そこで、この夜は聖書からローマ5:2の末尾を選びました。「希望をもって喜んでいる」という一句によって、「希望は喜びを生み出す」というテーマで説教となったのです。

 この7月6日に永井明先生がお出でになった。「盛岡のお寿司屋さんで、注文をすると『ハイ、喜んで』と威勢のよい返事をして寿司を握ってくれるお店」のことを説教で語って下さった。

 その時、私は数年前読んだ、ある雑誌の記事を思い出しました。それは終戦後シべリヤに抑留され、強制重労働下にあって、「私たちは捕虜ではない。日本人だ」と誇りをもって喜んで労働に従事した旧日本兵たちのことでした。

 工場で女性将校の命令に対して、「ハイ、喜んで」と復唱しはじめたら、その女性将校がポッと顔を赤らめて感激した様子だった。そして、労働条件がますますよくなったというのです。

 さて、聖書には「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5:16)とあります。そこで、足立姉のアイデアで「ハイ」と答えるのです。そして永井先生の「いつも喜びます」との告白の勧めでした。かくして、聖書の言葉は次第に私たちの日常実践へと適用化してきたのです。

 そして、遂には何事も「喜んでします」となりました。口でも、心でもよい、何事も「喜んでします」と言ってみます。すると、心に喜びが湧きます。仕事にも、何事にも、為すわざに喜びが湧きます。喜びの心は愛を支えるエネルギーです。喜びがなければ「愛のわざ」は偽善になります。愛を支える力は喜びの心です。<く>

 

2003/7/20

(「日岡だより」第81号)

イェス君の熱き血潮の今もなお   

 私の救われた日は1944年11月23日です。敗戦の前の年、当時の暦で新嘗祭(にいなめさい)という祭日(休日)です。天皇がその年の新穀を食べる日です。ちなみに7日前の天皇が宮中で神前に新穀をささげる日を 神嘗祭(かんなめさい)と言います。

 その日の夕刻 窓際の桑の木にすずめがチチチチッと鳴いて帰ってくる頃、突然、聖書の言葉が私の心に触れました。聖霊としか言いようのない力をもって。

 「一人すべての人に代わりて死にたれば、すべての人すでに死にたるなり」

 この言葉を心に聞いたとたん、私の古い人は死にました。その言葉が私に実現しました。私は新しい人になっている自分を発見しました。歓喜に溢れました。別に光を見たり、ぶっ倒れるようなパウロ式の激しい経験をしたのでは無かったですが、とにかく私の魂は一瞬に180度旋回して、新しい感覚が開けていました。

 「これは回心だ」と、私にはすぐ分かりました。回心のことを、英語でコンバーションと言います。私はこの言葉を石原兵永先生の「回心記」という本で知りました。この本の初版には内村鑑三先生の「コンポルジョン(コンバーションのこと)」の解説が載っていました。内村先生自身の信仰告白を聞く思いがしたものです。

 神の言葉には、その言葉を聞くと即座にその言葉どうりのことを聞く人に実現させてくれる力があります。そのことが私に起こったのです。それは、

 福岡の刑務所の独房の中でした。なぜ刑務所なんかに居たのですかと、興味を持たれそうですが、簡単な説明で勘弁してください。多くの人は既に知っていることですが、戦争に反対して、自殺しかけて、失敗して、それが発覚して、懲役一年、恥ずかしい次第です。くわしいことは又書きます。

            *

 刑務所の中で、私は聖書を持って居ませんでした。聖書にかぶれて兵役を拒否するような非国民の私に対し聖書は携帯禁止、貸出しも禁止だったわけです。ところがその年の九月頃でしたか、不思議に一回だけ聖書を図書係が出してくれたのです。その聖書を一か月間、むさぼるように読みました。

 その時に読んだ聖書の一句、先ほどの「一人すべての人に代わりて死にたれば、すべての人すでに死にたるなり」が脳裏に思い出されたのでありましょう。しかし、私にとっては、どこから降ってきたのか、まるで夢に見るようでした。

 私にとっては初めての神秘体験でありました。その言葉が第二コリント5:14のお言葉であることは、刑務所を出て家に帰って聖書を開いてみて、やっと知ったのです。

 この回心は私の信仰の原点です。その時から、すでに60年近くを過ぎていますが、今も私の信仰の基本は、この時の神秘な体験です。その時に歌った私の歌があります。

  「イェス君の熱き血潮の今もなお、溢るる思いわが身にぞすれ」

  「愁いある獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」

 「愁いある」という言葉は文法上おかしいと思いますが、私としては変えようがなく。そのままにしています。

 「……ぞすれ」も変えたほうがよいと注意されたことがありますが、私の心情として変えようがないのです。

 この歌にあるように、私は刑務所のせんべい布団にくるまって寝ている時にも、私の体中をコトコト音をたてて流れているイエス様の血潮の音を神妙な思いで聞きつつ自分の幸福さに泣いたものです。

 私には歌を作る習慣はなく、こうした時に、歌は心からスルスルと出てくるのが不思議です。もっとたくさん生まれてくれると嬉しいのですが、そうは簡単に行きません。

            *

 さて、この時の私の信仰について、私のいちじるしい自覚があります。それは「この信仰は主から頂いたものだ」という自覚です。そういう神学を格別持っていたわけではありませんが、そのように思わざるを得ないほど、この信仰は突然、瞬時に天から贈られたとしか思えなかったからです。

 私は思いました。「これはペテロやヨハネやパウロが持っていた信仰と同質の信仰である」と。口はばったい、傲慢な言い方でしょうが、これは私の実感でした。

 もちろん、あの大使徒たちや、また後々の信仰者列伝の人々と同じような、信仰の重み、深さ、清さ、力、そうしたことが同じだと言うのではありません。しかし、神様から頂いた信仰の質においては全く同じであると確信するのです。

 このことは、ずいぶん後日になって、ガラテヤ2:16などの「キリスト・イエスを信じる信仰」という訳語を「キリストの信仰」と訳し直したいと言う私の主張の根拠になりました。私は自分がギリシャ語の初心者であることも忘れて、方々で、このことを強調するゆえんです。

 とは言え、「自分の意志で信じる信仰」、また「自分の力で自分の信仰を強める」ことを否定するのではありません。却ってこれも力説したいことであります。このことは又いずれ、書きます。その方法論も加えて書きたいのです。

            *

 先に書いた心の奥底に根強く、ゆらぐことなく、厳然として生きる「信仰」についての確信を持った私でしたが、しかし、矛盾するものが、私にはありました。

 それは自分の内心にひそむ悪しき思い、汚れ、憎しみ、欲情等々です。それを打ち崩す力も無く、その悪念に引きずりこむサタンの力に抵抗できない私の意志の弱さ、肉の力の強さに、私は息もたえだえということでした。

 もう一つ、私の心を掴んで離さなかったのは「常に……」というテーマでした。「常に祈っていたい」「常にイエス様のことを想っていたい。これは前記の「悪念」のもだえと同じように、不可能な事を求める点で同じようなことです。また、自分を聖化したいと欲する努力の面でも同じことです。

 私の育った教会はカルヴィン派の教会です。また私に大きい影響を与えた父の信仰も、伯父の信仰も徹底した「義認」信仰です。ルター流の「信仰のみ」です。しかし、

 私はウェスレー流の「聖潔」をも切に求めました。旧メソジスト系の教会の牧師を訪ねて教えを乞うたら、その牧師先生は大のバルト派で、私の聖化希望は一笑に伏されました。私はがっかりしましたが、逆に言えば、当時の私の信仰を安住させてくれる好都合な先生でもありました。

            *

 それから数年して、神様は私の「常に……」への熱望に答えて下さったのです。その経験は2度に分かれます。まず、1948(昭和23)年4月1日の前後、その日ははっきりしませんが、その数日の中の一日です。

 私は戦後の動乱期、大分駅にたむろしていた戦災孤児たちと共同生活をしていましたが、社会事業共同募金が始まって、こうした福祉事業をやる人が増えてきました。そこで、

 生涯を伝道一本にしぼりたかった私は、孤児たちを県や市の役人さんがたに委ねて、母の家に引きこもりました。まったくの無収入です。そうしたさなかで、私は神様からの啓示を求めました。私の生きる方向の確信を得たかったのです。

 ある日のことです。ふと、部屋の天井の片隅を見ると、イエス様のお姿が見えました。それはギュスターヴ・ドレの版画にある湖上を歩くイエス様が、方向を変えて私のほうに向かってくる姿でした。そのイエス様が私にしだいに近づいてくる時、私の理数系の頭脳が私を笑いました。

 「これは、お前の頭脳の所産にすぎない。だまされるな。神秘なものでも何でもない」と、私自身に私が呼びかけるのでした。そうこうしている間にも、そのイエス様の像は私に次第に迫ってきて、ついに映画のオーバーラップ(二重写し)のように、私の胸の中にスッと入り込んできました。

 その瞬間、私はイエス様の存在を感じて息を呑んだのです。今、イエス様が私のうちに生きて居られる。その感動が私の内に溢れました。目に涙があふれました。全身に喜びが湧いてきました。その日は、わくわくしながら一日をすごし、そして幸福な眠りにつきました。

 さて、翌朝のことです。私はちょっとしたことで、妻に不満を覚えることがありました。私は今にも、妻にたいして怒りの声を発しそうでした。その時、私の肚の中から、イエス様の声がしました。「義人よ、一晩寝たら、私が居なくなったと思うのかい」。

 私はその声の主がイエス様であることが分かりました。のみならず、イエス様が私にむかってニコニコ笑っておられるのが分かりました。イエス様はけっして私をお叱りにはなりませんでした。やさしく、私に顔をむけて笑っていて下さるのです。私は、かたじけなくて顔を伏せましたが、また顔をあげてイエス様を見上げ、そして笑いました。

「主よ、そうですね。あなたは私をお見捨てになりませんね」打って返すように、み言葉が再び胸に響きました。「われ更に汝を去らず、汝を捨てじ」と。

 このお言葉はヘブル13:5にあることは、後日知りました。また、この言葉はヨシュア記からの引用だとは、更に後になって知りました。この経験以来、私は「主が常に私と共におられる」ことを疑った事はないのです。

            *

 それから数年して1955年頃かと思いますが、私は瞬時も放たず、常に主に祈っている自分を発見して驚くことが起こったのです。

 当時私は、聾学校の教員でした。朝起きてより、登校、朝の職員会議、子どもたちとの勉強、給食、子どもの持ってきた学級費や家庭への連絡帳の記載するのですが、その間中、

 私の心は神様に向かって祈りつづけて、止むことがなかった事に気がつきました。私は呆然としました。こうして「絶えず祈りなさい」という聖書の勧めは厳密な意味でも正しいのだと思い知ったのです(この経験は2年ほど続きました)。

 この事は、のちのち、私たちの意識が二重構造、あるいは複数構造になっているという人間の存在様式を気づかせ、また人間は内的に自己対話できる独一な存在だということ、そんなことが分かってくる端緒になったのでした。これは私たちの生活力、処世技術を形成し、増加させ、強化する方法論の開発に私を気づかせてくれるきっかけともなりました。 

〔あとがき〕私は産経新聞を取っていますが、非戦主義などでは私と対極的新聞です。しかし、姿勢がはっきりしているので好感を持てます。参考になる記事も多いのですが、特に北九州リバイバルチャーチの岡先生に教えて頂いたのですが、7月からこの新聞に趙ヨンギ先生の一般読者むけの「羅針盤」というエッセーが載っているそうです。私は全然気づきませんでした。キリスト教臭くなくて、男性の皆さんにも訴えの利く文章だと思います。

 

2003/7/13

(「日岡だより」第80号)

幼児殺害事件に思う   

 耳をふさぎたいような事件である。中1の男の子が4歳の幼児を連れ出して、駐車場の8階から突き落して殺したという。4歳の種元駿ちゃんが親しげに中1の子を見上げて道を歩いている姿が防犯カメラに写っていたという。救いようのない事件だ。

 先日の祈祷会で出席している信徒のみなさんに聞いた。「この事件で、当の被害者の種元駿ちゃん。その駿ちゃんのご両親。或は加害者の中1の子。その中1の子のご両親。この4つの人たちの中で誰が一番可哀そうでしょう?」と。

 みなさん、ちょっと息を呑んだようで、答えがなかった。答えにくい質問だったようです。

 現象的に言えば、一番可哀そうなのは、もちろん殺された駿ちゃん。しかし、主観的に本人の心に立ち入って考えると、駿ちゃんのご両親が一番辛いにきまっている。いや、待てよ、殺した中1の子の親のほうがもっと辛いだろう。その後、住まいのマンションだったか、出たまま、帰っていないという。誰にも会わす顔は無い。たとい会っても、お互いの挨拶の言葉にも窮する。

 ある大臣の発言がある。「この殺した子の親は、引き回しにして打ち首にすべきだ」。こういう人が日本の大臣だから情けない。こんな新聞を見たら、この親御さんは自殺しかねない、と思う。親子3人の家族だそうだが、この夫婦の寒々とした姿を思うと涙が出る。

 あるいは、一生、この思い出を心に抱いて生きるということになる、当の中1の男の子がやはり一番つらいことであろう、とも思う。

 一度、読んだことのある話で正確ではないが、和歌山の紀州の領民の男、父か母だったか、とにかく実の親を殺した。ところでその男、「俺が俺の親を殺したんだい。自分が自分の親を殺して何が悪い」とうそぶいていると言う。これを聞いて、紀州の殿様が嘆かれた。「アア、こういう領民がいるということは、余の不徳のいたすところだ。私の日ごろの政治の失敗だ」と。そこでお抱えの学者を遣わして、その男に人の道を学ばせた。5年か十年かが過ぎて、当の親殺しの男がお殿様に願い出た。「殿様、私が生みの親を殺すなど、とんでもねえことをしやした。お願えでごぜえます。私を打ち首にして下せえ」と。紀州の殿様は涙をはらって、その男の願いのままに刑に処した、という話。

 この紀州の国の男ではないが、中1の少年、家裁に送られ、保護観察のもとに、補導を受けたりしているうちに、次第に自分のしたことに目がさめる時が来るだろう。そのうち、彼の両親も死に、彼ひとり残り、寂寥と後悔の日々を送る時、彼は最も辛い人生を送らねばならないのかもしれない。

          *

 それぞれ辛い生涯になろうが、最後に私の気がついたことは、主観的に苦しいか、どうかは別として、最も闇の人生を送らねばならないのは、殺された駿ちゃんのお父さんだろうということである。

 この方の発言が新聞に載っていた。「腹が煮えくりかえるように憎い。極刑にしてやってほしい」などと言っているのだが、無理もないと思う。しかし、こういう思いを一生心に抱えて過ごすなら、この人こそ最大に不幸、悲惨である。憎しみの心を一生抱いて、その心は晴れることはない。

 主の言葉に「心に人を憎む者は人を殺したのと同じである」、この言葉は今のこの駿ちゃんのお父さんにとっては、あまりに酷であろう。たとえ、イエス様のお言葉であっても、このくらいの憎しみを抱くのは当然でないか、だれも非難できはしないと思う。

 けっして、次のようなことは言えるものではない。「怒っちゃいけません。憎むのは罪です。キリスト様は言ってます。なんじの敵を愛せよと。さあ、あなた、彼を赦しましょう。キリストも私たちを許してくださったのですから」、こんなことを言おうものなら、ぶちのめされるかもしれませんよ。

          *

 先日の新聞では中1の子は駿ちゃんを裸にして8階の柵に上に立たせて後ろから突き落としたらしい。そういう情報がはいるたびに駿ちゃんのお父さんの心には憎しみの心がのしかかるだろう。誰もこの心をとがめることは難しい。だからと言って、そのお父さんの心は闇が晴れるわけではない。

 かつて、終戦後だったが、息子を殺された母親がいた。その人が、その犯人に面会に行って福音を語った。ついにはその犯人を養子にして家に受け入れたという話を聞いたことがある。

 正確なことは忘れているが、すばらしい実話だ。こういう桁はずれの愛は、神様から頂く聖霊の愛のほかには考えられない。

 この母親とて、単なる律法的愛の行為として、その犯人を許したり、愛したりすることは、出来たはずはない。神の愛が働かなければ到底できることではない。

          *

 ここで、聖書の言葉を思い出したい。

「キリストはわたしたちの平和であって、敵意という隔ての中垣を取り除き、彼にあってひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」(エペソ2・14〜16抜粋)。

 このような強力なキリスト介入の信仰がひとたび働くなら、人の心には奇蹟が起こるのです。そのような奇蹟を、私は期待する。

 これはまず。私たちの霊の領域で起こる。これは信仰の第一歩である。実は、初期的な信仰なのである。そのことを書きたい。

 先日、高砂教会で行われた「日本とりなし委員会」に初めて出席した。その席上で、ある話題から、相模大野教会の皆川尚一先生がこんな思い出の話をされた。

 ある日、先生が洗礼を受けられた恩師の先生に「私は今『潔め』を求めているのです」と言ったら、その時、恩師の先生が大いに怒ったという。

 「何を言う。我々の信仰は『義認』の信仰だ。この『義認』の信仰の中に、聖化も神癒も再臨信仰も皆、はいっているんだ」と机をたたいて言われたそうだ。それを聞いて私は感動した。福音派(潔め派)の言う、「新生・聖化・神癒・再臨」は大いによい。しかし、それはみんな「義認信仰の中に含まれているんだ」というご託宣なのである。それはある意味で本当であると思った。

 我々ペンテコステ派で言うなら、聖霊の賜物である異言、預言、癒し、悪霊追い出し、等々も「義認信仰に含まれているんだ」と言うのである。これは厳密な意味で正しいと思う。

 私の尊敬した四国の金田福一先生は「義認信仰」一本だったと言ってよかろう、しかし、癒し等の奇蹟は再々起ったし、ハンセン氏病の方々と席も食も共にする合同聖会もした。説教中に会衆のなかに「回心」がよく起った。並なペンテコステ派の先生がたは顔負けである。

 金田先生の所で起った「回心」は、アウグスチヌスが経験し、ルターや、ジョン・ウェスレーや、パスカルや、チャールス・フィンニーが経験した「回心」と同じだったと思う。

 なかんずく「義認信仰」が魂にぐさりと刻印される火の燃えるような経験であったに違い無いと私は思っている。この信仰こそは「キリスト直属の信仰」です。この信仰を与えられた人は、あの駿ちゃんのお父さんの言った「煮えくりかえる」ような「憎しみ」であっても、一瞬に消え去ることを私は知っています。その時、真の平和がその人に訪れるのです。

 

2003/7/6

(「日岡だより」第79号)

昔のテレホン・メッセージから   

 電話を使って伝道メッセージを送り出すシステムは永井明先生の発明(?)です。凄いですね。私がテレホン・メッセージを始めたのは沖縄の田中菊太郎先生と万代恒雄先生に刺激されたからです。しかし田中先生の準備周到、緻密な原稿作成、それと対蹠的な万代先生の天才的な語り口、どちらも私には驚異で「あんなことは出来っこない」と思いました。

 ですから、最初は羽鳥明先生の「世の光」の3分間のテープを頂いて「大分・世の光」という名前で発信を始めたのでした。私がいよいよ「テレホン聖書」を始めたのは1989年12月ですから、もうかれこれ23年たっているわけです。

 私のその頃のメッセージは、どこか羽鳥先生に似ていると言われましたが、先生のようには上手に話せません。しかし、時々「……ではないでしょうか」と締めくくるのは、まさしく羽鳥先生の語調が移ったのです。「釘宮先生、あの『……ではないでしょうか』は確信がないみたいで、やめたほうがいいですよ」と率直に忠告してくれたのは高森先生です。これはなかなか言えないことです。「高森先生は偉いなあ」と感銘したものです。

 今でも「……ではないでしょうか」の癖が残っていますが、おいそれと直りませんね。ともあれ、毎日の短いメッセージを用意し、それを毎日マイクに向かって話すのは、慣れてきたとは言っても苦労なものです。最近、やや受信が減ってきています。たぶんインターネットのホームページやメルマガに興味が移った影響だろうかと思います。

 また最近の傾向として「テレホン聖書」よりも「ワッハッハ元気が出る電話」のほうが受信数が多くなっています。今後の方針としては、携帯電話にむけての200字送信を考えていますが、こうしたことについてのご意見やご忠告をお聞きしたいものです。

 時々、自分のしゃべった昔のテレホン・メッセージを聞くことがあります。それはわざわざではないのですが、お気付きでしょうか、どうしても時間がなくて(いや、私にアイデアが湧かなくて、止むをえずですが)、昔のテープをセットすることがあります。(未だにテープを使っています。時代遅れですねえ)。

 こうした時に、この古い自分のメッセージを聞いてびっくりすることがあります。こんなメッセージを送ったことがあったのかと……。すっかり忘れてしまっているのですよ、以下に載せるのは、その一例です。2001年7月6日の「テレホン聖書」のメッセージであります。

          *

 日本人はいったいにロシア文学が好きです、好きというより、尊敬していると言っても良いでしょう。トルストイとかドストエフスキーとかツルゲーネフとか、プーシキンとか。ところが、政治的に言えば、ロシアや旧ソ連、また今のロシアにたいしても、恐怖心や警戒心は一向に心の奥から消えません。

 そう言えば、最近、ロシア文学の江川卓さんが亡くなったそうです。この方のロシア文学への傾倒と、ロシア国家にたいする拒否感の不思議さはなぜか、その個人的体験を聞くと少しは謎が解けるようです。

 江川さんは朝鮮の平壤で終戦を迎えました。直ちにソ連の軍隊がはいってきました。あの頃のソ連には対独戦で兵員が不足して、刑務所から囚人部隊を編成して中国、朝鮮に派兵したのらしいのですが、当時の日本人には不幸なことでした。ロシア兵による日本女性のレイプは日常茶飯事のことでした。

 江川さんのいる家にもソ連兵が毎日のようにやってきて、「女を出せぇ、女を出せぇ」と怒鳴るのだそうです。そのたびに江川さんは家の前に立ったそうです。

 江川さんの父親がもともとロシア文学専攻の人だったそうですが、その影響を受けて江川さんもロシア文学になじみました。そして独学でロシア語を勉強しました。ですから、ソ連兵の応対に出るのは当然かもしれませんが、「女を出せぇ、女を出せぇ」と、どなるソ連兵の前に出るのは容易なことではありますまい。

 ところで江川さんは門前に立ちました。のみかは、堂々と対処したのです。彼は当時、旧制高校の2年生でした。今で言えば高校3年です。戦前のナンバー高校というのは、精神的骨っぷしの強い、思慮深い世界観を持った生徒が多かったのです。江川さんもその一人でした。

 彼はピストルを持ったソ連兵になにも怖じるところがありませんでした。彼の言うには、ソ連兵がピストルの銃口を江川さんの胸にグリグリ押しつけて脅迫してくるのにも恐怖心を覚えなかったと言います。家の中にいる女性群を守るために、「日本人ここにあり」との気迫のかたまりになっていたのでしょうね。

 毎日のようにやってくるソ連兵にたいして、これを繰り返したのですから、これは大したことです。「おかげで……」と後に、江川さんは言ったそうです。「僕のロシア語は下品なロシア語になってしもうて……」と。

 そして逆にロシア文学にたいする思い入れはますます深まったらしいのですが、その辺の心理の機微には伺い知れぬものがありますね。

          *

 さて、この江川さんのことを知って、ひるがえって私自身の心に深く恥じるものがあります。私は少年時代から無教会主義の伯父や、またその主唱者である内村先生の影響もあり、非戦論に組する思いを持ってはいました。

 ところが、特に以前、田舎の素朴なオッチャンだった人が、負傷して大分の陸軍病院に帰ってきたので、その見舞いに行った時、そこで彼は誇りかに支那大陸での現地調達と称する略奪の話や、強姦まがいの自慢話をするのです。このことで、私は政府の大臣諸公や新聞が、この戦争を「聖戦」と呼ぶことに疑いを持つようになりました。

 あの温厚、篤実、平凡なオッチャンを野卑で無恥な暴漢にしてしまう戦争というもの、軍隊と言うものの空気、その母胎には弱い国から何ものかを奪おうとする強国自意識を持ちはじめた日本という国の増上慢がありました。

 明治維新や、その前の日本人の心ある人々の関心は西洋列強の東洋に対する侵略的意図への恐怖でした。しかし、今や我々も西洋の国家群の後にくっついて、弱い国々から甘い汁を吸おうとする根性は見え見えでした。とは言え、

 大東亜戦争というのは、実は日本には気の毒な戦争でした。アメリカの恫喝にあって、及び腰で、カラ元気を出して、相手の隙をついて真珠湾攻撃をしたら意外に成功。とたんに自信ありげに豪傑国家の態度を見せはじめたとでも言いたい図でありました。緒戦の大勝を聞いて、昭和天皇もまんざらではなかったという所見も聞いたことがあります。

 ああいう世相のなかで、非戦論を心に抱くということは、どんなに不安で孤独なものかということは今の人は想像もつかないでしょう。これからの日本で、どんなに正戦論がはびこっても、あの私が味わった孤独感はもう来ないと思います。これからの非戦論者は幸いです。

 当時、私はイエス様のお言葉を読みました。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。からだを殺しても。魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。からだも魂も地獄で殺すことのできるかたを恐れなさい」(マタイ10:27、28)と。

 私は街頭に立って、「この戦争は間違っている」と叫びたかったのです。しかし、私は恐れました。警察や権力や、そして世間を恐れました。後に、警察や検事局や裁判で、自分でいうのも可笑しいですが、堂々と非戦論を訴えたことを考えると、人はこれを理解しにくいかもしれません。「窮鼠、猫を噛む」という奴です。

 権力機構の出先制服組の威圧の怖さというもの、また権力に唆された群衆心理からくるリンチなどというもの、これに抗するには、大きな気力、胆力、それに加えて、言葉を駆使し得る力もいるような気がします。

 コリントでパウロは、あの勇気あるパウロさえも恐怖に襲われたらしくあります。一夜、神様は幻のなかでパウロに現われました。

 そして、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」と、言われました。

 パウロも暴力的危害を加えられる恐怖心を抱いたらしい。人は思いもかけず臆病風に襲われることがある。そういう時、黙っていないことです。語りつづけることです。人は自分の語る言葉で励まされます。江川さんの初心のロシア語でも、それを必死で(多少の勇気をこめて)使っているうちに、次第に彼の心に勇気が増して来たのではなかったか。

 みなさん、信仰の言葉を大胆に使いしょう。そのお言葉があなたを励まします。駆使できる御言を、豊かにたくわえて置きましょう。<く>

 

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